1章「始動」-01

 高い石垣に囲まれた仰々しい建物を背にして、エルセの足取りは重かった。振り返ると、さきほどエルセを追い返した兵士が、扉の前から拒むような視線を彼女に送った。あんな視線で射抜かれたら、立ち止まっていることなどとうていできない。あの扉の向こうに、兄がいるというのに。いくら変わり果てた姿だって、兄は兄だ。両親のいないエルセにとってたった一人の肉親だったのだ。
 それを、その兄の葬儀を、エレンシュラ軍はあくまで内密に執り行うといった。実妹だといくら説明しても、門番の兵士はまるでとりつく島がなかった。国を守る任務に就いた者として、その死を国が讃え、悼み、敬うべきという考えは、そんな物騒な世界とは無縁のエルセにも理解できる。だが、納得できるかと問われたら話は別だった。
 エルセは唇を噛んだ。どうすることもできない。道ばたの石ころを感情にまかせて蹴り上げても、前方でぽちゃんと音がするだけだった。昨日まで雨が降り続いていた。ところどころにぬかるみが仕掛けられている道を、エルセは気にとめることなくまっすぐと進んでいった。もう振り返る気にはなれなかった。
 家に着くころには、新調したばかりのエルセの靴は泥だらけだった。乱暴に脱ぎ捨てると、わざと音を立てて廊下を歩く。そうすれば兄がひょっこりと現れて、いつものように迎えてくれるような気がした。嫌な顔ひとつせず、どうしたんだい、と。だが、兄は現れなかった。エルセの心に自分の足音が反響する。狭い狭いと文句ばかり垂れていた家なのに、兄がいないだけで永久に続く荒野に放り出されたような心地だった。
 正装を解くとエルセは寝台に寝転がった。さまざまな感情が波打って、エルセの胸をかき乱す。それでも、目を閉じてはいけない、と必死にまばたきを繰り返す。ひとたび眠りに落ちてしまったら、ひとりで夢のふちから這い上がって、二度と自分以外が音を立てることのないこの空間に戻ってくるために目覚めなければならない。そうしたら果たして正気を保っていられるだろうか。だが、いっそ狂ってしまえたらという願いも、打ち寄せる感情の波に確かに隠れていた。ややもすれば崩れかけてしまいそうな心の隅に、兄の顔を思い浮かべる。再びまみえることのないその幻影を、せめて笑顔のままにとどめておきたい。
 エルセは寝台を降りた。

 自分の部屋はおおかた整理し終えた。エルセは兄の部屋の前に立ち、主人を失って固く閉ざしたままの扉に手をかけた。受け入れなければならない現実が、この扉の向こうに横たわっている。兄はもういない。本当のところ、エルセはその意味をじゅうぶんに咀嚼できていなかった。だが扉を開けてしまえば、現実が鋭い破片となってエルセに降り注ぐ。その予感に打ち震えて、エルセの手はまるで石にでもされてしまったように動くことを拒んでいた。
 無機質なかたんという音が背後から聞こえると、エルセは呪縛が解けたように身体を震わせた。郵便だろう、と顔は扉に向けたまま推測する。兄の死によってとらなければならない手続きが山のようにあるのだ。エルセがいくら拒もうと、現実の方からひたりひたりと忍び寄ってくる。エルセは観念して扉を開けた。
 部屋は想像していたより整然としていた。まだ兄が生きていた頃、徴兵のたびに家を空ける兄の部屋を掃除するときは、男の匂いの立ちこめる中、あちらこちらに散らばる衣服や小物、それに食事の残りを文句を言いながら片づけたものだった。最近は家を空けることがなくなり、兄の部屋に入るのは久しぶりだった。エルセに苦労をかけることに良心を痛めたか、そうでなければ人格が変わってしまったとしか思えないほど、部屋にはほとんど物がなかった。まるで、自分の死を予期していたかのように。
 がらんとした部屋を見渡して、エルセは胸の中に吹き付けるすきま風に身を震わせた。兄は、もういない。その現実が、ただ物書き机と寝台、それに歯の抜けたような棚のみが無表情に設えられた空間として目の前に迫ってくる。エルセの中で吹きすさぶ凍える風が、頬をつたう涙に姿を変えた。エルセはしゃがみ込んで、顔を覆った。

 兄が好きだ。そう打ち明けると皆そろって仲の良い兄妹だと誉めた。エルセにそれ以上の秘めた思いがあったとは、誰一人として見抜けなかった。当の、兄でさえも。胸の底でくすぶる兄への思いは、年を経るごとに大きくなっていったのに。

 残されたわずかな兄の持ち物を、ガラス細工の置物を扱うかのように、丁寧な手つきで櫃に納めていく。家具を持ち出す方法はないかと考えたが、とても持ち出せる大きさではない。このまま売り渡すしかないだろう。エルセは椅子に腰掛け、兄の使っていた物書き机に頬をあてた。ひんやりと頬に伝わる冷たさを愛でるように、ゆっくりと頭を前後に動かす。窓から見えるのは茜色に染まった空。もう兄は灰になってしまったのだろうか。残酷な想像がエルセの胸を締め付けると同時に、机に触れていればいつまでも兄と繋がっていられるのではないかと、エルセは頭を上げることができなかった。
「エルセー、いるかー?」
 脳天気な呼び声がふいにエルセの思考を中断した。ゆるゆると頭を上げると、エルセは上着の裾で頬をぬぐった。兄の部屋を出ると、声の主はエルセに無断で家に上がってきていた。
「エルセ」
 声の主、エルセの幼なじみであるターキィは、エルセの目が赤くなっていることに気づくと心配そうに名前を呼んだ。次いでエルセの部屋、エルセの兄の部屋を順番に覗くと、運び出す櫃を数えた。
「荷物はこれで全部か? 家具は置いていくんだよな?」
 ターキィの問いかけに対して、エルセは足の折れてしまった小鳥のように弱々しく頷くことしかできなかった。昔から男の子に混じって遊んでいた少女の姿とはまるで正反対だ。ターキィは何も言わずにエルセの頭を撫でると、櫃をひょいと持ち上げて外へ運び出していった。エルセは部屋の中と外を往復するターキィの姿を、どこか遠い世界の出来事であるかのようにぼんやり目で追うことしかできなかった。
「ほら、行くぞ」
 頭上からターキィの声が降ってきて、エルセは沈みかけていた意識を拾い上げた。いつのまにか、櫃がすべて運び出されていた。部屋のランプは消されていて、窓から射し込む弱々しい月明かりだけが、がらんどうとなった空間を映し出す。ここで過ごした思い出が一気にあふれ出てきそうになるのを、ふいと触れたターキィの温かい手のひらがせきとめた。エルセは彼の手を握り返した。ターキィの温もりに導かれ、これまで過ごした十六年間が闇の中に葬られていくのを何度も振り返って確かめながら、二度とくぐることのないであろう玄関の門を後にした。

***

 ウェルバーニアが兵舎に入ると、見張りの兵士は恭しく敬礼をした。
「おい」
 見張りの兵士はウェルバーニアに声をかけられるとは思っていなかったのか、ぎょっと目をむいて態度を改めた。
「今日の昼間、門番をしていた者は誰だ」
「は、ラーケスという者です。二階の最南端の部屋におります」
 答えを聞くとウェルバーニアは門の外へ向かって手招きをした。入ってきたのは黒いローブに身を包んだ、銀髪を腰まで伸ばした男だった。見張りの兵士は不躾を承知で、兵舎ではなかなか見かけることのない風変わりな格好をまじまじと眺めた。見たことのない男だが、おそらくはウェルバーニアに雇われた魔術師といったところだろう。普段はほとんど人前に姿をさらすことのない魔術師を目にするのは、実のところ彼も初めてだった。
 連れだって二階へ続く階段の向こうに消えていくのを見送って、見張りの兵士はもう一度敬礼をした。

「ウェルバーニアだ。ラーケスという者を探している」
 部屋から出てきた男に声をかけると、見張りの兵士と鏡で映したかのようにまったく同じ反応だった。男がラーケスを呼びに部屋へ戻っていくと、ウェルバーニアは誰にも気取られぬように呆れ顔を作った。
「ウェルバーニア様」
 後ろをついていた銀髪の男は、見張りの兵士の予想通り魔術師で、名をフーリエスといった。フーリエスの呼びかけに応じて、ウェルバーニアは身体の向きを変える。
「ついに現れたのですか」
「あぁ。だがまだ確証がない」
 フーリエスの問いに短い言葉だけを突き返すと、ウェルバーニアは再び部屋へ向き直った。ラーケスという男はまだ出てこない。まさか飲み歩いているわけではないだろうな、と勝手な想像にウェルバーニアは顔をしかめた。兵士たちの雑魚寝の部屋だ、中は粗野な言葉が飛び交って騒然としている。その中からこちらへ向かってくる足音を耳にすると、ウェルバーニアはその表情にすっかりと元の威厳を浮かべていた。
 扉が開き、おずおずと顔をのぞかせたのは顔に幼さの残る少年だった。扉の向こう側からはいくつもの好奇の視線が注がれている。大佐が兵舎へじきじきやってくることなどめったにない上に、銀髪の得体の知れない男まで従えているのだから当然だろう。ウェルバーニアはラーケスに扉を閉めさせると、廊下の端まで導いた。
 少年はなぜ呼ばれたのかわかっていないようなそぶりで、目をきょろきょろとさせて不安の色をあらわにしている。
「君が今日追い返した女がいただろう」
 ウェルバーニアはそんなラーケスに向かって、容赦することなく話を切り出す。「誰をたずねてきた?」
 ラーケスは質問の意図をはかりかねているのか、ウェルバーニアの顔を見つめ返した。ウェルバーニアのややつり気味の細目から放たれる鋭い視線に射抜かれると、ラーケスは居心地が悪くなって目をそらす。そらした先にはフーリエスの顔があった。フーリエスがラーケスに向かって強くうなずくと、彼はそれで力を得たかのように再びウェルバーニアと視線を合わせた。
「はい、先だってのティテルス防衛戦で戦死したリオット少佐をたずねてまいりました。葬儀に出席したいとのことでしたが、軍関係者以外の出席を認めることは軍のしきたりに反すると追い返しました」
 ラーケスは声を震わせながらもしっかりとした口調で述べた。ウェルバーニアはその間ずっとラーケスに視線をあてていたが、その実、彼のことなど見ていなかった。