「なるほどな」
あれから再び部室に戻ってきた私は、一人であの世界を訪れたときのことを戸村に詳しく話した。
「二回とも、携帯電話が鳴った途端に元の世界へ戻ってきた、か」
「うん。トンネルがあったかどうかは、ごめん、見てない」
「おそらくなかっただろうな」
妙に自信ありげな態度で言い放つ。
「三つ分かったことがある。一つ目は、あの世界にはここ南丈市の、何年か前の風景が再現されていること。二つ目は、あそこからは自力では戻ってこられないこと。そして三つ目は――時間の仕組みだ」
「時間の仕組み?」
突然現れた抽象的な言葉に、私は首を傾げる。戸村は立ち上がって、本棚から一冊の冊子を取り出した。
「これさ」
戸村の手から冊子が私の方へ放り投げられる。ばさり、と音を立てて机に落ちたそれは、鉄道路線図研究会の会誌だった。
中をめくると、ページ数が書かれている辺りの余白に、イラストが描かれている。そのイラストはページをめくるごとに僅かに変化していた。
「パラパラ漫画……」
暇を持て余した誰かが戯れに作ったのであろう、そこに描かれていたのはパラパラ漫画――素早くページをめくっていくとアニメーションのように絵が動いて見える、あれだ。
戸村の意図することをうまく汲みとることができないでいると、戸松は私の手から会誌をさっと取り上げた。
「つまり、この世界はパラパラ漫画のようなものなのさ。俺たちが普段生きているこの時間は切れ目のない連続的なものではなくて、実は断続的なものなんじゃないかってこと」
「断続的な、時……?」
「そう。パラパラ漫画がページをめくるごとに移り変わっていくように、俺たちも瞬間、瞬間ごとにページがあるんだ。んで、俺たちはそれらをどんどん乗り換えていくことによって、経過していく時間についていくことができる。乗り換えるといってももちろんそれは、無意識的に行っていることなんだけどね」
得意げに自説を展開する戸村の傍らで、私はその内容を理解するのに必死だった。瞬間、ページ、乗り換えていく……戸村が散りばめた断片的な言葉をなんとか拾い集めて、意味のある形へ組み立てていく。これまで戸村に連れられて色々な不思議なスポットへ訪れたし、怪奇現象やオカルト系の本も、半ば押し付けられる格好でたくさん読破した。だが、やはり「本職」に比べると思考能力が大幅に劣っているようだ。
なんとか自分の中で一つの解に辿り着いた私は、答え合わせを試みる。
「つまり……例えば昨日と今日の間には時間の溝があって、昨日の私が今日を迎えるためには、その溝を飛び越えてこなきゃいけない、そういうこと?」
「ご名答。時を渡る、とでも表現したらいいのかな。もっとも、その単位は昨日今日といった大きなものじゃなくて、人間が計測できないほど細かいものでなくてはならないけどね」
戸村の目はいたずらっぽく笑っている。何も言い返さない私を見て愉悦に浸っているのかもしれない。
水を得た魚のよう、という諺の意味を今、身をもって実感する。
「そしてもう一つ。時を渡るには、条件があるんだ」
「条件?」
「そう。――この世界の誰かから呼ばれること、求められること。誰からも存在を忘れられてしまった人は、時を渡ることができない」
これまでとは打って変わった静かな口調に、私の背筋に一瞬寒さが走った。同時に、その言葉の意味を咀嚼すると、恐ろしいことに思い当たることに気付く。
「じゃあ、あそこにいた男の人は……」
「誰からも呼ばれなかったために、過ぎ去った時間のどこかに置き去りにされてしまった人――ってことになるね。そしてどういうわけか、俺たちは彼のいる過去に迷い込んでしまった」
誰からも忘れられて、時を渡れなかった人。今を生きることができなくて、過去に閉じ込められてしまった人。時の一片を切り取って永遠に静止した世界は、ゆえに風化してあんな風に錆びついている。そしてそこに閉じ込められている彼もまた――。戸村の言うことは理解できる。ただし、それが小説や映画といったフィクションの中の話であれば、だ。合理主義を徹底的に教え込まれてきた現代人にとって、戸村の話はあまりにもロマンチックな響きを含みすぎている。
「俺の言ってること、分かるかい?」
「言ってることは……分かる。だけど、そんな非現実的な話……」
「そう。今話したことは全く根拠のない俺の仮説。俺だって別に自分が完全に正しいと思っているわけじゃない、信じてくれなんて強制するつもりはないさ。ただ、そう考えるとあらゆることに辻褄が合うと思わないか? あの異次元と形容せざるを得ない世界が存在していることも、彼の身体がすっかり錆びついてしまっていることも、俺たちが携帯電話のコールによって元の世界に戻ってきたことも、何もかもにね」
戸村の話は全く現実味がなくて、仮に私が何も知らない第三者だったとしたら、とうてい相手にする気はおきなかっただろう。ただ少なくとも私はこの目で見てしまっているし、戸村の仮説を否定できるほど他に合理的な答えを持っているわけではない。何も考えずに頷いてしまいたい気持ちと、どうにもそれができない気持ちがせめぎ合うまま、二人であの世界を訪問してから一週間が経過した。
普段、過剰な頻度で部室に出没する戸村をよく暇人だと揶揄していたものだが、この一週間で見かけたのはせいぜい二、三回。しかも、部室に入ってくるや否や挨拶もなく、何が詰め込まれているかもよく分からない本棚をごそごそと漁ったかと思えば、そそくさと退室していく。まるで私の方が暇人みたいだ。あの世界に関する何かを調べていることは分かっているが、一体何をどうしようというのだろう。
私は私で、あれ以来ショッピングセンターを通過するショートカットを使わなくなった。別にはっきりとした理由があるわけではない。戸村の空想話が思いのほか私の心にしっかりと植え付けられていて、いざあの扉を目の当たりにしたとき、冷静に状況を整理できる自信がない、ただそれだけのことだ。
心の奥底では常にあの世界のことが引っかかっているのに、あえて直視することを避け続けてきた、そんなある日。いつも通り部室でお茶を冷ましつつ休憩していると、外から威勢のいい足音が近づいてきた。戸村だな、と瞬時に予感する。予感は的中し、やがて私の優雅なティータイムは、荒々しく扉を開ける侵入者によって邪魔された。
「行くぞ!」
よほど急いで来たのだろう、戸村の息は上がっていた。
「行ってどうするのよ?」
とりあえず誘われるままについてきたのはいいものの、いまいち状況が飲み込めていない。これまでも戸村の鶴の一声で私や後輩たちが突然駆り出されるということはあったが、今回ばかりは場所が場所だけに不安が募る。救いがあるとしたら、後輩にまで被害が及ばなかったことぐらいか。
戸村は右手に紙袋を提げている。中を覗いてはいないが、膨らみ具合から察するにどうやら結構な重量がありそうだ。
「言っただろ? 誰かから呼ばれなければ、過去に置き去りにされるって」
「……」
「あの男の人がこの世界へ戻ってくるためには、誰かが彼のことを思い出してくれないといけないんだ。どうやら過去の世界で会っただけの俺たちじゃダメみたいだしな。ただ、名前も分からないのに俺たちが彼の知り合いを現在の世界で探せるとは思えない。なんとかして自分のことを思い出してもらって、それを手掛かりに探す。その方が手っ取り早いんだよ」
歩みを止めないまま、紙袋の中身を私の方へちらりと見せる。入っているのは写真のコピーのようだった。その中から一束を取り出してみると、見たこともない古い町の一角を写した写真ばかりだ。が、よく見ると南丈西商店街や、ショッピングセンターの写真もある。
「これは……?」
「気が付いたらあの家にいた、って言ってたろ? ということは、その辺りに住んでいたか、もしくは馴染みがあった可能性が高い。あの世界がどのくらい過去なのか分からないから、とりあえず片っ端からあらゆる時代の町の風景を集めてみたんだよ。どれかの写真をきっかけに何か思い出すかもしれないからな」
それは、確かにそうだ。でも、そうやって彼の素性を明かしていって、一体どうするというのだろう。仮に彼の知り合いを見つけることができたとして、そして彼をこちらの世界へ呼んだとして、そしたら――彼は一体どうなるのだろうか?
「もしかして、あの男の人を助けようとしてるの……?」
「助ける、という言葉が適切かどうかは分からない。結果的に助けることになるかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ少なくともあんな異様な世界をたった一人で孤独に彷徨っている彼の心中を察するに、何もせず放置しておくことが正義だとは俺は思わないね」
私にとっては四度目の、戸村にとっては二度目の――戸村が単独で訪問していなければ、の話だが――奇妙なタイムトリップ。暗いトンネルを抜けた途端に迫るように視界いっぱいに広がる赤茶色は、未だに私の胸をぎゅうと締めつける。が、光景は見慣れてしまったし、恐れはほとんど感じない。戸村はといえば、まるで通い慣れた大学の構内でも歩いているかのような気楽さで、道なりに早足を進めていく。
無言の戸村の後ろを私も黙ってついていくうちに、前回来たときとは別のルートを辿っていることに気が付いた。
「どこに行くつもり?」
前回は民家や個人商店が建ち並ぶ住宅街だったが、今は進むにつれてどんどん建物がまばらになっていく。やがて建物はほとんどなくなり、左手にはちょうど背丈ぐらいの板塀が緩やかにうねりながら続き、右手は土手のような斜面になっている。置き去りにされた過去、という戸村の言葉が胸に落ちてくる。この土手の上を無邪気な子供たちが駆け回る――そんな平和な風景がかつてはあったのだろうか。不毛の地を思わせる赤茶一色の荒涼たる景色に、空想を重ね合わせる。
板塀が途切れているところで、戸村が立ち止まった。
「やっぱりそうか」
戸村は途切れた板塀を覗き込んで呟いた。私もその後ろから覗き込む。巨大な敷地に、背の低い城壁のような影がずっと続いている。知らず知らずのうちに私の鼓動が早まる。
まだ基礎工事の段階であろう、南丈市の中心に堂々とそびえる現在の面影こそないが、それは紛れもなくこの世界に来るきっかけとなったあのショッピングセンターの工事現場だった。立て掛けられた看板に記された完成予定日が、それを裏付けている。
「ショッピングセンターの工事が始まったばかりの頃、ね」
「あぁ。つまりこの世界は、およそ八年前のものだってことだな」
「八年」
その年数の重みに、私は胸を衝かれた。八年もの間、誰からも必要とされず存在を忘れられる、ということはどういうことだろう。例えば私であったら、深夜まで家に帰らなければ両親が心配して私を探すだろう。戸村だってそうだ。家に限った話だけではない。鉄道路線図研究会の部室に行くときは、必ず戸村のことを思い出す。仮にしばらく顔を出さなければ、どうしたのかと気になってあの手この手で連絡を取ろうとする。あの男の人にはそういう居場所がなかったのだろうか。そんなことがあるのだろうか……。
と、私は肝心なことを思い出した。
「そういえば、私たち元の世界に帰れるのかな? 前回は偶然携帯が鳴ったからよかったものの、下手したら明日とか明後日とかまで帰れない可能性があるんじゃ……」
「大丈夫。今日は仕込んできたからさ」
「はぁ?」
戸村は不気味なほどににっこりしてみせた。白い歯が零れる。それから急に表情を戻して、もったいぶるように前髪を掻き上げた。
「さて、事情聴取といきますか」
前回と同じ家の同じ部屋、そしてちゃぶ台の同じ場所に陣取って、戸村の「事情聴取」は始まった。男は戸村が次々と差し出す写真を、相変わらず緩慢な動作で手に取っては一瞥をくれるだけで床に積み重ねていく。錆の降り積もった睫毛がひどく重そうで、それもあって男の表情は気だるげだった。
紙袋が空っぽになった。男は最後の一枚にも同じように一瞥をくれると、静かに床に置いた。
「――どこか、覚えのある場所は」
男は静かに首を振る。虚ろな瞳は床に散らばる写真の方を向いてはいるが、焦点がまるで合っていない。戸村のお土産は男の興味をそそるにはまるきり不十分であったようだ。
戸村は苛立たしげに立ち上がった。部屋の奥にある桐箪笥に近づき、引き出しを開けようとする。ガタガタと何度か取っ手を引いてみるが、びっしりと張りつく錆に阻まれて開かないようだ。桐箪笥を諦めて、隣のテレビ台にターゲットを移しても、同じだった。戸村は振り返って部屋をぐるりと見渡し、全てのものが錆の内に封印されていることを思い知ったのだろう、すごすごと元の位置に戻ってきた。
男はそんな戸村の所作も気に留めずに、この部屋にある他の調度品と同じように微動だにしない。
「本当に何も思い出せないんですか?」戸村も男の様子に関わりなく、容赦なく質問を浴びせる。「何でもいい。例えば家族――奥さんとか、子供さんとか――」
「いい加減にしてくれ!」
それまでの男の様子からはおよそ想像つかないような激しい怒声に、二人そろってびくりと肩を震わせる。男はしかし相変わらず視線を床に落としたまま、静かに続ける。
「もうやめてくれ……たくさんだ……やめてくれ……」
今度は打って変わって、男の喉から絞り出されたのは涙まじりのか細い声だった。声は延々とやめてくれ、たくさんだ、の二つのフレーズを、壊れてしまったカラクリ人形のように繰り返す。
「……もう、帰ろうよ」
戸村の服を引っ張って退室を促す。男がなぜ突然怒り出したのか正確なところは分からないが、戸村の説の通りならば彼は八年もの間ずっと同じ景色を見て、同じ毎日を繰り返してきたのだろう。戸村はこのままにしておくことが正義だと思わないと言ったが、男にとっては私たちこそが、異世界からの闖入者であるのかもしれないのだ。
戸村は床に散らかった写真を拾い集めて紙袋に戻すと、すくと立ち上がった。
「また来ます」
「ちょっと」
「また来ますから」
そう言い残して部屋から引き上げていく戸村の背中と、今の言葉が聞こえているのかいないのかもすらわからない、相変わらずぴくりともしない男の横顔を交互に見やる。
私は自分で言いだした癖に、なんとなくこの部屋から出ることに躊躇いを覚えた。男のシルエットが砂でできた城のように風に攫われて崩れていき、やがて消えてなくなる――そんな想像がなぜだか突然、頭の中に広がった。男があまりに悄然としているからだろうか。私たちが帰ったら、太陽すら存在しないこの広大な薄暗い世界に、彼はたった一人。彼を私たちの世界に引き戻す効力こそなくても、彼の存在を胸に刻んでおくことがせめてもの慰みだというような気がした。
私を呼ぶ戸村の声に、はっと我に返る。後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にした。最後まで男は動かぬままだった。
外に出ると、戸村が家を取り囲む塀にもたれかかって携帯電話を見つめていた。さりげなく覗き込むと、黒い画面に戸村の険しい表情が映っている。
どうしたのかと訊ねると、答える戸村の口調はやけにぶっきらぼうだった。
「三時に電話かけてってお願いしといたんだよ」
その答えに、先ほどの「仕込んできた」の意味をようやく理解する。確かに、ここから自力では帰れない。ならばあらかじめ指定した時間に元の世界から呼んでもらえばいい、というわけだ。腕時計は三時三分前を指している。
戸村から続きの言葉があるかと身構えていたが、予想に反してそれはなかった。やはり、多少なりとも機嫌を損ねているらしい。それもそうか――と、戸村の左手にぶら下がっている紙袋に目をやる。私にできることは、この気まずい沈黙に耐えながら、残り三分をやりすごすことだけだ。
長いようで短く、それでもやはり長い、三分間。戸村の携帯から電子音が鳴り始めたとき頭をよぎったのは、この三分間で私は何度、時を渡ったのだろうかという他愛もない疑問だった。