序・終わりの始まり

 ほんのりと暖かい、だけど冷たさのまだ残る空気の中を桃色の花弁が舞い落ちる。地面に敷き詰められた花弁の絨毯は、既に無数の靴に踏まれて茶色に変色していた。真新しい制服に黄色のスカーフをつけた新入生が、続々と校舎の扉へ吸い込まれていく。
 そんな風景をアリッサは、二階にある休憩室から眺めていた。
「どうして桜の花って、こんなにも郷愁に似つかわしいんだろうか」
 アリッサの呟きに、隣で熱心に楽器の手入れをしていたエリンが顔を上げた。
「郷愁? どうかしたの、アリッサ?」
 そう問いかけると、アリッサははっとしたようにエリンの方を向いた。
「エリン、君はいつから人の心を読めるようになったのかい?」
「え、何を言ってるの。ばっちり声に出てたわよ」
「うそ!? 出してないよ!」
「出てました」
 エリンが笑いながらも冷静に切り返すと、アリッサは顔を赤らめて窓枠に伏せった。よほど恥ずかしかったのか、声にならないうめき声を上げている。
 丁寧に結わえられた長い髪に、蝶を象った紺色のスカーフがくくりつけられている。その上に一片の花弁がひらりと舞い落ちた。
「いいじゃない、アリッサの詩なんて何度も読んでるし、恥ずかしがることじゃないわよ」
 エリンの言葉にアリッサは伏せった態勢のまま首を横に振った。花弁がふわり、ともう一度舞い上がり、新入生の群れの中へと果敢に落ちていった。
「それとこれとは話が別なの。あの詩を書いてるアリッサ・メイトと、今ここにいるアリッサ・メイトは別人だって思ってほしいの。この気持ちエリンにもわかるでしょ?」
 わからない、とは口に出さず、エリンは再び楽器の手入れを再開した。話が途切れたのを感じ取ってか、アリッサはゆっくりと顔を上げた。真下に延びる茶色の道に新入生の姿はもうなかった。
「わたしたちが入学してもう一年も経つなんてね。なんだか実感がないな」
「そうね」
 窓に吹き込む風は緩やかで温い。一年前の今日も、誰かが自分たちと同じ風景をここから眺めていたのだろうか。
「そろそろ行かないと」
 エリンが立ち上がった。アリッサも一つ溜息をついた後、エリンの後を追った。

 リトワール国立学院。それが彼らの通う学校の名だ。
 "世界で一番美しい国"の二つ名をもつリトワール帝国にあって、高い文化的素養をもった人物を育成することは国にとって欠かすことのできない責務である――その理念のもとに設立された同校は、熾烈な入学試験をくぐり抜けた精鋭たちの集う、全寮制の芸術学校だ。毎年、リトワール帝国やその周辺国、あるいは遥か遠方の国から何万という入学希望者が殺到するのだが、その中から選ばれるのはたったの五十人足らず。非常に狭き門である代わりに、入学できた者の将来は約束されているも同然なのであった。
 そんな選ばれし精鋭たちが不安げな面持ちで講堂に整列しているところを見ると、やはり彼らも感情をもった人間なんだな、とアリッサは不思議な感覚にとらわれた。もっとも、その当人も選ばれた精鋭であることには変わりがないのだが。
 舞台袖の暗がりから講堂の後ろの方を見やると、式典のために呼ばれた楽隊がそわそわした様子で控えている。その中にエリンの姿を見つけると、アリッサはひょっこりと頭を出して手を振った。エリンもそのことに気が付いて、戸惑いながらも控えめに手を振りかえした。
「アリッサ・メイト!」
 背後からひそやかながら鋭い声で名前を呼ばれて、アリッサは振り上げた手を勢いよく引っ込めた。振り返ると、学院長のマーレットが両手を腰に当てた格好でアリッサを睨んでいた。
「みっともないところを新入生たちに見せるんじゃありません。あなたは優秀なのは結構だけれど、なんですの、お行儀が良ろしくないといえばいいのか、自由奔放といえばいいのか……」
 またいつもの説教だ、と素早く感じ取ったアリッサは、マーレットの傍をするりとすり抜けて裏へと引っ込んでいった。マーレットは追いかけることを諦めて、一つ大げさな溜息をついた。
 裏方で入学式の準備をしている職員の間をくぐり抜け、控え室につながる廊下までやって来た。天窓から木漏れ日が落ちてきて床や壁にちらちら動く影を映している。アリッサは一つ伸びをして、壁にもたれかかった。
 入学式で、学生代表として自作の詩を一篇朗読すること。それが今日のアリッサに課せられた使命だった。
 人前に出ることに対する度胸はあるつもりだし、朗読する詩もこの場に相応しいものを選んだ。それでも、無意識のうちに緊張しているのかもしれない。頭上で揺れ動く葉のさざめきは、天窓を隔てて遥か遠い世界の出来事のよう。
 ここへ来てもう一年、か。
 壁の向こうにいる新入生たちに思いを馳せる。自分も一年前は、真新しい緑の制服に身を包んで、これから始まるリトワールでの生活に想像を巡らせていたのだろう。当時の気持ちを思い出そうとしても、もう生々しい感触を伴って甦ることはない。そのことに僅かに寂寥感を覚えて、アリッサは目を閉じた。
「アリッサ・メイト」
 今度は諭すような優しい声だった。マーレットがいつの間にか隣に来ていた。
「そろそろ式典が始まります。準備を」
「……はい」
 マーレットの後について講堂の方へ戻る途中、微かに聞き知った旋律が聞こえてきた。リトワールでは儀式の開始によく使われる曲で、エリンの担当する楽器が主旋律を奏でることをアリッサは知っていた。式典が始まったようだ。
 二人が舞台袖まで来ると、マーレットはアリッサを手で制して、自分は舞台の中央へと歩み出て行った。楽隊が演奏を止め、音量を抑えて別の曲を奏で始めると、マーレットは凛としたよく通る声で話し始めた。歓迎の挨拶と自己紹介、それと学校生活を送る上での心構えを、簡素ながらも熱心な口調で述べた。背後で控えめに流れる音楽と相俟って、講堂は独特の雰囲気に包まれている。初めこそおどおどしていた新入生たちは、話を聞いているうちに瞳を輝かせ、期待感の溢れる顔つきへと変貌していった。
 アリッサの鼓動は知らず知らずのうちに速くなっていた。マーレットは話し終えると、これから当校の学生が作品を披露しますと前置きをした上で、アリッサに向かって手招きをした。一息ついてから操られるようにして舞台へ歩み出る。それから何の気なしに講堂の後ろの方を見やると、楽隊の最前列でずっとこちらを見つめているエリンと目が合った。エリンは満面の笑みを作り、演奏中だというのに片手を挙げて小さく振った。アリッサは身体の内部が急速に熱を帯びてくるのを感じた。今日朗読する詩は、エリンの知らない作品だ。
 エリンの射るような笑顔からなんとか目を逸らすと、今度は五十対の瞳から放たれる熱い視線が一直線に身体中に突き刺さる。制服にじとりと汗が滲み、その不気味な冷たさに思わず身震いをした。隣ではマーレットが鋭い表情で早くしなさい、と促してくる。
 最初の一言さえ言ってしまえば、あとは口が自動的に話してくれる――。
 かつて故郷で教えられた言葉を思い出した。その教示が自分にとって有効であることも、過去の経験から実証済みだ。
 アリッサは深いため息とともに瞼を閉じた。まるで自分以外の何もかもを拒絶するかのように。そして詩を一文ずつ心の中で反芻する。再び開けられた瞼の奥に潜む翡翠色の瞳は、先ほどまでとは別人の光を宿していた。
「『終わりの始まり』」
 ゆったりと講堂を満たし続けていた旋律が、ぴたりと止んだ。代わりにアリッサの力強い声が講堂に響き渡った。

「どうしてそんなに嫌がるのよ? 良かったわよ、アリッサの詩」
 式典を終えて休憩室に戻ってきたエリンは、ここへ来てからずっと顔を机に伏せ続けている少女の扱いに困っていた。エリンが声をかけても、ひたすらくぐもった声でうめき続けている。
「わたしは知らない作品だったけど。感動したわ。春っていう季節がもつ独特な雰囲気がよく出てた」
「……もう嫌だ」
「どうしてよ? 先生だって認めてるのよ、あなたはいい詩を書くって。そもそもまだ二年生であんな場に――」
「違うんだよ、違う。君の言ってることはまったくの的外れだ」
 アリッサは顔を上げた。その表情からは苦渋の色がにじみ出ているものの、口調は真剣そのものだ。
「あの詩を作ったアリッサ・メイトと、今ここにいるアリッサ・メイトは別人だと思ってほしいんだよ!」
 なんだか前にも聞いたことがある言葉だ。エリンが目をぱちくりさせていると、アリッサは再び机に伏せった。が、その勢いが強すぎて、机がごんと鈍い音を立てた。
 静寂。痛かったであろうに、何事もなかったように微動だにしないアリッサ。エリンは堪えられなくなって笑い出した。
「……笑うなよな」
「あはは、ごめんごめん」
 アリッサは居心地が悪そうに体勢を変えた。
「その気持ちはわからないけど……。でも、アリッサが詩を書いていなかったら、こうしてわたしたちが出会うこともなかったんだし」
「……そうかね」
「そうよ」
「……」
 再び、静寂。
 一片の花弁が迷いこんだように窓から舞い込んできて、目の前の少女の紺色のスカーフに、薄桃色の彩りを添えた。