ありふれた出会い方

「ちょっとちょっとちょっとエリン、君ー!」
「何よぉ、東棟って言ったのはアリッサじゃないの!」
「そんなことどうだっていいんだよ! 入学五日目にして遅刻だなんて大馬鹿者みたいじゃないか! そもそも今朝は普段よりも早く起きたはずだろう? そのために昨晩は早く寝たはずだろう? それを我々は……」
 いてっ、と短い悲鳴が前を走る赤毛の少女の口から漏れる。次いで、舌噛んだぁ! と半べそをかいたような声。そりゃこれだけ全力疾走しながら長々と喋ろうとすればそうなるわよ、とエリンは心の中で溜息をついた。
 午前の講義はとうに始まっている時間で、廊下には人影一つ見えない。静まり返った空間を自分たちのけたたましい足音で破りながら、左右に並ぶ今まさに講義が行われているであろう教室の扉に向かってエリンはひそかに謝った。

 アリッサとエリンが入学して早五日。学院生として本格的な講義が始まる日だ。
 これまでの四日間はリトワール国立学院の理念や制度、学生生活全般についての説明や、施設の案内を学生寮の大部屋で受けてきた。早起きする必要もなかったし、毎日同じ部屋に通えばよかった。それが四日続いたことで気が緩み始めているんじゃないか、と指摘したのは四日目の夜、アリッサだった。
 それを受けていつもより早く寝ようかと提案したのはエリンだ。提案は功を奏し、二人はまだ窓の外が薄暗い頃に目を覚ますことができた。講義まではまだ時間がある。アリッサは机に向かい勉強を、エリンは備え付けの台所で弁当作りをと、おのおの余裕を楽しんだ。
 ……が、ここからが誤算だった。悠々と学生寮を出発し学院に向かったところまではよかった。早朝のみずみずしい空気の中、二人は散歩でもしているような気分で悠々と歩いていた。すると、エリンがふと講義室の場所を聞いていなかったことを思い出し、アリッサにその話題を振った。アリッサはあっさりと東棟の大講義室だ、と答えたのだ。
 東棟の大講義室に到着すると、学生は誰もいなかった。一番乗りぃ、とアリッサは軽快な足取りで扉をくぐる。エリンは対照的に不安げな表情で、とりあえず席についたもののきょろきょろと辺りを見回していた。
 過ちに気付いたのは始業の鐘が鳴ってからだった。講義室には相変わらず二人しかいない。おかしいな、と呟きながらメモを見返したアリッサの顔が、急に青ざめた。西棟、つまり本棟を挟んでちょうど向かい側の教室、とそこには記されてあったのだ。二人の絶叫が大講義室に響き渡る。すぐに荷物をしまって部屋を出ると、ひっそりとした廊下をどたばたと駆けていったのだった。

 東棟から本棟への廊下を渡った直後、ちょうど曲がり角に差しかかったときだった。
「きゃあ!」
「うわぁ!」
 派手な音を立ててエリンが転倒した。人にぶつかったのだ、と認識したのは目の前にも尻餅をついた男がいたからだ。男はしきりに肩をさすりながら、ぼそぼそと悪態をついている。
「エリン、大丈夫か?」
 アリッサが慌ててエリンに駆け寄って手を差し伸べる。呻き声をあげながら大丈夫、と返事をして、アリッサの腕に体重をかける。立ち上がろうとした瞬間、左足の踵が何か固いものを踏んだ。
「え」
 素早く振り返ると、薄桃色の手提げ鞄から木箱が半分ほど顔を覗かせている。エリンの弁当だ。アリッサの手を振りほどいてしゃがみこむ。恐る恐る木箱を持ち上げると、冷めて木箱の形に固まったおかずが廊下にへばりついていた。香ばしい匂いが辺りをむなしく満たす。
 エリンは弁当の残骸に向かってまるで謝罪でもするかのように、両手を床についてがっくりと頭を垂れた。
 しかし、いつまでもそうしているわけにはいかない。講義は待ってくれないのだ。エリンが肩に掛けていたもう一つの鞄からハンカチを取り出し、おかずを木箱に還そうとしたとき、アリッサの刺々しい声が閑静な空気を切り裂いた。
「ちょっと君、一体どこ見てるんだ?」
 エリンは手を止めて振り返る。ぶつかった相手の男は埃を払う仕草を終えると、顔に垂れた金髪を無造作に掻き上げた。半開きの瞼から青い目が覗き、アリッサを気だるげに見下ろしている。
「おいおい、勘弁してくれよ。俺は普通に歩いていただけだぜ。ぶつかってきたのはあんたらだろう」
 妙に間延びした声だった。怒っているというよりは呆れていると形容した方が正しいかもしれない。アリッサはというと男とは対照的で、全身から敵意をむき出している。今にも飛びかからんという勢いだ。
 エリンは立ち上がって、二人の間に割り込んだ。
「ごめんなさい。あなたの言う通りで、よく確認しないで走っていたのが悪いです」
 深々と頭を下げる。
「……そうだな。変な言いがかりをつけてすまなかった」
 アリッサも素直に同調すると、頭上から男のため息が聞こえた。
「わかったから。もういいから。そんなに仰々しく謝られるとこっちが参っちまうぜ」
 二人は同時に顔を上げた。男は呆れたような表情を変えずに、あさっての方を向いている。
「すまなかった。……実は今から初回の講義があってな。遅刻しそうだからこれで」
「アリッサ、あれ片付けないと」
「あ、そうか」
 話を切り上げて二人の意識が弁当に向かったとき、男が突然くくく、と忍び笑いを漏らした。アリッサが再び敵意をまとう。
「何がおかしい」
「いや、教師の言うことはよく聞いておくこった、と思ってな。――今日は午後からだぞ」
 アリッサの目が点になる。男はにやにやしながら廊下の窓を開け、窓枠に腕を置いて寄りかかった。吹き込む風が男の金髪を柔らかく撫でていく。もう二人のことなど眼中にないといった様子で、窓の外に向かって目を細めてみせる。
 エリンは必死に記憶をたぐり寄せたが、膨大な量の説明の中から初回の講義についての説明を拾い上げるのは不可能に近かった。考えれば考えるほど、そういえば午後と言っていたような気もするし、やはり午前と言っていた気もする。だが、目の前の男が嘘をつく理由もない。と、エリンの頭に一つの疑問が浮かんだ。一体この男は何者なのだろうか。
 新入生の講義の予定を知っているということは、やはり新入生か。しかし、リトワール国立学院の入学制限は二十歳までである。男の風貌を見ると、とてもじゃないが同じ新入生とは思えなかった。では、教師か学院の職員か。粗野な態度にやや引っかかるものがあるが、芸術に携わる人間は少なからず変わっているとどこかで聞きかじったことがある。そちらの方がもっともらしいように思えた。
 ともかく、弁当は早く片付けないといけない。それに、いくら嘘をつく理由がないといっても、男の言うことが本当だという証拠もない。エリンはそれ以上男と関わり合いになるのをやめて、窓を開けたことで薄まりはしたが、依然として漂い続ける匂いのもとへと屈みこんだ。
「君、やけに詳しいが新入生か? 確か入学には二十歳までの年齢制限があったはずだが」
 アリッサも同じことを考えていたらしい。そしてアリッサには遠慮がなかった。中身を木箱に戻しいれたエリンは、予備のハンカチを取り出して廊下を拭きはじめた。
「……老けてて悪かったな。これでも十九歳で新入生だ」
「はぁ?」
「えっ?」
 はらはらしながら二人の様子を見上げていたエリンも思わず手を止めた。
 十九。エリンの故郷グロリアでの十九歳は、大人びた表情を作ってみても、どこか幼さがにじみ出るものだ。だが、目の前の男は完全に世間を知り尽くした大人の顔である。他の国ではそうなのかもしれない、と一人で合点しようとしたとき、男はアリッサをまっすぐに見据えて言い放った。
「あんたの一歳上だぜ、アリッサ・メイトさん」
「! 君、どうして私の名前を」
 喉から絞り出したようなアリッサの細い声。エリンの背中にぞくりと冷たいものが走る。そんな二人をひとしきり面白そうに眺めた後、男は窓から離れて歩き出した。
「俺はアデレイドだ。ま、有名人同士仲良くしようぜ? そうだな、アデルとでも呼んでくれ」
 アデルと名乗った男はまるで子供でも可愛がるような手つきで、すれ違いざまにアリッサの頭をくしゃくしゃと撫でた。アリッサの反応はない。次いでアデルはぽかんと見上げるしかできないエリンに視線を移した。
「――あんたも、素人のヘタクソが作る弁当なんてたかが知れてるだろうがな、まぁせいぜい頑張れよ」
 アデルはそのままつかつかと気取ったような足音を立てて、背後へ去って行った。やがてその足音が完全に聞こえなくなるまで、二人のいる場所だけ時が止められてしまったかのようにアリッサは立ちすくみ、エリンも激しい胸の鼓動を感じる以外に何もすることができなかった。