進むべき道

「じゃあ、また明日」
「あれっ、エリン、お昼どうするの?」
「……今日はやめとく」
「そっか」
 器楽科のクラスメイトに手を振って別れると、エリンは顔に張り付けていた笑顔をとった。連れだって食堂へ向かう二つの背中を見送ることなく、エリンは反対方向へ歩き出した。今日はもう寮へ戻って休むつもりだ。
 エリンが通うリトワール国立学院では、午前中の講義のみが必修だ。自主性にもとづいた感性を育てる教育方針のもと、午後はおのおので時間の使い方を決める。自主講義に参加しても良いし、寮で自学をしても良い。もちろん精一杯遊ぶことも、自堕落に過ごすことだって許されている。必修講義以外で、学院が学生の行動を縛ることはない。ただし、定期的に行われる考査で結果を残すことが前提だ。
 エリンは寮に戻って休むつもりだった。今日行われる自主講義の中で、特に興味を惹かれる科目がないのだ。ルームメイトのアリッサも夜まで寮に戻ってこない。一人で過ごすには絶好の機会だった。
 山道を越えるとエリンは寮にたどり着いた。まだ午前の講義が終わったばかりだからか、寮はひっそりとしている。たいていの学生はこの時間に仲の良い友人と昼食をとってから、自主講義に参加することが多い。そうでなくても寮に戻る人はほとんどおらず、学院内の施設を利用して過ごしている。入学したてでまだ新鮮な気持ちを持ち続けているのだろう。
「おかえりなさい」
 玄関で寮監の寮監の挨拶に会釈を返すと、エリンはそそくさと二階へ上がり、右手奥にある自室に引きこもった。
 窓を開けると、さわやかな風が吹き込んできて部屋の中に沈む澱んだ空気を追い出してくれる。空は憎らしいほど澄み渡っていた。ところどころ刷毛で塗ったように薄雲がかかっている。エリンは窓辺に肘をついて、眼下に森が広がるばかりの景色をなにともなくぼうっと眺めた。その森をすっぽりと覆う空、ただただ同じ色ばかりが続く空を遥か彼方まで辿っていくと、自分が遠い異国の地にいるのだということを突きつけられる。故郷の家族たちも同じ空を見上げているのだろうか。
 エリンは窓辺から離れた。我に返ったように、無造作に置いた荷物を片づける。制服を脱ぐと、自分を縛る縄が解けたかのような解放感を覚えた。エリンは脱いだ制服を申し訳程度に畳むと、手に持って寮監のところへ向かった。
「洗濯お願いします」
「あぁ、制服ね。そういえば、確か預かっていたのがあったわね。取ってくるからちょっと待ってて」
 寮監は奥の部屋に消えていった。
 身の回りの世話は、ある程度寮監がやってくれる。自分の部屋の掃除ぐらいは自分でやらなければならないが、洗濯は寮単位でまとめてやってくれる。食事については、各自の部屋に備え付けられている台所を使うこともできるし、あらかじめ寮監に言っておけば弁当を用意してもらうこともできる。学業に専念できるようにとのことだが、エリンは初めて寮を案内されたときに、この恵まれすぎた環境にひどく驚いたものだった。
「はい。今日預かった分は、明日以降取りにきてね」
「ありがとうございます」
 寮監から制服を受け取って、エリンは再び自室に戻った。
 器楽科に所属するエリンは、部屋に戻ってからの自主練習が日課となりつつあった。なんとしてもリトワール国立学院を良い成績で卒業し、食いっぱぐれないようにしないといけないのだ。いくら将来が約束されている学院だと評されていても、やはり重荷はエリンの肩にずしりとのしかかっている。今日も自主練習をしようと楽器を取り出したものの、どういうわけか練習に手をつける気になれなかった。一人で過ごすにはいささか広すぎる部屋に、エリンはごろんと寝転がった。窓枠に切り取られた四角い空に、雲が流れていく。

 リトワール国立学院は、もともとリトワール帝国の上流階級にのみ入学が許された学院だった。だが、あるときを境に大陸全土から人材を集めようと入学試験が導入され、一般にも広く門戸が開かれた。エリンの生まれたのがちょうどその時期と重なったのが、エリンにとって最大の不幸だった。
 エリンには父親がいない。エリンが生まれた直後に失踪したと聞いている。以来、七人の子供を母親が女手一つで育ててきたが、生活は苦しかった。お金がなければ教育を受けることができない。教育を受けることができなければ、高等職に就くことができずいつまで経っても貧しいままとなってしまう。将来を悲観した母親のもとに、リトワール国立学院が入学試験を導入したという知らせが舞い込んできたのだ。
 白羽の矢は生後まもないエリンに立てられた。リトワール国立学院を卒業すれば、文化を背負う人材として将来が約束されている。ありったけのお金をつぎこんで楽器を購入し、教室にも通わせ、兄姉たちが安い賃金で身を粉にして働き家事にいそしむ傍らで、エリンはひたすら音楽の英才教育を受けることとなった。まだ何も知らなかった頃は、そんな境遇にはしゃぎもした。だが、現実を知るにつれてエリンの心を占めるようになったのは義務感だった。まるで操り人形のようにものを見、頭を働かせ、手を動かす。エリンの表情からだんだんと色彩が失われていくのを家中の誰もが気づいていたが、誰もが見ないふりをしてやりすごした。何年も続いたそんな生活の末に、エリンはリトワール国立学院の入学許可証を手にしたのだった。

 故郷のグロリアからここまで来るには、大陸を横断しなければならない。鉄道を使って、片道でも丸二十日かかる長旅だ。卒業するまでは家に帰ることができない。卒業してからも、あるいは……。
 思いを巡らせていると、知らず知らずのうちにエリンは難しい表情になった。窓の外を流れていく雲は相変わらずゆったりと、空の高さに臆することも、世界の広さに戸惑うこともなく、吹き抜けていく風に身をまかせて大地を見下ろしている。目に痛いほどの蒼穹がエリンの心をどろどろと溶かしていく。
 このまま溶けてしまおうか。そんな甘い誘惑が心にふっと浮かび上がる。外を見つめ続けていれば、いつかあの雲のようになれる気がした。行くあても帰る場所もない、何にも縛られることなく、運命にあがくこともなく、ただ今生きている世界の大きな流れに寄り添うように、悠然とたゆたう儚い存在。手を伸ばしても、人には決して掴むことのできない存在。
 エリンはころりと寝返りを打った。視界から蒼穹が消え、代わりに無機質な木製の扉を映し出す。エリンの行く手を阻んでいるようにも、あるいはエリンに開けられるのをじっと待っているようにも見えた。いずれにしても、エリンの目の前にはたった一つの扉しかないのだ。扉を開けて先へ進むか、開け方を知らないまま無惨に散るか、エリンに用意された選択肢はたったそれだけだった。
 エリンはもう一度寝返りを打った。絨毯の上にうつぶせになると、羊毛の匂いが鼻につく。これほどまでに暗闇を求めたことが今まであっただろうか、とエリンは自問した。瞼を閉じると、眠くもないのになぜだか妙に心地いい。均一な、闇。すべてを覆い尽くす闇に魅了されてしまったように、エリンは二度と目を開くことができなかった。

 瞼の奥に守った瞳ですらも灼かれてしまうような眩しさに気づいて、エリンは目を開けた。喉が痛い。いつのまにか眠ってしまったようだ。窓から見える景色は一変、薄雲の向こうに隠された月が、闇夜に鈍い光をぼんやりとにじませて自分の存在を主張している。キン、と金属が触れあうような音は台所からだ。エリンは身体を起こした。
「あ、生きてた」
 台所からひょっこりと顔を出したアリッサが、エリンの様子を認めて言った。手に握ったスプーンを顔の横で小刻みに振る。
「スープ、あるけど。飲むか?」
 アリッサの言葉を聞いて、香ばしい匂いが部屋に充満していることに気づいた。とたんに空腹を感じて、エリンは首を縦に振った。
「アリッサ、料理できるんだ」
 台所から運ばれてきたカップに口をつけると、エリンは意外そうに聞いた。アリッサという少女は謎に包まれている。見た目や言葉遣いから受ける印象と、台所に立つアリッサの姿がうまくかみ合わないのだ。こってりとしたスープなのに、野菜の甘みを引き出してうまく絡ませているから、後味は油っぽくなくすっきりしている。それなりに料理の経験がないと作れない味だろう。
「できない」
 アリッサは切り捨てるように答えた。「これは寮監のおすそ分け」
 エリンは合点がいった。もう一口飲むと、身体の一番奥までスープが染み渡るようだった。再び、心が溶かされていくのを感じる。だが、それは昼間感じたものとは違う感覚だった。アリッサが美味しそうにスープを飲んでいる。エリンは目を細めて、その姿をじっと見つめた。
「……何?」
 アリッサはどこか居心地が悪そうに身を捩らせた。それを見たエリンの口元が緩む。
「なんでもない」
 エリンはスープを飲み干すと、アリッサの追及を免れるように素早く台所へ消えていった。石鹸の滑らかな泡でカップを包み込みながら、エリンは何でもない日常を噛みしめた。
 大丈夫。もう暗闇を求めたりしない。
 明日はクラスメイトたちとお昼を食べよう。エリンの胸に決意が宿った。