05

 ショッピングセンターの裏口に戻ってからも、戸村は無言を貫いていた。やりすごすべき気まずい時間が三分以上に伸びたことにげんなりしながら、戸村の斜め後ろをついていく。傾きかけた日差しが建物に絡み付いて、地面に複雑な影を織りなす。がらがらがら、と地面に響く荷台の音を耳に入れながら、人影のない道を歩む。
 と、背後から誰かが駆け足で近づいてくるのが聞こえた。振り返ると中年ぐらいの小太りの男だった。身に着けている服から、どうやら警備員のようだと分かる。
「君たち、ここの人?」
 荒々しいバリトンは詰問するかのような口調だ。咄嗟に声が出ずに、首を横に振った。警備員の男は険しい表情を作る。
「ここは従業員以外は入っちゃいかんよ。今工事に仕掛かってるところだからね。買い物をするなら正面の入口から入ってくれ」
「……ごめんなさい」
 力なく謝ると、男はいかにも面倒だといったふうに、身を翻してのそりのそりと去って行った。男の行く先を見ると、建物の影に青いビニールシートの端が見える。どうやらこの辺りに何かを増設するようだ。
 戸村はというと、私たちのやりとりをまるで意に介さなかったようで、すでにその後ろ姿は小さい。
 もう、いいか。私は戸村を追いかけるのを諦めた。
 戸村があんなふうに機嫌を損ねるのはこれが初めてというわけではない。むしろ、不思議を求めて遠征した先で特に目ぼしい収穫がなかったときなどは、高い確率でこのモードが発動する。そうなると私や後輩が何を言ってもろくな返事をしないから、ただただ自然治癒を待つしかないのだ。
 警備員の去っていく先をじっと見つめる。過去へと続く扉はまるで人目を避けるように、ひっそりと佇んでいる。戸村はまた来ると言っていたが、行ってどうするのだろうか。写真を見せても全く反応を示さなかった男に、今度は何を仕掛けるというのだろうか。
 考えても答えが出るはずのない問いを抱えて、私は帰路を急いだ。

 分厚い雲が垂れ込めて、昼間だというのに陰鬱な雰囲気を醸し出している。部室のある建物は普段よりもいっそう薄暗く、ひっそりとしていた。私はここに来るときにはいつもそうするように、給湯室に立ち寄って自分の分のお茶を淹れる。ポットから滑り出る熱湯が、こぽこぽと空虚な音を響かせて湯呑に落ちていく。
 部室もまた同様に薄暗かった。扉を開けて右手の壁にあるスイッチを入れてから、座布団の上に腰を下ろす。不自然なほどに音のない空間に身を浸していると、私の意識は否応なしに錆に覆われた世界とそこにいた男へと向かっていく。
 邪険に追い払われてから三日が経つ。こうしている今でも、あの男はとうの昔に捨てられ死に絶えた世界で、一人孤独に過ごしているのだろう。自分が何者かも、何をなすべきかも分からないまま――。
 戸村の正義、という言葉がずしりと重くのしかかる。確かにあの世界に足を踏み入れたのは偶然だった。だが、それでも出会ってしまったからには、このまま放置しておくのは何かが違う、と私の無意識が叫んでいる。
 存在を忘れ去られてしまった彼の行く先は、私たちしか見届けることができないのだから。
 湯呑に濁ったお茶を残したまま、私は部室を後にした。

 帰り道の電車に揺られた後、駅に降り立ったときには辺りは薄闇に包まれていた。ショッピングセンターに向かっている間に、厚雲に隠れた太陽の光は今にも空の端に消えていきそうだ。
 この前注意されたことを若干気にしつつ、辺りを窺いながら従業員専用通路に入り込む。曲がりくねった通路の先に、件の倉庫がひっそりと姿を現す。早足で近づいていくと、倉庫の傍に人影が佇んでいるのに気付いた。一瞬、警備員ではないかと身体を強張らせたが、すぐにそうではないと悟った。
 人影はゆっくりと私に歩み寄ってきた。
「まったくお前も懲りない奴だな」
 私の姿を見るなり、人影――戸村は真顔で言い放った。

「また今日も仕込んできたの?」
「一応な」
 交わされる会話がトンネル内に反響する。トンネル内は完全な暗闇だが、私も戸村も慣れたもので、地上を歩くときと同じ速さで奥へと向かう。前方にぼんやり見える光の輪が徐々に迫ってくる。出口だ。
 足元の石ころや、木の葉の位置すら一ミリたりとも変わらない、完全に静止した世界。その静寂をまるで荒らしにでもきたかのように、足音と衣擦れの音をたてながら進んでいく。目的地は言うまでもなく、男のいたあの家だ。男に会ってどうこうしようというプランは私にはない。前方を歩く戸村を見ると、今日は手ぶらだ。もしかしたら戸村も、会ってどうするわけでもないのかもしれない。でも、なんとなくそれでもいい気がしていた。
 やがて見覚えのある家構えが目の前に現れた。「早川」と表札のある、男のいた家だ。
 戸村はまるで自分の家であるかのように、ずかずかと玄関に入り込んでいった。私はそんな戸村の様子に眉をひそめながらも、後をついて中に入る。
「いない……」
 先に部屋を覗きこんだ戸村が、ぼそりと呟いた。
「うそ?」
 その後ろから、私も背伸びをして覗き込む。部屋の様子は前回来たときと変わっていない。だが、そこに男はいなかった。
「外に出てるのかもしれないな」
 戸村は身を翻して外に出た。その後ろ姿を追いながら、私は妙に胸騒ぎを覚えた。
 玄関から出て辺りを見渡してみても、人の姿はない。家の外には車が一台停められている。窓から覗いてみたが、そこにも男はいなかった。
「とりあえず、この辺りを探そう」
 戸村の提案に頷く。今私たちが立っている道に沿って進みながら、どこからか男がひょっこりと現れないかと淡い期待を抱く。だが、しばらく道なりに進んでみたが、期待は見事に裏切られた。目についた民家の玄関を開けようと試みたが、もともと閉まっている扉は錆びついていてびくともしない。
「お前は向こうを探してきてくれ。俺はこっちを探す」
 私が頷くと、戸村は自分の指し示した方向へ走っていった。私はそれとは反対の方向へ歩みを進める。道はだんだんと細くなり、縦横無尽に張り巡らされた路地に合流していた。迷路のような路地を、早歩きで探索していく。無造作に置き捨てられた空き缶や、カラスに荒らされたごみ袋をハードル走のように飛び越える。両側の壁に並ぶ、格子の取り付けられた擦り硝子の窓が次々と視界の後ろに過ぎ去っていく。足音に息遣いが混じり合って、狭い路地に反響しながら充満する。男の姿はなかった。
 路地を抜けると、急に視界が開けた。再び広い道が左右を横切っていて、道の向こう側は堤防になっている。車など通るはずのないことは分かりきっていたが、普段の習慣で左右を確認してから、道を渡る。
「海……」
 それは海だった。風に揺られて水面が波紋で彩られることも、潮風の香りに身を浸すこともなかったが、紛れもなく海だった。一面が赤茶色の凹凸のない海原が、空の続く限りに広がっている。この世界の景色はもう散々見慣れてきたはずだったが、苦々しいものが胸の奥からせり上がってくる。
 と、その時、何かが肩に当たる感触がして、思わずひぃと悲鳴を上げる。反射的に身体がびくりと震える。ゆっくりと後ろを振り返ると、そこには反対方向へ男を探しに行ったはずの戸村が、瞳に諦めの色を宿して立っていた。
「どう……したの?」
 私の問いかけに対して、戸村は目を閉じて首を振る。そして左腕に嵌めた腕時計を、私の目の高さにまで掲げる。
「タイムリミットだ」
 戸村が言葉を発するのとほぼ同時に、私たちの身体は時を超えた。

 別に男が常にあの家に住んでいるとは限らない。たまたま散歩に行っていたのかもしれないし、どこか他の家にいたのかもしれない。そもそもこの広い南丈市を私たち二人があんな短時間で探しただけで、男があの世界にいなかったと結論づけるのは、論理的に考えればどうやっても誤っている。
 そんな理屈は十分承知している。承知した上で――それでも私には、男がもうあの世界から消え失せてしまったのではないか、と思えてならないのだ。根拠などどこにもない。戸村が私に聞かせてみせた非現実的な話よりも、もっと荒唐無稽な思考回路から導き出した結論だ。
 滑稽だ。本当に滑稽だ。戸村が主張する時間の仕組みも、男を助けるなどと大それたことをしようとしたことも、そして私の根拠のない予感も。何もかもが現実味を帯びていない。――滑稽だ。
 湯呑のお茶をぐいと飲み干して、テーブルに置く。こん、という音がまるで私の気持ちに同調しているようだ。
 窓から見える空はやや翳り気味だ。今日の講義は全て終わっているし、もうそろそろ帰ろうか――と私が湯呑に手を伸ばしかけたとき、ドアの外からやけに慌ただしい足音が聞こえてきた。戸村か、と瞬時に予感する。
 私は湯呑を置いた。がちゃがちゃと荒々しい音をたてて、ドアノブが回される。
「おい、お前新聞見たか?」
 戸村はドアを開けるなり、息を切らしながら言った。相当のスピードで階段を駆け上がってきたらしい。
「見てないけど、どうして?」
 残念ながら私に新聞を読む習慣はなかった。ニュースといえば、夕食時につけっぱなしになっているテレビから流れ込んでくるぐらいだ。
 戸村は持っていた新聞をばさりと広げ、私の前に突き出した。南丈市では一番メジャーな地元紙だ。戸村の指が、その中のある一点を示す。導かれるように目をやると、物騒な見出しが私の視界に踊り出た。
『地中から男性の白骨死体見つかる』――
「これが?」
 言わんとすることをいまいち理解できず、私は戸村の顔を見返した。
「だからさ」
 そう言いかけると戸村は鞄から四角い物体を取り出した。携帯テレビだ。素早くスイッチを入れて、チャンネルを回す。ちょうど夕方のニュースを放送している。戸村は画面を真剣な眼差しで見つめていたかと思うと、テロップが切り替わった瞬間にあっ、と声をあげた。
「――日午後三時頃、南丈市新丘那(しんみな)町にあるショッピングセンターの敷地から、男性のものとみられる白骨死体が見つかりました」
 新聞にあった記事とどうやら同じ内容を報じているものらしい。南丈市――ショッピングセンター――アナウンサーに読み上げられた言葉の断片に、私は胸騒ぎを覚える。形をもたない何かが、頭の中で組み立てられていく感覚。
 テレビの映像が切り替わった。ショッピングセンターのちょうど裏口あたりが映し出される。自分の鼓動が高まるのを感じ取っていると、アナウンサーの声が続きを読み上げる。
「遺体はおよそ七〜八年前のもので、身に着けていた衣類から、男はショッピングセンター建設時の作業員であったとみられています。衣類に縫いこまれていた名札には早川とあり、警察は身元の確認を急いで――」
 がつん、と脳天を殴られたような衝撃があった。すべての思考がその拍子にどこかへ追いやられて、頭の中が真っ白になる。視線はテレビに釘付けだったが、その実私の目は何もとらえていなかった。
 しばしの空白の時間を経て、ようやく我に返った頃には、テレビは既に次のニュースに移っていた。テーブルに置かれた新聞をひったくって、先ほどの記事に目を通す。内容はテレビで報道されていたこととほとんど変わらなかったが、私は一言一句を暗記してしまう勢いで繰り返し読んだ。
「な、びっくりするだろ?」
 戸村が何かを話し始める。私はそれを意識の隅で、どこか遠い世界の出来事であるかのように聞いていた。
「思うにさ、彼はショッピングセンターの建設員として働いててさ、仕事中に事故にでも遭って生き埋めにされたんじゃないかな。でも、大規模な工事だったからか、あるいは建設員の管理が杜撰だったからか――とにかく誰もそのことに気付かなかった。きっと身よりもなかったんだな。彼は誰にも知られないまま、過去に置き去りにされた。そして八年の時を経て、死体として見つけられることで、再び今へ呼び戻された――」
 能書きをたれる戸村の言葉は、もう耳には入らなかった。現実味だとか、そんなことは問題じゃない。八年前の世界から男が消えた。その世界へ繋がる場所から、男性の白骨死体が見つかった。それだけでよかった。その二つの事実の他には、何も必要なかった。
 そう、やはり彼はもはやあの世界にはいなかったのだ。彼はようやく現在の時に居場所を見つけた。八年の時を超えて、ようやく彼は本来いるべき場所に帰ってきた。ただし、白骨死体になって発見されるという、ひどく残酷な方法で――。目を閉じると、男の虚ろな表情が脳裏に浮かびあがってくる。少ないながら男と交わした言葉を思い返すといてもたってもいられなくなって、持ち前の饒舌さを存分に発揮している戸村を取り残して、部室を後にした。

 部室で戸村がもたらした、衝撃的な符合を知ってから一ヶ月が経過した。その間、私は一度もショッピングセンターの裏口を通らなかった。というのもあれからしばらくは警察関係者とおぼしき人が常にうろうろしていて、なんとなく通行するのが躊躇われたからだ。そうしているうちに裏口の存在がどんどん私の中で薄れていって、気が付けばひと月が経っていた。
 それでも、記憶の底からは消すことができなかった。意識の表層には現れてこないけれど、どこかで常にそれを気にかけている私に気付かないわけがなかった。
 そんなわけで、ある日の帰り道、私は一ヶ月ぶりにショッピングセンターの裏口に侵入した。昼間から澄み渡っていた空は、鮮やかな茜色のそれに姿を変えている。
 カーブを描く道をゆっくりと進んでいく。足しげく通っていたときのことを懐かしみながら。そういえば、講義ノートのお礼に戸村をここに案内したんだっけ――。今考えると変な話だなと、私はくすりと笑った。そうやって物思いにふけっていたら、いつの間にか裏口を通り抜けてしまっていた。
 扉を見落としていたのだろうか、と不審に思って急いで引き返す。ちょうど倉庫のあった位置は更地になっていた。あの世界へと続いている扉は、もうここにはない。あんなことがあったから取り壊されてしまったのだろうか、それとも――?
 けれど、不思議と驚きは感じなかった。なんとなくそんな予感がしていた。
 辺りは茜色の光に色濃く染められている。目の前のまっさらな空間に、ふと男の幻影が見えた気がした。私は呼びかけた。
「――おかえりなさい」