01

 トンネルを抜けると雪国であったと昔の作家は云ったけれど、私の場合、トンネルを抜けた向こうに広がっていたのは一面に赤茶けた田舎町の風景だった。
 赤茶というのは足元に延びる道路もガードレールも、立ち並ぶ建物やそれらを埋めるように点在する樹木も田園も、はては空にいたるまでの全てがそうだった。しかも単に染色されているというわけではなくて、例えば古びた学校の、今は使われていない鉄扉を想起させるような――そう、ここに存在するあらゆるものはまさに「錆びついている」という言葉が正鵠を射た表現であるように、ざらざらとした質感で覆われているのだった。
 この異様な光景を眼前にして、私は思考まで錆びついてしまったかのように身動きをとることができなかった。
 耳はいかなる音もとらえず、どういうわけか風も吹かない。長い間――というのは私の感覚でしかないのだが――視点を固定したままでいたけれど、動くものは一切察知できなかった。
 停止しきっていた私の思考に罅を入れたのは、言いようのない恐怖だった。
 一体、ここはどこなのか。どうしてこんなところに迷いこんでしまったのだろうか。何が起こっているのか。――
 恐怖の入り混じった様々な疑問が次々と頭の中で膨らんでは弾け、膨らんでは弾けで、あわやパニックに陥るところだった。振り返って元来たトンネルに戻ればよかったのだが、思考回路という秩序が欠落していた私には、そんなアイデアなど思いつきもしなかった。ともかく周囲に沈殿する不気味な静寂を振り払いたくて衝動的に駆け出そうとしたとき、ここに来て初めて自分の足音と衣擦れ以外の音を聞いたのである。瞬時、私の身体をびくりと縮こまらせたその鋭い機械音は、聞きなれた携帯電話の着信音だった。
 何でもいいから縋りつきたかった私は必死に鞄をまさぐり、携帯電話を取り出すや否や相手の名前も確かめずに通話ボタンを押した。相手の用件などお構いなしに、ただ助けを求めたい一心で情けない第一声を発しかけたところで――周囲の様子が変わっていることに気が付いた。
 そこは近所のショッピングモールの裏口、従業員専用通路の一角――私が異世界に迷い込む前に立ち寄った場所だった。遠くでトラックが地響きを立てて通り過ぎる音がする。脳天を貫かんばかりに響く心拍の煩さとは裏腹に、静けさに包まれたその光景は平和そのものであった。

 それが、三日前のこと。

 失恋を経験した者に贈る定番のアドバイスに「大丈夫、きっと時間が解決してくれるよ」というものがあることからもわかるように、負の感情というものは往々にして時間経過によって和らいでいくものである。
 あの謎の町から無事に帰還することはできたものの、その日はさすがに始終戦々恐々としており、普段だったら辟易するはずの人混みに紛れていられることに安心感を覚えもした。だが、翌朝には恐怖の生々しさはすっかり薄らいでしまって、代わりにあの場所にいたときには決して意識の表層にまで上ってこなかった別の感情――すなわち好奇心が、次第に膨れ上がってきたのである。

 そんなわけで三日後の今、私は再びここへやってきて、異世界へと続いているであろう扉の前に立っているのだ。

 従業員専用、と書かれた立札が申し訳程度に置かれている程度で、その実誰でも通り抜けることができる通路を、私は自宅から駅までのショートカットによく利用していた。ショッピングセンターの南口にあるお客様用の駐輪場に自転車を留めたあと、目の前にある横断歩道を渡ると、件の立札のある通路が緩やかなカーブを描きながら延びている。駅の駐輪場を利用しろという忠告は、ここでは軽く受け流させてもらおう。物流のお兄さんたちが段ボール箱を台車に乗せて裏口へ吸い込まれていく姿を横目にどんどん奥へ進んでいくと、もう一度横断歩道が現れる。渡れば右手にショッピングセンターの北口、そして左手には私の最寄り駅だ。
 何の変哲もない、たったそれだけの行程を何年間も歩んできた。だからある日突然この異質な扉が現れたとき、私の内なる冒険心が顔を覗かせてしまったのも、仕方がないといえよう。

 私は扉の前で振り返って、素早く視線を左右に走らせた。裏口からは少し離れたところにはあるが、建前が従業員専用であるだけに、中に入るのを見られるのは気まずい。人影が見当たらないことを確かめて、私はするりと中へ滑り込んだ。
 コンクリートで造られた四畳ほどの空間。初めて訪れたときと同じで、奥に下へ続く階段がある他には何もない。一体何のための建物なんだろう――この場所を発見してから、幾度となく考えてみても答えを出すことができなかった問いを、再び胸の内で反芻する。物置、にしては物が一つもないし、通路の途中のこんな場所にあるのも不自然だ。だいたい、ついこの間まではこんな建物などなかったのに、まるでショッピングセンターが建設される前からここに存在していたかのような貫禄がある。
 当てもない考えをぼうっと続けながら、私は階段の前に進み出た。奥は暗くて何も見えない。この間はここを下ってあの不思議な世界に迷い込んだわけだが、再び直面してみると思いがけず足が竦む。終末の後の絶望を想起させるような、暗黒。膨れ上がった好奇心が、恐怖という名の棘に刺されてみるみると萎んでいく。
 帰ろうか、ふとその思いが頭をよぎった。けれど、なぜだか足は動かない。足元の闇がまるで私の視線まで飲み込んでしまったかのように、目を逸らすこともできない。
 そうだ、私は自分の意思でここまでやってきたんだ。
 萎みかけた好奇心が辛うじて形を留めている間に、私は一歩踏み出した。