01

 夏が来た。
 目が覚めて最初に感じたのは首筋にじんわりとにじむ汗の不快さで、いまだまどろむ意識の中に夏の訪れを認識させた。
 村井正己は上半身をすっと起こすと、右手を伸ばしてカーテンを開けた。とたんに朝日が降り注いで、正己の視力を奪う。
 左手に設えた文机から飲み終えた湯呑を取り上げると、正己は素早く布団を這い出した。

 母屋へと向かう渡り廊下の途中で、男たちの騒がしい声が聞こえてきた。
「おう、にいちゃん、一杯どうだ」
 戸を開けて目に飛び込んできたのは、数人の男が囲炉裏を取り囲み、朝から酒を酌み交わす光景だった。津川製材の杣夫たちである。真っ先に正己に声をかけた頭の隆平はすでに出来上がっていて、日焼けした顔をさらに真っ赤にして陽気に歌など歌っている。挨拶をするために土間を横切って近寄ると、輪をなして座る他の男たちが正己の手を引いて強引に輪の中へ座らせようとする。はぁ、と正己は思わず苦笑いを浮かべた。
「おやめなさいよ、正己さん困ってるじゃない」
 断るにも断れずに正己が中腰になりかけたとき、炊事場の方から家政婦の三恵がやってきて、湯呑を乗せたお盆を囲炉裏の近くにばたんと置いた。床には四、五の空になった徳利が転がっている。とても朝の光景とは思えない。
 とりあえず手を解放された正己は、男たちの輪から少し離れたところに正座した。
「三恵さんよォ、聞いたか。田沼ンとこの謙作がどうやら嫁探しを始めたらしいぜ」
「田沼っていうと、竹穂のかい? それがどうしたんだい」
「三恵さん、謙作に嫁いだらどうでェ」
「まっ。あんたたち、竹穂だの篠辺だのあちこち飛び回ってると思ったら、仕事せずにそんな話ばかりしてるのかい」
「とんでもねェ。俺たちゃ三恵さんに幸せになってもらいてェだけだ。なァ平治よ」
 話を振られた彫の深い青年は大きく頷いた。囲炉裏部屋が笑いに包まれる。
 やがて時計の針が定刻を指し示すと、男たちはいっせいに立ち上がり土間に無造作に置かれた仕事道具を拾い上げた。行ってくるけぇ、と大声で挨拶すると、ぞろぞろと玄関を出ていき林を下っていった。あれで仕事ができるのだろうか、と散らかった酒瓶を眺めながら正己は不思議に思う。
 片付けをしながら正己はふと茶の間に目をやった。茶の間は囲炉裏部屋から障子を隔てて床続きになっている。障子は開け放たれていて、文机に向かって帳簿をつけている主人の姿が見える。
 酒瓶と徳利を三恵に渡して、正己は立ち上がった。
「高彦さん」
 ペン先をこめかみに押しつけて一心不乱に帳簿を見つめる主人のところへ向かう。名を呼ばれた高彦は、ん、と気のない返事をしたものの顔をあげようとしない。いつものことだ。
 文机を挟むように正面に座ると、正己は若き主人の顔をじっと見つめた。額の真ん中でくっきりと分けられた黒髪は、触れば崩れ落ちてしまいそうなほど繊細だ。伏し目から伸びる睫毛が長い。男の正己から見ても美男子だと思う。
「庭のダリアが花開いていましたよ」
 とりとめのない近況報告をする。正己の言葉を受けて、高彦はまたもやん、と返事ともいえない返事をする。
 ペン先で二、三回机をとんとんと叩いたと思うと、高彦は突然顔をあげた。
「そうか」
 何やら物思いにふけるような様子を見せたかと思うと、また視線を帳簿に落とした。
「三恵にも世話になってるからな」
 高彦はぼそりと呟く。
 この男は、いったい人の話を聞いているのか聞いていないかわからない。それは、正己が五年前に初めて高彦に出会ったときからずっと抱いている印象だ。まるで空の向こう側にでも思いを馳せているような目をしている。
「高彦さん」
 もう一度名前を呼ぶ。やはり反応がない。
 正己が高彦に初めて出会ったときのことを思い返しかけたとき、高彦はようやく顔をあげて、まだいたのかと言わんばかりに、あぁ、と呟いた。
「下がっていい」
「はい」
 主人の命に従って、正己はしずしずと自室に戻った。

 五年前――。
 正己の進路を決めることになったあの日の雪の白さは、鮮明に記憶したまま生涯忘れることはないだろう、と思う。
 もともと運動は自分がするより見ている方が好きな方だった。だから実業学校のスキー大会にも競技者としてではなく、下働き役として参加することを希望した。
 割り振られた仕事が一段落ついた後、ふと正己はひたすらに白くまばゆい景色の中を歩いてみたいと思った。朝日に燃える山並みの強烈な眩しさをその身に浴びながら、正己は学友たちの喧噪から離れた。
 とはいえ冬山である。不用意に歩き回ることを恐れて、宿舎が常に視界に入る位置で正己は散策を楽しんだ。突き刺すような寒さ。純白の冠を被ったカラマツに縁取られて見上げる空には雲一つなく、澄んだ青が目に染みた。未踏の雪はその青さに対比されてよりいっそうきらきらと輝き、一歩ずつざくりざくりと大地を踏みしめることが自分だけの大切な秘密であるかのように思われた。遠く聞こえる喧噪と、周囲を包む静寂。まるで別の世界にやってきたかのような高揚。
 ちょうど宿舎の裏手を歩いていたとき、ふと山の左斜面を見上げると、深雪の中に茶色く連なる建物を見つけた。雪景色に埋まる一本の小枝のように白の中に見え隠れする建物群はさながら秘密基地で、正己はその光景にひどく惹かれたのだった。
 相変わらず大会の喧噪を微かに耳に残したまま、正己はふらりと進む向きを変えた。
 進むにつれていっそうと木々が密集して、視界を遮断する。目的の場所を見失わないことだけを意識しながら、積雪に足跡を残していった。
 十数分ほど歩いただろうか、やや息が上がってきた頃、不意に木々がまばらになってきた。というより、道のようになっている。左手を見ると、先ほど見つけた建物群はもうそこまで迫っていた。ざわざわと怒号混じりの声が聞こえてくる。何かの工場と、その宿舎だろうか――? 正己は立ち止まってじっと目を凝らした。
 地鳴りのようなその音に直前まで気づかなかったこと、立ち呆ける正己の存在に気づかなかったことが両人にとって最大の不注意だった。
「うわああああっ!」
 何者かの叫び声。次いで馬の嘶きを耳がとらえた次の瞬間、正己の脳天に砕け散った火花が飛散した。吹き飛ばされるような衝撃と、首筋に焼けるような冷たさ。平衡感覚が失われる。何が起きたかわからないまま、耳元で轟音が鳴り響く。どん、と再び衝撃があった後、ようやく世界は停止した。
 恐る恐る目を開けると、カラマツに切り取られた青空がぐにゃりと歪む。たまらず目を閉じると同時に、左足に覚えるのは鋭い痛み。近くで動物の息づかいを感じる。何が起きたのか理解するよりも前に、理解してはならない、と直感が警笛を鳴らす。遠のいていく意識。
「た、大変だ! にいちゃん、大丈夫か! おい!」
 大丈夫だ、などと虚勢を張る余裕もなく、正己はぱたりと気を失った。

 目覚めたら診療所だった。初めに目に入ったのが見知らぬ男の顔で、正己はびくりと身体を捩らせた。左足に走る激痛。痛みの原因を突き止めようと布団を捲りかけた手を、男に制止された。
「まだ見てはいけない」
 そう言い残すと男は木製の引き戸を開けて病室を出ていった。ふと、ドアの傍に見知った顔の男女が、ご飯に付け合わせる漬け物のようにちょこんと何気なく座っているのが見えた。不意に気づいたものだから思わずびくりと身体を動かしてしまって、再び激痛を覚える左足。
「父さん、母さん」
 二人に向かって手を差し伸べる正己の姿を厳めしく睨みつける父親と、気まずそうに目を逸らす母親。どうしたのだろう、と正己は訝しんだ。いつもであれば、ただの風邪で寝込んだときだって正己が嫌がるくらい過剰に心配してくれるのに。
 ただならぬ気配を感じて正己が手を引っ込めたとき、先ほどの男がひょっこりと顔を出した。男の手招きに応えるように両親も病室から立ち去っていった。誰もいなくなった病室に一人取り残されて、言いようのない不安が正己の胸を満たした。
 若い男だった。十七歳の正己よりも少し上だろうか、成人した大人の余裕めいたものがあった。具体的にどう、と説明はできないが、どことなく垢抜けた雰囲気がある。お坊ちゃま、という形容が似合いそうだった。
 ふと、スキー大会のことが頭をよぎった。どういう経緯で自分がここにいるのか、少しずつ記憶が形になりかけてきた。いったいあれから――あの思い出したくもない事故からどれくらい過ぎたのだろうか、まるで見当がつかない。何日も経っているようにも思えるし、数時間しか経っていないようにも思える。ともかく、死を覚悟したあのときからなんとか生き延びて、安全な診療所にいる。そのときは、それだけで十分だった。

 足元から何かが崩れ去っていくかのような衝撃は、正己が真新しい義足を使ってのリハビリに少し慣れてきたときに突然やってきた。
 馬橇の主はあの若い男――津川高彦と紹介を受けた――が経営する製材所の従業員らしかった。衝突した拍子に身体が吹き飛ばされて、運搬していた木材とカラマツの幹に足が挟まれた状態だったらしい。左足の膝から下がほとんど壊死状態で、切断やむなしと聞かされたときも目の前が真っ暗になるような衝撃を受けたものだったが、自分の容態から無意識的に理解していたし、激痛のあまり痺れるような感覚から解放されるのならば、と比較的落ち着いた心で受け入れることができた。
 しかし、しかし――。
 日課のリハビリに勤しんでいた正己を高彦が呼び止め、両親を含めて話がしたいと言った。今となってはどうやって話が始まってそして終わったのか、自分がどんな反応をして何を話したのか覚えていない。ただ、会合が終わった後、正己は病室のベッドに腰掛けてしばらく放心状態だった。
「正己くん」
 病室に入ってきた高彦が静かな声で名前を呼んだ。それに反応しないでいると、彼は正己の肩にそっと手を置いた。
「歓迎するよ。悪いようにはしない」
 足を失ってしまった正己を、一生津川家が面倒を見る――それが会合の内容だった。要するに、体のいい厄介払いだった。責任を取りたいという高彦との利害が一致したのだ。農家を継げぬ跡取りなど必要ないということなのだろう。その代わりに、東京で学問をやっている兄を連れ戻して家を継がせるという。神童ともてはやされてきた兄。正己は胸がぎゅっと締め付けられる思いがした。
「うちには家政婦もいるし、高度な家事を要求することはない。身の回りの世話ぐらいは、まぁしてもらうがね」
 津川高彦は地主であり、同時に製材所も経営者しているという。どうりで、と最初に抱いた印象に合点がいく。
 しんしんと雪が静かに世界を白く染め上げていく冬の日、退院した正己は津川家の屋敷に迎えられたのだった。

 長い長い回想が途切れるとすでに日が高かった。陽光が差し込まなくなった部屋が暗い。
 ふと耳を澄ますと、母屋の方が何やら騒がしいことに気がついた。高彦でも三恵でもない複数の声がする。一人は高齢の男性、そしてもう一人は若い女性。
 こっそり母屋の水屋へ行き、細々しく働く三恵に声をかけてみる。
「縁談よ、縁談。高彦さんに結婚の申し込みですって」
 返ってきたのは予想だにしない言葉だった。
「縁談?」
「そう。なんでも相手は取引先の社長の娘さんなんですって。色白で綺麗なお嬢さんよ。お洋服を着こなしちゃって。あたしもう自分が恥ずかしくなっちゃって――」
 初めは小声だった声のトーンがだんだんと上がっていく。聞こえるのでは、と正己は苦笑しながら三恵を制した。
 言われてみれば、結婚していてもおかしくない年齢だった。今年二十二歳になる正己よりも七歳年上の、二十九歳。それなのにどういうわけか、高彦が女性と共にいるところを想像すると、妙にちぐはぐな感じがする。あの遠い目のせいだろうか。
 客間の襖が不意にがらりと開いた。
「それでは津川くん、どうぞよしなに」
 出てきたのは二つの声のうち、男性の方だった。白髪混じりの髪は綺麗に整えられ、濃紺の背広をぴしりと着こなしている。なるほど社長らしい雰囲気の、初老の男性だった。
 部屋にいるはずの高彦と件の女性の姿は正己からは見えなかった。男性は襖を閉めると、迷いのない足取りで屋敷を出ていった。物陰からひっそりと見守っていた二人は思わず顔を見合わせた。
「雰囲気のある方ですね」
「ほんとにねぇ。高彦さんも少しは着飾ったらいいのに」
 正己は高彦の普段の佇まいを思い返した。地位ある者の余裕や威厳は確かに顔に表れてはいるが、着物や調度品はそれに比べて驚くほど質素だ。
 がらり、と再び襖が開いた。正己と三恵が同時に目をやると、高彦と、その後について女性が客間から出てくるところだった。
 件の女性か――正己は釘付けになった。耳の上まで結い上げられた黒髪が、しなやかな身体の動きに合わせて柔らかく揺れた。正己がこれまで見たこともないような、なめらかな生地で仕立てられた濃鼠のワンピースがぴったりと身体に張りついて、流れるような輪郭を作り出す。その下から伸びる白い二本の脚は、音を立てることなく彼女を運んでいく。
 伏し目がちで口元に僅かな笑みを残す彼女とは対照的に、前を歩く高彦の目は何かを睨みつけるように鋭く、唇は真一文字に結ばれている。正己たちの前を二人が通り過ぎるとき、女性がふっと顔をあげた。
 交差した視線の先に、怯えの色が見て取れたのは、正己の気のせいだっただろうか。彼女はそれからすぐに正己の足元に視線を落とし、そしてまた高彦の方に向き直ったから、彼女の顔をまともに見ることができたのはほんの一瞬だった。が、まるで長い時間そうしていたかのように、正己の脳裏には彼女の表情が焼き付いてしまったのだった。
 二人の姿が中庭の方に消えていった後も、正己は金縛りにでもあったかのように、彼女のいた場所をずっと見つめていた。