1章「始動」-02

 リオット少佐、とラーケスの口から飛び出した人物を思い浮かべる。思い浮かんだのはまだ二十五、六かそこらの青年だった。それで少佐、とウェルバーニアはひっかかりを覚えた。特に何か実績を残したという話も、記憶にある範囲では聞いたことがない。特別な力をもっている若者を少佐へ昇進させ、策士として使う例がなくはないが、そうだとするとティテルス防衛戦などといういわば捨て戦に赴いていたなどおかしな話だ。ウェルバーニアは瞳の奥で静かな炎を燃やした。
 訪ねてきた女は、おそらく肉親だろう。わざわざ葬儀にエレンシュラ軍を訪ねてくるなど、血でも繋がっているか、あるいは恋人でない限りしないだろう。昼間にちらりと窓から見かけた女の顔が、ウェルバーニアの頭に浮かぶ。恋人にしては幼すぎる。
「妹か」
 ウェルバーニアがぼそりと呟くと、ラーケスは不意をつかれたように目を泳がせた。なんと返したらいいのかわかりかねているといった表情だ。助けを求めるようにフーリエスの方を見やると、フーリエスは目を閉じている。ラーケスは意味もなくもぞもぞと手を動かし、髪を整えたり服装を正したりした。
「あ、あの……」
「もういい」口を開きかけたラーケスを、ウェルバーニアは手で制した。「助かった。休んでくれ」
 訪ねてくるときも突然だったが、去るときも突然だった。ラーケスがあっけにとられていると、ウェルバーニアとフーリエスの二人はすでに廊下の角に消えていった。頭の中には疑問が渦巻きながらも、どことなく誇らしげな面もちで、ラーケスはもといた部屋へ戻った。

 司令部へ戻ると、ウェルバーニアはフーリエスを手頃な会議室へ連れ込んだ。
「おそらく、ほぼ当たりだ」
 扉を閉めるなり、ウェルバーニアは座る手間も惜しいと言わんばかりの口調で息巻いた。フーリエスがぴくりと頭を動かすと、身にまとうローブがひらひらと揺れる。
「昼間見かけたあの女で間違いないだろう」
「ですが、確証がありません」
「いや、間違いない」
 銀髪の下から訝しげな目を覗かせるフーリエスに、ウェルバーニアはきっぱりと言い切った。放った言葉を撤回する気などみじんもないのだろう。そんなウェルバーニアのあふれんばかりの自信を前にして、フーリエスは諦めたように視線を落とした。
「……わかりました。では、さっそく配下の者に話をつけましょうか」
「ああ。頼んだ」
 フーリエスは慇懃に一礼すると、会議室を出ていった。ウェルバーニアは真一文字に結んだ唇の端をくいとゆがめ、荒々しい鼻息をもらした。次第に遠のいていく足音を耳でとらえながら、ウェルバーニアは瞳に宿った鋭い眼光を、何もない一角に注ぎ続けていた。

***

 名前もつかないほどの遠戚の家に向かう馬車の中は、春先だというのにひんやりした空気に満ちていた。ときおり道ばたの石につまずいて馬車ががたんと大きく揺れるたびに、エルセは隣に座るターキィの服をぎゅっとつかむ。エルセの知らない町の景色が窓に映し出されては、そのまま流れ去っていく。
「行ってきたのか」
 轍の回転する音が断続的に響く中から、ターキィのぽつりと呟く声をエルセの耳が拾い上げて、エルセはターキィを見た。しかしターキィは馬車の断続的な振動に頭を揺らせる以外は、まるで主を失った操り人形のように動くことをせず、まっすぐと前を見据えている。
 どこへ、とあえて示されなくても、ターキィの指す場所はわかっていた。あえて明言しないターキィの意図を感じ取って、エルセは再びターキィの服をつかむ手に力をこめる。
「……うん。でも、家族は参加できないって追い返されちゃった」
 兄のことを思い出して、エルセの弱々しく放たれた声は今にも雑音にとけ込んでしまいそうだった。滲む目に、家々の橙色に灯るあかりが染みて、エルセは思わず窓の外から目をそむけた。
「そうか」
 ターキィの返事はこれ以上ないほどに簡素な一言だったが、その一言がさまざまな思いに彩られていることがエルセにはわかった。そこから先は、二人とも無言だった。
 橙色が点在する夜の町を切り裂くように、馬車は音を立てながら進んでいく。
「はいよ、お疲れさん」
 やにわに馬の嘶きがぼんやりとしていたエルセの意識を貫いたかと思うと、馬車がひときわ大きく揺れて止まった。御者のマッカヤは軽々しく馬車から飛び降りると、荷台に積んでいた櫃を石畳に降ろし始める。
「ありがとう、マッカヤさん」
 次いでターキィも馬車から降りて、マッカヤを手伝い始める。エルセは急に現実をつきつけられた心地で、窓から顔を出してあたりを見渡した。町中とはうってかわって、まばらに建つ家々の隙間を埋めるように、道には街路樹が植えられている。木の息づかいすら聞こえてきそうなひっそりとした空間に、ターキィとマッカヤが荷物を運び出す音だけが響く。二人は櫃を抱えながら、ちょうど窓の正面に見える、芝生の向こうに建つ一階建ての家の方へ吸い込まれていった。エルセがこれから暮らすことになる、ターキィの家だ。右側の窓にカーテンが引かれていて、端からあかりが漏れ出している。
 玄関の両側に外灯がぼんやりと浮かんではいるが、家のたたずまいをはっきりと認めるには不十分だった。厚い雲の向こう側から降り注がれる月光は、地上に行き渡る前に霧のように散って消えてしまう。家の輪郭は背後に林立する木々にとけ込んで、エルセの視界いっぱいに黒い影となって広がる。ターキィとは幼なじみであるが、いつもターキィが来るばかりで、エルセから家を訪ねたことはない。ふとエルセの胸に、昼間に見たエレンシュラ軍の、エルセを拒絶するように立ちはだかる高い石垣と、その先に鎮座していた建物がよみがえった。ちくり、と胸を刺すような寒気を感じて、エルセは両手で自分の身体を抱きしめた。
「エルセー、早く来いよー」
 ターキィの声が降ってきて、エルセの凍える身体を溶かした。声のした方を見ると、ターキィとマッカヤがそろって馬車へ歩いてくるところだった。
 エルセは馬車を降りた。
「では、私はこれで」
「うん、ありがとう。助かった」
 つばの広い帽子をかぶると、マッカヤは馬車に乗り込んだ。ゆっくりと動き出す馬車を、ターキィは勢いよく手を振って送り出す。明かりのない、木々に覆われて一歩先すら見通すことが困難な道に馬車が吸い込まれていくさまを、エルセは身じろぎもせずに追った。やがて轍の音が闇の向こうに消えてしまうと、代わりにターキィの間延びしたあくびが静寂に響きわたった。

「マッカヤさんとは仲が良いの?」
 ターキィの家の玄関に向かって庭の芝生を歩きながら、エルセは疑問を投げかけてみた。ターキィはエルセと同じ十六歳だ。それなのに、一回りも二回りも離れていそうな運送屋のマッカヤに、まるで友人のように話しかけていたのが気になったのだ。
「うん。もう長い付き合いだよ。俺が引っ越す前からうちと親交があったから……もう十年ぐらい世話になってるんじゃないかな」
「十年も? じゃあ、もう家族同然だね」
「それは言い過ぎじゃないか? それを言ったらエルセもだろう」
 エルセは声をあげて笑った。ターキィもつられて笑う。たわいない会話で心の中を満たしていれば、余計なことを考えずにすむ。エルセは心の奥に刻まれた傷跡を精一杯に見過ごして、仮面だと悟られぬようにしっかりとはりつけた笑顔をターキィに振りまいた。
「ただいま!」
 玄関を開けると橙色の光があふれ出してきて、エルセは思わず目を閉じた。瞳の奥に鈍い痛みが走る。ターキィはしかし平気な様子で、脱いだ靴を放り出して廊下を駆けていった。エルセがそっと目を開けると、足下にはさきほど脱ぎ捨てられたターキィの靴の横に、大きめの革靴、そしてまだ大地を踏みしめたことがないような純白のパンプスが整列していた。それ以上入り込む余地がないと言わんばかりに整然とした玄関の光景に、エルセの背中を再び寒気が襲う。家の中を満たす光は暖かいはずなのに、エルセにはまるでその光が自分の正体をあばいて、どこかへ連れ去ってしまうかのように思われた。
 やがて廊下の奥から騒々しい足音が近づいてくると、ターキィが二人の男女を引き連れて、ぽつんと立ちほうけるエルセのもとへ戻ってきた。
「エルセ、何してんだよ。入れよ」
 不満げに鼻を鳴らすターキィの様子に、背後の二人が苦笑した。ターキィの父親のケルディスと母親のトリエンデだ。エルセの両親がまだ生きていた頃、ターキィとは家族ぐるみで親交があった。普段であれば、エルセはなじみ深い彼らに出会うとところかまわず飛びついていって、その柔らかい髪に二人の寵愛を受けるところだ。だが、今日はそうしないばかりか、まるで彼らを敵とみなした兵士のように、エルセは仲むつまじい三人の親子を身じろぎもせず見つめていた。
「あんたがエルセを置いてきぼりにしたんじゃない、ターキィ」
「そ、そんなことないぞ。なぁエルセ」
 ここは十六年間過ごした我が家ではない。目の前にいるのは自分の両親でも、兄でもない。トリエンデのたしなめる声も、ターキィの取り繕う言葉も、エルセの耳に入る頃にはどこか芝居がかった響きを帯びていた。綺麗に飾りたてられた玄関も、奥へ続いていく廊下も、今自分が見ている何もかもが舞台の上の作り物のようで、エルセはそれを遠くから眺める観客でしかなかった。
 エルセは両手で顔を覆ってしゃがみこんだ。
「お、お世話に、なります」
 涙声で挨拶をしぼりだしたエルセの姿に、三人はそろって目を剥いた。トリエンデがまっさきに駆けつけて目線の高さをエルセに合わせる。トリエンデは何も言わなかった。ただ、その手をエルセの髪にあてて、咲きたての花びらを愛でるように優しく滑らせる。

 ひとしきり嗚咽を身体の中から出し切って、誰のものともわからない温かい腕に抱かれて部屋に連れられた後のことは覚えていなかった。気づいたらエルセは、ふかふかのベッドの上で羽のような布団にくるまりながら、窓から射し込む柔らかな朝日を浴びていた。
 昨夜、外を歩いたときの印象とはうってかわって、窓の外に広がるのはひたすらに平和で穏やかな緑だった。鼻をくすぐるのは台所からただよう香ばしいパンの匂い。食器を並べる騒々しい音は、空腹の身体にいやおうなく期待を宿らせる。
 たったひとりの肉親、愛する兄を失って闇の彼方をさまよっていたエルセは、ようやく自分の立っている場所に光が射した気がした。大事に抱えていくべきものは、もうわかっている。この景色と匂いと音、そして自らに差しのべられる温かい手。まずは、昨日取り乱してしまったことを謝ろう。これからずっと世話になるのだから。
 エルセは瞳を輝かせて部屋を飛び出した。そんなエルセの浮かれた後ろ姿をなめ回すように見つめる一つの黒い影の存在に、エルセが気づくはずもなかった。