夢の淵で

 足元が、揺れている。
 大海原の不安定な波間に漂う果実のように、ゆらりゆらりと揺れている。
 ――ここは、どこ?
 視界を覆う暗闇の空間へ、彼女は問いかける。しかし、返ってきたのは重い、重い沈黙。
 やがて足元の揺れは大きくなり、がらがらと音を立てて崩れ落ちた。――

「絶対に行かせない」
 女はことさらに鬼のような形相で、赤毛の少女を壁際に追い込んだ。少女はきっと睨み返しながら、右手に握りしめていた紙をとっさに背中に隠す。女の背後で揺れるランプの炎が、常夜に浸されたこの部屋を妖しげに照らし出している。
 少女はまだ十二、三といったところだろうか、鋭い目つきの中には時折恐れの色が見え隠れする。
「その紙を貸しなさい」
 少女の身体を壁からむりやり引きはがし、手に持つ紙を強引に奪おうとする。女の長い髪はぐちゃぐちゃに乱れ、普通にしていれば誇れるほどの美しい造形をした顔にはいたるところに皺が刻まれていた。
 少女は必死に抵抗した。力ではとても敵わないことを知ってか、空いている左手をぶんぶんと振り回して女を遠ざけようとする。その勢いに女は一瞬怯んだが、口元に歪んだ笑みを浮かべると、暴れまわる少女の左腕をがしりと掴んだ。
「愚か者め」
 そのまま少女の身体を床に倒すと、靴を履いたままの足で背中を勢いよく踏みつけた。がたり、とテーブルに置かれたランプが微かに音を立てる。その拍子に炎は一瞬ぐらりと大きく波打ったが、すぐに元の小刻みな揺動に戻った。
 女はまるで壁際に溜まった埃でも見るような目つきで少女を見下ろす。少女の口から漏れる呻き声にもまるで無頓着だ。氷の冷たさを思わせるその目には何の感情も宿っていなかった。
 ふん、と鼻をならすと、女は姿勢を屈めて少女の手から紙を奪おうとした。少女はもはや抵抗しなかった、否、できなかった。するり、と紙を抜き取ると、忌々しそうにそこに書かれた文字を見つめる。
「まさかあんたが私に黙ってこんなことをしてただなんてね」
 そう吐き捨てると、女は紙をランプの炎にかざす。少女は目を見開いて思わず叫んだ。
「やめて!」
 次の瞬間、紙は音もなく塵と化した。女の忍び笑いだけが部屋に響き渡る。
「若さゆえの甘い夢を見るのはもうおやめなさい」
 吐き捨てるようにそれだけ言い残して、女は部屋から出ていった。ばたり、と扉が閉まった後に、常夜の部屋を支配するのはただ静寂のみ。少女はゆっくりと目を閉じた。頬に流れる涙が冷たかった。
 夢の象徴を一瞬で飲み込んでしまった炎は、相変わらず静かで、妖しげに微動を繰り返す。

 ――あぁ、これは……。この光景は……。
 あまりの悲惨さに思わずすっと目を逸らす。だが、逸らした先にも同じ光景があった。野獣のように振る舞う女と、蹂躙される少女。
 ――あれは……。あの少女は……。
 どれだけ目を逸らしても決して消し去ることができない、それは己の記憶だった。
 はっきりとしない意識の中で、彼女が感じたのは痛みだった。――

「――サ、アリッサ」
 誰かが自分の名前を呼んでいる。そのことを自覚したとき、暗闇の中に突然光が差した。と同時に、ゆらりゆらりと揺れるこの空間が夢の中だということを理解した。
 アリッサはゆっくりと目を開けた。
「アリッサ、大丈夫? 随分うなされていたけど」
「う……」
 目を開けてからもアリッサはしばらく放心状態で、心配そうに覗き込むエリンの姿をぼんやりと見つめていた。
「どうしたの? 気分悪い? 今日は休もうか?」
「君、初日から休むわけにはいかないだろう」
「……なんだ、元気じゃん」
 エリンは安堵の息を漏らし、その場に座り込んだ。サイドテーブルにはマグカップが湯気をたてている。エリンが用意してくれたものだろう。
「夢を見たんだ」
「夢? どんな?」
「――昔の夢さ」
 茶色で統一された落ち着いた内装。白いレースのカーテン。窓から見える風景は生い茂る樹木と、視界いっぱいに広がる空。
 どれも彼女の生家にはなかったものだ。ここは遠く離れたリトワール国立学院の寮で、隣にはルームメイトのエリンもいる。
 ――大丈夫。もう誰にも渡さない。
 アリッサは身体を起こした。