記憶

 昔から時折見る夢がある。
 田んぼに囲まれた古びた民家の、ひび割れた窓の向こうに、少年が佇んでいる。ちょうど小学校に入学したてぐらいだろうか、幼い顔は蒼白く無表情だ。
 ふいに、静寂を裂く爆発音。めらめらと揺れながら立ち上る火の手が、民家を包み込む。
 逃げなきゃ。
 そう思って、少しずつ後退りを始める。
 窓に目をやると、先ほどとは打って変わって薄ら笑いを浮かべた少年が、相変わらず佇んでいる。
 交差する、視線。
 少年の視線に射ぬかれでもしたように、急に身動きがとれなくなる。
 火の手はますます勢いを増し、民家全体を包み込もうとしていた。柱の倒れる音。痛みを感じるほどの熱さに、それでも身体を動かせないでいると――。
 不意に少年が片手を上げると、そのまま前に突きだし、ゆっくりと手招きをした。口元に浮かぶ、冷酷なほどの笑み。崩れ始める民家。しかし、まるで少年の周りだけ空気が隔絶されているかのように、少年はその緩慢な動作をやめない。
 吸い込まれる。少年の手招きに導かれるように、少しずつ身体が前進する。燃え盛る炎に息が詰まる。交差する視線を逸らせないまま、少年の丸い瞳に吸い込まれていく。そして――。
 ガラガラと音を立てて、崩れ落ちた柱が右肩に掠る。呪縛が解けたように、ハッと我に返る。
「……いやあああああっ!」
 たいてい、自分の叫び声で夢から覚めるのだった。

 二五回目の夏――
 息が詰まるほどの晴天を見上げながら、奈美は駅のホームに降り立った。
 無人駅だ。小さい駅舎を抜けると、朝にも関わらずぎらぎらとした太陽が容赦なく照りつけてくる。申し訳程度に設えられた喫煙所で一服する。
 母方の祖父母が住んでいるこの田舎に来るのは何年ぶりだろう、と奈美は記憶を遡る。ずいぶん幼い頃に引っ越して以来、それっきりだったかもしれない。
 今日のようにお墓参りという名目で親戚の会合に招集でもされない限り、二度と再訪しないであろう土地だ。
 自分たちが暇だからって。顔も名前も知らない、遠い親戚という代名詞のみがついた見知らぬ誰かを思い浮かべて、奈美は心の中で毒づいた。どうして私まで駆り出されなきゃいけないのよ、と。
 炎天の下、一面の田んぼの中に延びるあぜ道をゆっくりと歩き出す。数分もしないうちに滲む汗が粒となって頬からしたたり落ち、奈美は今すぐにでも冷房の効いた自分のマンションへ引き返したい気持ちになった。
 しばらく歩いていくと見知った道が現れた。記憶を頼りに親戚の家をきょろきょろと探していると、いきなり背後から声をかけられた。
「あら、もしかして奈美ちゃん?」
 びくりと振り向くと、四十ぐらいの女性が駆け寄ってきた。まるで珍しいものでも見るように、奈美の全身を舐めまわす。奈美は赤いハイヒールを履いた足を隠すように思わず後ずさった。
「まぁ、大きくなって。奈美ちゃんが小っちゃい頃によく遊んだ里子よ。さとねえちゃん。覚えてない?」
「……はぁ」
 気のない返事をする奈美の手を里子は強引にひいていく。しばらく引きずられた後、屋敷と表現した方がしっくりくるほど立派な構えの民家に押し込まれた。どうやらここが目的の場所らしい。
 迷路のような廊下を里子の後をついてするすると進んでいくと、話し声が聞こえてきて、次第にそれは喧騒に変わった。声から察するにほとんどが老人で、無意識のうちに奈美の表情は険しくなる。
 がらり、と扉が開いた瞬間、好奇の目が自分に注がれるのを感じた。一瞬の間、喧騒が停止する。予想した通り、六十七十を過ぎた老人たちがテーブルを取り囲んで、話に花を咲かせていたのだ。誰も彼も、全く見覚えがない。
 広い部屋の隅に、ちょうど人がいないぽっかりと空いたスペースがあるのを目ざとく発見した奈美は、なるべく目立たないようにそこへ移動しようとした。
 しかし、突然現れた若い娘の存在に、部屋中の視線が釘付けになっていた。奈美ちゃんかね、とどこかでぽつりと声がした。派手になって、とも。奈美は老人特有の、この類の噂話が大嫌いだった。
 苛立たしげに溜息をついて、奈美は部屋の隅に座り込んだ。こんなところに奈美の話し相手になってくれる人がいるわけない。手持無沙汰だ。何人かの友人の顔を思い浮かべて電話をしようとスマートフォンを取り出したが、ここで電話などしたらまた親戚の老人たちの好奇心のターゲットになりかねない。奈美はそっとスマートフォンをしまい、壁にもたれかかった。
 奈美を案内してくれた里子とかいう女性は、さっきから部屋を行ったり来たりして、甲斐甲斐しく昔話に付き合ってあげている。その中で自分の名前が呼ばれるのを、何度か奈美は耳にした。肩まで伸ばした巻き髪をくるくると弄びながら、いつまで続くとも分からない苦痛の時間に耐えていた。お墓参りは何時からだったか。畳の上で体育座りをしながら、遅々として進まない時計の長針を漫然と眺めていた。
「奈美ちゃん」
 降ってきた声に顔を上げると、里子がお盆を持って立っていた。
「ほら、奈美ちゃんも手伝って」
 露骨に嫌な顔を見せたのにもお構いなく、里子はまたもや強引に奈美を台所に引っ張っていった。人数分のグラスがいくつかのお盆に分けてある。結構なことだ、と内心辟易しながらも素直にペットボトルのお茶を注いでいく。蝉の鳴く声が妙に神経を逆撫でする。早く帰りたいと心底思う。
 お盆を大部屋に運んでいると、廊下の曲がり角から急に人影が現れた。
「あっ、すみません」
 もう少しでぶつかりそうになるのを素早く避ける。人影は五十ぐらいの眼鏡をかけた男性だった。会釈だけして通り過ぎようとすると、何やら男性の様子がおかしいことに気が付いた。
 顔を上げると、男性と目が合った。もう一度軽く会釈をするも、男性は奈美の顔を凝視したまま反応をしない。眼鏡の奥から注がれる視線はどこか冷たげで、注いだばかりのお茶がもう温くなるほどの暑さにも関わらず、奈美の腕に鳥肌が立った。
 奈美は自分を貫くような男性の視線から目を逸らして、いそいそとその場を去ろうとした。去り際に振り向いてみると、やはり男性は直立不動のまま、首だけを奈美の方へ向けてこちらを見つめている。得体の知れない恐怖が奈美を襲い、思わず早足になる。一体、誰なのか。どうして自分をあんな目で見つめるのか。動悸が早まる。
 なんとかお茶を配り終わってしばらく台所で休んでいると、そろそろ寺に出発する時間だと里子が知らせにきた。重い腰を上げて荷物を取ると、炎天の中へ飛び出す。
 幸いなことに、寺までそれほど距離はなかった。鬱蒼と茂る林に守られるようにしてひっそりと佇む本堂と、裏手に墓地がある。木漏れ日が地面に落ちて、影がさわさわと揺れる。
 奈美は自分の服装を見返して急にばつの悪さを感じた。つい、普段遊びに行くときのような感覚で来てしまったのだ。ノースリーブのシャツはラメの入ったダルメシアン柄、ダメージジーンズに赤いハイヒール、とてもじゃないが平気な顔をしていられない。
 前を行く親戚が続々と寺の本堂へ吸い込まれていくのを横目に見ながら、悩んだ末に奈美は林の中へ逃げ込んだ。どうせ誰とも会話などしやしないし、自分ひとりがいなかったところでお墓参りという行事の進行に何の支障もないだろう。そう考えると、少し気が楽になった。
 林を墓地の方へ抜ける道を進む。太陽はちょうど真上に昇ろうとしていて、日陰を歩いても容赦なく体力を奪っていく。少し休憩しようと手ごろな岩に腰を下ろしたとき、墓地の方向に人の気配がした。
「あ……」
 気配がした方向に視線を向けると、さきほど廊下で出会った不審な男が、やはり奈美の顔をじっと見つめながら立っていた。とっさに腰を上げると、男はゆっくりと奈美に近づいてきた。
「君は……」
「いやっ! 来ないで!」
 必死に後ずさるも、ハイヒールを履いた足では思うように動けない。男は歩調を速めて、奈美との距離を詰めようとする。
「君は、私の息子を……」
 きらり、と男の背後で何かが光った。それが何かを正しく認識するより早く、奈美は男に背後を向けて走り出した。
 林を抜けると、男はもう追ってこなかった。奈美は走るのをやめて息を整えた。空は憎らしいほど青く晴れ渡っている。
 男の潜む寺へ行くことができず、かといって親戚の家へ戻る気にもなれなかった奈美は、とりあえずあてもなく歩き出した。
 どこを見渡しても変わらない、平凡な田舎の風景だ。遠くから蝉の鳴く声が響く。平和そのものである。
 君は、私の息子を……。
 ふと、林の中で男性に言われた言葉を思い出す。あの男の息子を、自分はどうしたというのだろう。そもそもあの男のことなど知らないのに、どうして息子と自分が関係するのだろう。どうして……。
 あぜ道を曲がった瞬間、目の前に現れた光景に奈美は全身が震え上がった。同時に、長年封じ込められてきた記憶が恐ろしいほど鮮明に甦る。確かにあの男のことは知らない、が。
 ――夢の中の少年を、私は、確かに知っている……。
 目の前にあったのは、昔から奈美を苦しめ続けてきたあの夢の中で、少年がいた民家だった。正確には、民家の焼け跡、だった。
 膝から力が抜け、奈美は前のめりに倒れこんだ。頭の中が一つのことでいっぱいで、身体を起こす余裕もない。赤いハイヒールが道端に転がる。
 奈美は目を閉じた。甦ってきた記憶を一つ一つ確かめるように。
 ――そう、あれは……確か、かくれんぼをしていたんだ
 ――少し驚かせてやろうと思って、彼が隠れた廃墟の入り口をふさいでしまって
 ――その後、偶然、本当に偶然に火事が起きて
 つまり、あの男は。
 ――それで、彼は……。
 少年の、夢に出てくる少年の、父親……。
「――っ!」
 声にならない叫び声が、遮るもののない空間を突き抜ける。靴が脱げたのも意に介さずに、一直線に駅へ走る。
 無人駅の駅舎に転がり込み、身を隠すように隅に縮こまってやり過ごした後、ようやく来た電車に奈美が乗れた頃には、西の空は茜に染まっていた。

 自宅マンションへ帰った頃にはとうに夜が更けていた。ベッドにどさりと荷物を下ろして、エアコンのスイッチを入れる。
 化粧をさらりと落としてリビングのソファに腰を下ろした瞬間、言いようのない疲れが奈美に襲いかかった。
 ――私は関係ない。私は悪くない。
 さっきから呪文のように幾度となく言い聞かせてきた言葉を、なおも言い聞かせるように頭の中で反芻する。
 ――私が殺したわけじゃない。運が悪かっただけなんだから。
 夢の中の少年がふと脳裏に甦る。蒼白い肌、薄笑いを浮かべて手招きする仕草、その瞳の、瞳の奥に宿るのは、刺すような視線は、まるで――。
「いい加減にして!」
 もうたくさんよ、と奈美はサイドボードの煙草に手を伸ばす。忌々しい記憶を追い出そうとするかのように、胸いっぱいに煙を吸い込む。忘れてしまいたい、全て忘れてしまえばいい。そうすればきっとなかったことになる、過去も、あの夢も――。
 荒々しく煙草をもみ消すと、すぐに電気を消してベッドへ潜り込んだ。まるで、寝れば全てが清算されるとでもいうかのように。
 満月の夜だった。

 ……満月の夜だった。
 風もないはずのリビングのテーブルから、どういうわけか灰皿がことり、と落ちたことを、深い眠りの淵にいる奈美は知るよしもない。
 消えきっていなかった煙草の吸い殻が、絨毯に一つ。焼け焦げた匂いも、立ち上る一筋の黒い煙のことも、深い眠りの淵からは、知るよしもない。