02

 トントン、と戸を叩く音を耳にして、正己は昼食を取っていた手を止めた。母屋の方へ耳を澄ますと、三恵が威勢のいい声で返事をして、ぱたぱたと駆けていくのが聞こえた。正己は箸を置いて直感的に立ち上がった。
「高彦さん、いらっしゃらないのですか」
「そうなのよ。今日は仕事で事務所の方に行っててね。ごめんなさいね、わざわざ来てもらったのに」
「いえ、またお伺いしますわ」
 正己が母屋にたどり着くと、予想通りの人物が立っていた。この間、高彦に縁談の申し込みをしに来た女性。今日は薄黄色のブラウスに紺色のスカートという出で立ちだ。正己は思わず目を伏せる。
 会いに来た高彦が不在だと聞いてややがっかりした表情を見せたものの、彼女の受け答えはしっかりしていた。
 ジリリリ、と耳をつんざくようなけたたましい音が不意に割って入った。ごめんなさいね、と言い残して慌てて電話のある母屋の奥へ駆けていく三恵の後ろ姿に、女性はぺこりと一礼した。そのまま去っていこうと身体の向きを変えたとき、彼女と正己の視線が交錯した。正己の強ばった表情が切れ長の瞳に射抜かれて、世界が制止する。
「あなたは……」
 制止した世界に女性の声が響きわたって、正己の全身は甘美な痺れに襲われた。二人はどちらともなく連れだって、表へ歩み出る。
「こちらのお屋敷で暮らしているのですか?」
 女性の口から紡がれる言葉を受け止めるたびに、正己の全身は軽い電流が走るような心地よさを覚える。ともすれば気が遠くなってしまいそうなその魅惑の魔術に囚われまいと、必死に意識を保つ。
「ええ、まぁ」
「足がお悪いのですか」
 唐突に発せられた質問に、正己は思わず目を見開いた。これまで義足であることを人に感づかれたことはない。普通の人と変わらず歩けるように診療所で訓練をしたし、長ズボンを履いているから見た目ではわからないはずだ。にも関わらず、初対面といっても過言ではない状況でそれを見抜いた。この女性はいったい……。
 女性の双眸は睫毛に隠れてその表情を読み取ることができない。正己が答えないでいると、いつの間にか敷地の外へきていた。
「ではわたくし、こちらで失礼いたしますわ」
 慇懃な口調で正己に一礼すると、女性はそのまま身を翻して行こうとした。刹那。考えるよりも先に、正己の右手は女性の腕を掴んでいた。
「待ってください」
 驚きを露わにする女性の表情を目の当たりにして、正己は掴んでいた腕を離す。瞬きの音すら聞こえてきそうな、静寂。
「名前は、名前はなんというのですか」
 心が高ぶり、頬が紅潮する。勝手に口をついて出た言葉を不躾だとはねのけることもせず、微笑む女性は正己に向き直って答えた。
「長谷川……香津(かづ)と申しますわ」
 さぁ、と風が吹き抜ける。木陰が揺れて、砂埃が舞い散った。

 人の噂のなんと早いことか、数日後に正己が母屋で耳にしたのは、津川製材の男たちのガヤガヤした話し声に混じる、ある女性名だった。
 香津である。
「この間ちらっと見かけてよォ」
 自慢げに語りはじめるのは頭の隆平である。杯を頭いっぱいに掲げて、赤らめた顔はくしゃくしゃの満面の笑顔だ。また朝っぱらから、と正己は呆れ気味にため息をつく。
「それはもうべっぴんさんでよォ。あんな美人、ここいらじゃそうそう見かけねェぞ」
「津川の旦那もいい人見つけたもんだなァ」
「馬鹿言え、長谷川のおやっさんに取り入るのがうめェんでい」
「あんたっ、高彦さんに対して何て物言いだい!」
 三恵の咎めるような怒号が割って入って、場はいっそう盛り上がった。三恵も大口を開けて笑っている。雇い主に対してなかば不遜な態度をとれるのは、当の本人が朝早くに出かけているからだ。
 男たちの口から香津への賛辞が飛び出るたびに、正己は香津と初めて会話をしたあの日のことを、夢でも見るようにうっとりと思い出す。地面に伸びた二つの影。交わした言葉の一つ一つを、慈しむように反芻する。容易に折れてしまいそうな細い腕の温もりはまだ手のひらから消えずに残ったままだ。
 粗野な言葉で香津のことを語る男たちを、正己は愛おしそうに目を細めて観察していた。
「三恵さん」
 正己が割って入ると、三恵が振り返った。にやにやとした表情は崩さないままだ。
「高彦さんは、どちらへ」
「あぁ」
 声をかけられて、思い出したように転がった杯を片付け始める三恵の背中を追う。
「事務所に行ってるわよ。なんだか最近多忙のようねぇ」
「そうですか」
 そういえば、香津が訪問した日も事務所へ出かけていると言った。これまでほとんど事務所へ出かけることなどなかった。何か仕事が立て込んでいるのだろうか。
 ぞろぞろと男たちが仕事へ向かうのを見届けて、三恵は買い物へ出かけた。がらんとした屋敷に一人取り残された正己は何となしに電話台の埃を払ったり、台所を乾拭きしたりしていたが、そのうちに思い立って庭へ足を向けてみた。
 辺り一帯を林に囲まれた高台にぽつんと佇むこの屋敷は、見渡す限り単調な緑である。そんな風景に寂しさを感じたのか、正己が高彦の世話になり始めたと同時に、高彦は三恵に言いつけ庭に花を植えさせた。植える花は高彦がどこからか買い付けてきたもので、それが今正己の目の前で鮮やかに咲き誇るダリアである。正己の部屋からはとりわけ庭がよく見え、ダリアの咲き具合で季節の移ろいを感じるのだった。
 後ろ手を組んでのそりのそりと色鮮やかな界隈を漂う正己の耳に、ざざっと砂利を踏む音が飛び込んできた。はっとして素早く首を振り返る。
 香津が立っていた。屋敷を見上げて恐る恐る扉の前に拳を掲げる姿がまるで少女のように小さく見えた。
 正己が近寄ると、香津は足元に視線を落とした。
「高彦さんは、事務所へ」
「……そう」
 消え入るような声だった。
「約束、していたのですか」
 一歩、距離を詰める。艶やかな黒髪に陽光が照りつけ、今にも匂い立ってきそうな美しさだった。
「……いいんです」
「え?」
「いいんです、わたくしのことは」
 そう言うと香津はいきなりしゃがみ込み、絞り出すように嗚咽を漏らす。突然豹変した香津の様子に正己はしばらくおろおろしていたが、思い切ったように隣にしゃがみ込んで背中に手を回した。
「落ち着いてください。とにかく中に入りましょう」
 香津はこくりと小さく頷いて、正己に引っ張られるようにして屋敷へ入っていった。ドアを閉め切ると、降り注いでいた光が急に途切れ、正己は目を瞬かせた。

 香津を囲炉裏部屋の土間に面したところに腰掛けさせ、お茶を淹れに台所へ向かった。ときおり聞こえてくる鼻を啜る音がどうしようもなく正己の心を揺さぶる。湯が十分沸き立つのを待たずに、正己は香津のところへお茶を運んだ。
 ありがとうございます、と声にもならない吐息で紡がれた言葉が、がらんとした屋敷に静かに響く。正己は隣に腰掛け、香津の妙に青白い顔をじっと見つめた。血の気がまるきり失われたような青白さであっても、睫毛に覆われた瞳には生の輝きが宿っており、正己は自分がその双眸に引き込まれ、香津の世界に取り込まれてしまうような錯覚を覚えた。
 す、と上品な手つきで音も立てずにお茶を啜る目の前の女性を、なぜだか正己はこのまま帰してはいけないような気持ちになった。
「詳しい事情はお聞きしません。ただ、こんな状態のあなたを放ってはおけない。気が済むまで休んでいってください」
 正己は香津の背中をぽんぽんと撫でるように叩いた。
 もしもこうしている間に高彦がひょっこりと帰ってきたら、との考えに至らなかったわけではない。仮にそうなったならば、高彦を怒ってやればいいのだ。何があったか知らないけれど、婚約している女性を放り出して泣かせることがあなたのしたいことなのですかと。
 そう画策していると正己の拳はいつの間にかふるふると震えていた。はっと我に返ると、香津が驚いたような表情でこちらを見つめていた。
「大丈夫ですか?」
 それはこっちの台詞だ、と言いたい気持ちを押し殺してえぇ、と頷く。香津は先ほどまで落ち着いた様子で、お茶を飲み干した湯呑みを手の中で弄んでいた。
「あなたこそ」
 正己が優しく指摘すると、香津はおもむろに瞼を伏せた。香津の動きや表情が変わるたびに釘付けになってしまう。
「わたくし……わたくしは高彦さんに嫌われているんです」
「え?」
 香津の小刻みに震える唇から放たれた言葉に正己は耳を疑った。
「避けられているんです。だから、わたくしが来るとわかっている日にお仕事を」
「ちょ、ちょっと待ってください。それ……高彦さんに言われたんですか?」
 香津は黙ってかぶりを振る。
 いったい、どういうことなのか。香津は高彦と婚約しているのではないのか。縁談にやってきたのはごく最近だ。どこを探したら出会ってまもない婚約者を嫌いになる男がいるのだろうか。それも、香津のような女性を。
 気のせいです、と言い切りたい気持ちをぐっと堪え、香津の次の言葉を待った。正己こそ二人の何を知っているというのだ。香津のことはもちろん、ずっと一緒に暮らしている高彦のことすらろくに知らない。かと言って香津からあれこれ聞き出すのもなんだかはばかられる気がした。
 屋敷の中が急に冷え込んだ感じがして、正己は鳥肌が立った。
「よければ話してくれませんか」
 思いとは裏腹に口をついて出た言葉に正己は一瞬後悔の念がよぎった。が、それは旅鳥がやってきてすぐに去っていくように、心に留まらぬ念だった。
「女学校に通っていたときに、高彦さんとお会いしたことがあるのです。当時はまだ高彦さんのお父様もご存命で、家業を手伝っておりました」
 香津は淡々とした口調だった。
「何度かお会いしているうちに、高彦さんから好意を伝えられました。わたくしも、高彦さんに惹かれているところがありましたので、お受けしました」
 神妙に頷く正己をちらりと見やり、香津は話を続ける。
「ところが、女学校の先生は許してはくれませんでした。どうしてわたくしたちのことが明るみに出たのかわかりませんが、きっとわたくしが浮かれた様子だったのでしょう。交際を続ける限り指導はしないと言い渡されて、それでわたくし、どうしたらいいかわからなくなって……」
 喉の奥から絞り出すような声。正己は顔を歪めた。
「最低なことをしてしまいました。お会いする約束の日にわたくし、その先生を連れていったのです。そして先生の口から言わせたのです。その……わたくしとの交際をやめるようにと」
 まるで鏡に映したかのように、香津の表情も歪んでいった。
「わたくしが悪いのです。決められなかったのです。どちらかを選ばなければならなかったのに、どちらも選ぶ勇気がなくて、それで……」
 香津の言葉は嗚咽で途切れた。
 正己はしばらく考え込んでいた。理解できたところも、できなかったところもある。ただ、そんな細かいところはどうだっていい気がした。
 同情でも正義感でもない、もっと得体の知れない何かに突き動かされて、膝に無造作に置かれた香津の手の甲に、正己は自分の手を重ね合わせた。
 香津は一瞬びくりと身体を震わせたが、正己の温もりをはねのけようとはしなかった。
「わたくし……」
「何も言わないでください」
 強く握れば壊れてしまいそうな柔らかい手を、正己は自分の手で包み込んだ。もう片方の手を香津の肩へそっと置く。香津の潤んだ瞳が正己を見る。何をしなければならないか、正己は本能的に理解した。
 二人の唇が重なった。