プロローグ「月の下で」

「イアトスのご加護だ!」
 かちどきはあがった。トロイラは勝利をおさめた。国境は守られたのだ。ぎらぎらと感情にまみれたトロイラ兵たちと、累々たるエレンシュラ兵たちの物言わぬ死屍を、月明かりが克明にさらしだす。
 その喧噪にまぎれて、まだ息のあるエレンシュラ兵がするりと逃げだそうとするところを、目ざとい一人のトロイラ兵が視界にとらえた。精一杯息を吸い込むと、浮かれに浮かれて理性を知らぬ子のように踊りころげている兵士たちへ向けて怒号を放った。
「残党だ!」
 トロイラ兵たちはぴたりと彼らの動作をとめ、いっせいに同じ方向を振り向く。何百もの視線が自分に突き刺さるのを全身にたった鳥肌で受け止めたエレンシュラ兵は、ひきつった顔を彼らに披露する間もなく駆けだした。だが、しょせん一人の傷ついた人間など、数の暴力を利用すればとらえるのはたやすかった。
「や、やめてくれぇ……!」
 エレンシュラ兵が駆けだしてから、慈悲のないトロイラ兵に羽交い締めにされるまでほんの数秒もかからなかった。それこそ、少しでもよそ見をしていたら見逃してしまうほどだ。獲物がもう逃げられないと悟ったトロイラ兵たちは、月明かりの鋭い光を瞳に宿した。こびりついた鮮血がいまだ黒ずむことなくその刃を染めあげる剣をおのおのが振り上げて、散り散りだったトロイラ兵は獲物をめがけて再び集まろうとしていた。
「うわぁぁぁっ……!」
 深紅の飛沫が押し寄せたトロイラ兵に降り注ぐ。だが、誰一人としてそんなことを気にかける者はいなかった。飢えた獣のような形相をした彼らにとって、頬に飛び散る返り血の生温さすら誇りの象徴だった。
 やがて獲物をむさぼり尽くすと、イアトスの名のもとに結集したトロイラ兵たちは用済みになった残骸を月明かりの中に放り出した。目的を失った彼らはまるで大地に流れ出す水のように、おのおの気ままに散らばっていく。
 残されたのは深紅の海と、その中に浮かぶ肉と骨の塊だった。