03

 学生の本分は勉強である。いくらアルバイト先で重宝されようと、サークル活動で全国大会に出場しようと、単位を落として卒業できなければ本末転倒だ。そのためには日々の講義にきちんと出席し、教授の指定する課題をこなしていかなければならない。――が。実際にそんな愚直な方法を四年間も継続できる学生が一体どれほどいるだろうか。悲しいことに、友人や先輩から単位を得る「コツ」を収集する方が、よっぽど少ない労力で大きな成果を挙げられるのは事実なのである。人間は理性を持った生き物なのだから、費用対効果のより高い方法を積極的に選択するべきだという主張は、あながち間違っているとはいえないだろう。
 そんな風に心の中で言い訳をしつつ、私は「佐々木の講義」の板書のコピーを、部室でお茶を冷ましながら待った。
 部室というのは私の所属する鉄道路線図研究会の部室で、その実態は五畳半の部屋にテーブルや冷蔵庫、本棚といった家具類と、何が入っているのかもよくわからない段ボール箱がぎゅうぎゅうに詰め込まれただけの狭苦しいスペースだ。名前からどんな活動をしているのか想像もつかないこの研究会はちょうど私が入学した年に設立されたもので、現在は三年生が私を含めて二名、二年生と一年生が各一名ずつという超弱小サークルだ。だからこんな倉庫のような部屋があてがわれたわけだが、百を超えるサークルを抱えているにも関わらず、たった四人しか所属していないサークルにも部屋を割り当ててくれる大学側の律儀さには頭が下がる思いである。
 給湯室の電気ポットはいささか威力が強すぎるところがあり、淹れたてのお茶はとてもじゃないがそのままでは飲めない。だから湯呑を部室に持ってきてから数分間は、冷ますという作業が必要になる。そろそろ飲める頃合いだろうか、と湯呑を持ち上げたとき、廊下から聞こえる足音がこの部屋に向かってくることに気付いた。案の定、ドアノブが粗暴に回されて、プリントを抱えた男が現れた。
「ほらよ」
 その男――鉄道路線図研究会に所属するもう一人の三年生、戸村は、抱えていたプリントをテーブルの上に放り投げた。午前中に欠席した「佐々木の講義」のノートを、コピーしてくれるよう戸村に頼んでおいたのだ。
「ご苦労、ご苦労」
 私はにんまりと笑みを作り、プリントを鞄に仕舞い込む。自分のお茶を啜りながら、用意していたもう一つの湯呑を戸村に渡す。戸村は受け取ると、湯呑の熱さから察したのだろうか、湯加減も確かめずに一気に飲み干した。
「佐々木の講義はサボるとやべえって」
「大丈夫、私この間の小テスト、評価Aだったから」
「そういう問題じゃないだろ」
 戸村は私の知っている学生の中では割と真面目な学生である。といってもそれは単に講義への出席率が高いという意味であって――そういう意味で私は戸村に大変助けられている――嗜好はどちらかというと変人の部類に入ると私は評価している。ミステリーや七不思議といった話が大好きで、訪れた心霊スポットは数知れず、人魚が出ると噂を聞けば、その場所がどこであろうと平気で一週間張りついてビデオを回し続けるような男である。しかもなぜかそれをサークル活動の名目で行うものだから、私と他二名の可哀想な後輩たちも強制的に連れて行かされる。そこまでしてなぜミステリー研究会に入らないのかと問えば、戸村曰く、大きな組織の歯車になるのは嫌なのだそうだ。
 私には理解不能な男である。だが、その理解不能さが時には役立つこともある。
「このお礼はどっかでしろよなー」
 戸村は湯呑を置いて立ち上がった。部屋を出ていこうとする戸村を引き留めて、私はもう一度にんまりと笑みを作った。
「面白い場所があるんだけど、行ってみない?」

 喉元過ぎれば熱さを忘れる――今の私ほど、その言葉が嘲りの響きを含んで迫ってくる者はいないだろう。
 たった三時間前に二度と来るまいと決意したばかりだ。すべて忘れてしまって、元通りの日々を送ろうと。それなのに今、私の眼前には赤茶一色の世界が広がっている。
 隣では戸村がぽかんと口を開けてつっ立っている。ノートをコピーしてもらったお礼に、私は戸村をこの不思議な世界へと招待したのだ。
「なんだここ……すげえ」
 ミステリースポットに足しげく通いつめてきた戸村でも、さすがに圧倒されている様子だ。それもそうだ、いくら霊だの人魚だの騒いでもそれは日常の中に垣間見る非日常に過ぎない。私たちが立っているこの場所は、全てがまるごと非日常なのである。
 しかしさすがは戸村と言うべきで、既にこの世界に適応し始めているらしく、あちこちを調べてその感触を確かめている。急に誘ったものだからご自慢の一眼レフカメラを持っていないのだろう、戸村はポケットから携帯電話を取り出して写真を撮ろうとした。が、しばらくしてもシャッター音は聞こえない。
「どうしたの?」
「携帯が使えない。電源が入らないんだよ。さっき見たら充電は満タンだったから電池切れってことはないんだけど」
 私は鞄から自分の携帯電話を取り出した。電源を切った覚えはないのに、画面は暗くなっている。電源ボタンを長押ししてみても、いっこうに起動画面は現れない。
「ま、写真はいいや」
 ぱたんとわざとらしい音を立てて、戸村は携帯を折りたたんだ。ポケットに仕舞い込むと、にやりと不敵な笑みを浮かべて私に言った。
「さ、件の場所へ案内しろよな」

 南丈大学はその名の通り南丈市の外れに建つ大学で、歴史の浅さもあって在学生の殆どが南丈市との出身だ。とは言ってもそれなりに広い市であるから、生まれ育つ環境は当然ばらばらである。幸い、というのも奇妙な表現であるが、戸村は私の隣町の出身で、南丈西商店街を始めとする辺り一帯についてはよく知っている。戸村の言う「件の場所」だ。
「ははん。なるほどねぇ」
 私が既視感を覚えたところの辺りで、戸村は顎に手をやって周囲を見渡した。声のトーンは明るい。どうやらこの状況を楽しんでいるようだ。
「確かにガキん時に来た覚えがあるな。今じゃ、とっくに取り壊されてるが」
 ふむふむ、なるほど、などと呟きながら戸村は路地へ入っていった。私は黙ってその後を付いていく。足音や衣擦れの音が狭い路地の中で妙に反響して聞こえる。私は急に心細くなって、前を行く戸村の大きな背中を懸命に追いかけた。
 路地を抜けると再び広い道が現れた。雰囲気は先ほどの場所とそれほど変わらないが、今度は見たことのない場所だ。右手を見やると小さな二階建てのアパートで突き当たっている。戸村は左手へ進んでいった。
「ねえ、あんまり奥へ行くと迷うんじゃない?」
 今にもスキップをし始めそうな軽やかな足取りでどんどん探索していく戸村を牽制するように声をかける。
「お前、ここ来るの三度目だっていうのにずいぶん弱気なんだなー」
 返ってきた答えに、それこそそういう問題じゃないでしょ、と戸村の言葉を借りて心の中で毒づいた。こんな異様な世界に来て早々適応できるのは戸村ぐらいなもので、通常の神経をしていたら何度来たって慣れるものではないだろう。しかし、そんな戸村の態度に頼もしさを感じるのも事実だった。
 三叉路を左へ曲がったところで、急に戸村が立ち止まった。険しい顔つきでじっと一点を凝視している。
「おい……あそこ」
 戸村の指が示す方向に視線を遣ると、そこには一台の車が停まっていた。フロントガラスのところどころが錆に覆われているが、よく見ると中に人影のようなシルエットがあった。思わず二、三歩後退する。だが、視線はそこから外せずにいた。
 二人ともその場でしばらく見つめていると、人影のようなものがごそごそと動いた。後方で動けずにいる私を差し置いて、戸村は車へと近づいていった。フロントガラスの前で戸村が立ち止まるのと、車のドアが開くのは同時だった。ドアから現れたそれを視界にとらえて、私は短い悲鳴をあげた。
 現れたのは確かに人影だった。が、それは普段私たちが町中で見かけるような人の様相とはおよそ異なっていた。
 車や周りの建物同様、その人影にもまた錆に覆われているのだった。肌や髪にもざらざらとした錆がびっしりと張りついていて、本来の質感はまるきり失われてしまっている。人間というよりも、よく出来た人型ロボット――それも随分使い込まれた末に廃棄された――と表現した方がふさわしいかもしれない。
 人影は車から降りかけたところで私たちの姿を認めて、中腰のまま怪訝そうな眼差しをこちらに向けた。そして声ともいえない声でひとしきり呻いたあと、立ち上がってぼそりと呟いた。
「俺以外の人がいるとはな」
 吐き捨てるように発せられた言葉は、どこか諦めに似た声色を含んでいるように思われた。片腕を車の屋根にもたれかけて、もう一度短い呻き声をあげる。もしかしたら溜息のつもりなのかもしれない。
 私は戸村の影に隠れてそっとその人物を観察してみた。先ほど耳にした声や体格から考えて、男性であることは間違いないだろう。年齢はよくわからないが、動作がいちいち緩慢で、ずいぶん年を取っているようだ。のろのろと数回首を振った後、男は背後にある民家へ入っていこうとした。
「あなたはずっとここにいるんですか」
 男を引き留めるように、戸村が問いを投げかける。男はゆっくりと振り返って、何やら目で合図をした後、民家の中へ消えていった。どうやら入れということらしい。私と戸村は顔を見合わせてから、男を追って民家のドアをくぐった。表札をちらりと見やると、辛うじて「早川」と読み取れた。
 玄関は三和土も上がり框もその先に続く廊下も、錆に覆われて区別がつかないほどだった。それでも一応靴を脱いで、中へ入る。男は廊下の先にある和室で、座布団と思しき物体に腰を下ろしていた。
 六畳ほどの和室で、三面が壁になっている。あとの一面は障子戸で、開いた隙間の向こうには庭が見える。入って右手奥には最近はほとんど見かけなくなったブラウン管テレビ、その横には背の高い桐箪笥がまるで威圧しているかようにそびえている。テレビの少し手前にちゃぶ台があり、男はその向こうに座っているのだった。
「……覚えてないな」
 私たちがちゃぶ台の反対側に腰を下ろすと、男はぽつりぽつりと語り始めた。苦しそうに絞り出されるしゃがれ声は聞き取るのに神経を研ぎ澄まさなければならなかったから、私は自然とちゃぶ台に身を乗り出す格好になった。
「自分の名前も、何をしていたかも全く。いつからここにいるのかも分からないが、ふと気が付いたらこの家にいた。そう……随分長いことな」
「自分が誰かも……覚えていない」
 戸村が男の台詞を繰り返した。
 あぁ、と男は短く呟く。声を発するのがよっぽど苦しいようだ。
「表札には早川、とありますが、それはあなたの名前ではない?」
 さぁな、とまたしてもぶっきらぼうに言葉を投げ返してくる。私は恐る恐る訊ねてみた。
「あなたは……ここで何をしてるんですか? 食べ物は?」
「食い物はないし、必要もないね。何せ、腹なんか減りやしないんだから」
「お腹が空かない?」
「あぁ」
 一体、目の前にいるこの人物――人物らしきもの――は何者なんだろうか。初めて見たときに感じた恐れのようなものは、すっかり消え失せている。普通に会話は成立するし、男の所作は緩慢ではあるがどう見ても人間のそれである。だが、全身が錆に蝕まれていて、お腹が空かない――もしかしたら本当にロボットなのではないか? 馬鹿げている、と即座に一蹴できないような想像が、私の脳内を駆け巡る。
 きっと戸村の考えも私とそれほど離れてはいないのだろう、返ってくる答えの分かりきった問いを、性懲りもなく男にぶつける。
「生まれてこの方ずっとここにいたわけじゃないんですよね。子供の頃の記憶は?」
 ちゃぶ台のちょうど反対側を力ない目で見据える男の口から、ないな、と言葉が漏れる。戸村はすぅっと短いため息をつくと、これが最後の質問です、と前置きしてから言った。
「ここはどこなんですか」
 戸村と私は答えを待った。沈黙が部屋を満たす。男は虚ろな視線を固定したまま、その口は開かない。
 これ以上はどれだけ待っても沈黙が破られることはないだろう、と思えるほど長い間があった。やがて戸村は静かに立ち上がり、玄関の方へ向かった。私も慌てて後を追う。錆びついていて閉まらない引き戸は開いたままにして、元来た道を引き返す。その間、戸村は一切口を開かなかった。眉間に皺を寄せて、難しい表情で何かを考え込んでいるようだ。
 やがて私たちはトンネルへと続く坂まで到達した。そういえば、二度目に来たときはこの辺りで急に元の世界に戻ったんだっけ――そんな回想をしていると、いつの間にか坂を上がりきっていた戸村の叫び声が聞こえた。
「トンネルがないぞ!」
 一面が生い茂る草木だった。錆びついて鋭く尖るそれは、まるで異界からの侵入者を阻む巨大な剣山のようだった。
「うそ……」
「お前、どうやってここから戻ったんだよ?」
 戸村の声は焦りの色を含んでいた。ここに来て初めて見せる戸村のそんな様子に、私は動転して思考が散り散りになる。
「それは……」
 そのとき。戸村のポケットの中からこの世界にはおよそ似つかわしくない電子音が鳴り響くのを聞いて、私は無意識のうちに何かを予期した。それが何なのかを考える間もなく、私たちは夕日に染められたショッピングセンターの裏口に立っていた。