私の住む南丈(なじょう)市は、ここ数年で急速に発展を遂げたニュータウンだ。高台の土地を開拓してショッピングセンターを建設したことを皮切りに、古い建物は一新されて現在のような小奇麗な住宅街へと早変わりしたという。もっとも、今年でようやく二十歳を迎える私はその過程を知らない。
私の通う南丈大学も、設立は十二年前とかなり新しい。少し足を伸ばせばS大学というそれなりに名声のある国立大学があるのだが、ずぼらだった私は家から通えることを最優先に考えた。今のところごく普通といえるような大学生活を送ることができているし、不自由は感じていない。就職活動が始まるとまた違った考えになるのかもしれないけれど――。
そんなことを考えて気分が落ち込みそうになりながら、私は暗い階段を足元に注意して降りていった。
右足を突き出して探ると、どうやら階段は終わったようだ。右側の壁に手をつきながら、暗闇の中に続いているトンネルを進んでいく。ざらざらした感触に不快感を覚える。既にここも錆びているのかもしれない――ふとそんなことを思いついた。
三日前に訪れたときは、いつ果てるとも知らない暗闇が永遠の悪夢のように思われて、恐怖に足を震わせながらようやく出口を探り出したというふうだったが、さすがに二度目とあって心は落ち着いていた。何度目かのカーブを過ぎると、前方に出口を示す光が見えた。一本道だし、距離もそれほど長くはなかった。得体の知れない自信を得た私は揚々と光の中へ踊り出た。
一度見たとはいえ、その錆びついた町の光景は私の心にずしりと重しを落とした。風も音もない赤茶の世界は、先ほどまで私がいた場所と比べてあまりに空虚だった。空虚の中に悲哀を感じ取って、私は胸がぐいと締め付けられる心地だった。
圧倒されている場合じゃない。今日はここを探索するために来たのだから。
自らを懸命に奮い立たせて、なんとか一歩を踏み出す。足元の道も当然のように錆に覆われているから、靴を通してざらざらとした触感が伝わってくる。
私がいるこの場所はどうやら高台のようだった。目の前を横切るようにガードレールが設置され、その向こうには屋根――もちろん、均一な赤茶色の――が立ち並んでいる。左手は行き止まりだったから右手へ進んでいくと、まもなく二又に差し掛かった。一方は上り坂で、頂上は木の生い茂る空き地のようだった。もう一方の下り坂は、ガードレールの向こうに見えた住宅街へ続いているのだろう。
私は坂を下った。
それにしても、本当に不思議な場所だ、と改めて思い直す。まるで雪のように降り注いだ錆が町全体を覆い尽くしているようだ。それに、自分の足音以外の音が全く聞こえない。
人はいるんだろうか。ふと疑問に思った。
見渡す限りでは、人の気配は全くしない。民家の窓はほとんどカーテンが開けられているが、中に人のいそうな様子もない。曲がり角のところにたばこ屋があったので、試しに声をかけてみることにした。
「すみませーん」
売り場の窓口のところに向かって呼びかけてみたけれど、応答はない。建物全体は他と同じように錆に覆われていて細かい造作はわからないが、窓口の左手にガラスの引き戸らしきものを発見した。引手に手をかけてみると、それは見た目からは想像もできないほどあっさり開いて、私は少し拍子抜けした。がらがらとどこか懐かしい音を立てて開き切ったドアから店内を覗いてみると、そこも一面の錆だった。商品棚に並べられた商品に錆が降り積もって、辛うじて凹凸のシルエットを作り出している。
狭い売り場の先に上がり框らしきものがあって、その奥がどうやら店主の住居のようだ。ふと、幼い頃によく通った駄菓子屋の様子によく似ているなと思った。店主は老夫婦で、お婆さんが店番をしているときは奥の間でテレビを観ながらくつろいでいるお爺さんの姿をよく見かけたものだ。
奥まで来たけれど人の姿はなかった。考えてみると、こんな錆だらけの場所に人が住めるはずがない。
ならば、やはりここは一体どこなのだろうか。思考が巡る。
私はひとまず店を出て、町を探索することにした。
道の両端に立ち並ぶ建物は、どれもかなり昔に建てられたもののようだ。民家の外壁はトタンでできていて、木製の窓がいかにも居心地悪そうに嵌め込まれている。
目の前には車が辛うじてすれ違える幅の道がまっすぐと延びている。その両端には薄暗い路地が、建物の間を縫うように張り巡らされている。私は正面の広い道をこわごわと進んでいくうちに、ふと奇妙な既視感を覚えた。
私は以前、ここに来たことがある……?
建ち並ぶ建物はほとんどが民家だが、時折、看板が外壁に取り付けられた建物が現れる。その正体は駄菓子屋や電気屋といった個人商店のようなのだが、それらの並びをなぜだか私は知っている、気がするのだ。知っているといっても単に知識的なことではなくて、今見ている風景が写真のように、脳裏にぴたりと焼き付いている感じなのだ。
相変わらず風など吹いていないのに、私は急に寒気に襲われた。
まるで何かに急かされたかのように、その一角を足早に通り過ぎる。
先ほどの場所から数十メートル離れたところに来ただろうか、それでもやはり既視感は残ったままだった。錆に覆われてはいるけれど、辺りを見渡すたびに私の中にある何かがちらちらと刺激されているような、そんな感覚。
ただ、それが何なのかはわからない。
今日この世界に足を踏み入れたときの勇ましさはとうに消え去っていた。数十分前の私には考えられないくらい、心がずしりと重くなっていた。
もう、帰ろうか。
ここに来る前のショッピングセンターの様子が鮮烈に甦る。これまで通りの平和な毎日を過ごしていって、こんな場所のことはそこに埋めて忘れてしまおう……。
私はゆっくりと足を止めた。真っ直ぐに続いていた道は、あと十歩ほどで曲がり角だ。突き当りは駐車場のような空き地で、手前に柵が巡らされているためこちらからは入れないようになっている。その光景はどことなく私を拒絶しているようだ。
じっと見つめているうちに、心の底に僅かに残っていた好奇心が、私の弱気に打ち勝った。再び歩み始めた足はゆっくりと曲がり角に向かって近づいていった。なんて移り気なんだろうか、と半ば自嘲めいた笑みを唇の端に浮かべながら。一歩進むごとに、心臓の鼓動がだんだんと大きく脈打つ。
柵のすぐ手前まで進むと、格子状に張り巡らされた針金がやはり赤茶色に錆びてひっそりと侵入者を留めている。さ、と触れると、感触はやはり錆と同じだった。
ふう、と一つ溜息をつき、何気なく曲がり角の先を見やった。その瞬間、私は先ほどから強く感じていた既視感の正体を知った。大きな身震いとともに、気が付いたら叫び声をあげていた。
ここは……ここは私が生まれ育った町だ!
もちろんこんな錆びついた場所で育ったわけではない。曲がり角の先にどしりと構えているアーチ看板、その下をかつて私は何度もくぐったことがあるのだ。看板に書かれている文字は錆びついても読み取れて、「南丈西商店街」、それは確かに子供の頃によく連れて行ってもらった商店街の名前だ。店先で井戸端会議に勤しむ主婦たち、値引き品に群がる老人、怒鳴り声とも取れるような声で懸命に客引きをする店主に、母親におもちゃをねだる子供たち……そんな見慣れた光景の断片が映写機のように次々と現れて、そのどれもが赤茶一色の風景にぴたりと重なった。当時の喧騒が生々しく甦ってくる。恐ろしいほど鮮明な符合だった。
この事実が何を示しているのか、咀嚼してみる余裕など私にはなかった。獣を前にした草食動物のように、ただ本能に身を任せてその場から離れることしかできなかった。
来た道を全力疾走して、ようやくトンネルへと続く坂の下までたどり着いた。息も絶え絶えに、私はガードレールに手をついて寄りかかった。しばらく息を整えた後で、私は何気なく振り返った。もう見慣れてしまったはずのひっそりとした赤茶色の世界なのに、今にも物陰から亡者の霊が現れて私を永遠に閉じ込めてしまうのではないかという気がした。早くこの坂を登って、平和な世界へ帰ろう。もつれる足をなんとか落ち着かせて坂を登りかけたところに、沈黙をつんざく鋭い機械音が鳴り響いた。思わず身を強張らせたが、すぐにそれが普段聞きなれている音だと気付いた。素早くポケットから携帯電話を取り出し、点灯するランプに応えるように通話ボタンを押す。
携帯電話を耳に当てた途端に、私の髪を風がさらっていった。赤茶色に覆われた視界は、柔らかな光を受けて反射する白に変わった。いつの間にか私はショッピングセンターの裏口に立っていた。耳元でよく見知った人の声が流れ出る。
「お前、何佐々木の講義サボってんだよー」
腕時計は正午五分前を指していた。