2章「忍び寄る者」-01

 エレンシュラは緑豊かな地だ。天高くそびえたつ山々に抱かれるように位置している国で、都市部以外はほとんどが森林に覆われている。北東に連なるルアンシア山脈から流れ出るエレノア川は、そのほとりに原始のままの自然をもたらしながら、国土を横断するように緩やかな流れを海へ向かってそそぎ込んでいる。
 そのルアンシア山脈のふもとから扇状に広がるエンペルヘル野一帯の戦火を知らぬ者は、エレンシュラには存在しないだろう。ルアンシア山脈を隔てた隣国トロイラとのいさかいは、エレンシュラでもっとも永き年月を生きる者が生まれるよりもはるか昔から、たびたび繰り広げられてきた。
 エルセの兄リオットはエンペルヘル野の一角、いくつかの村が集まるティテルスという土地の防衛戦で戦死した。ある日突然一人のエレンシュラ兵が家に訪ねてきて、リオットの凱旋を心待ちにしながら焼き菓子を練習していたエルセに向かって、配慮という言葉などまるで知らぬかのようにたんたんとそれを告げたのだ。彼になんと返したのか、その後どんなやりとりがあったのか、はっきりとは覚えていない。ただ、リオットの死に対する報償金の申し出を断ったことは覚えている。それではまるで兄の命をエレンシュラ軍に売り渡したようではないか、と拳を震わせたことも。
 みはるかすルアンシア山脈の銀冠に、エルセの胸は当時の生々しい感情に満たされた。日差しをさえぎる頭上の枝葉が風に揺れて、地面に落とす影のかたちを自由気ままに変えていく。エルセはターキィの家の裏手にある丘の上で膝を抱えていた。
「ここにいたのか」
 下生えをかきわける音が背後からして、エルセはゆるゆると首を回した。ナップサックを背負ったターキィがちょうどエルセを陽の光から隠す。エルセは横に置いた自分のナップサックを取り上げる。正確には、ターキィから譲り受けたもの、であるが。
 エルセは立ち上がった。吹く風はさわやかに、薄緑のワンピースの裾を揺らす。春先といえど日射しは容赦なくて、動くとじんわりと汗ばんでしまう。ターキィの家からこの丘まで歩いてくるだけでもエルセは背中に湿った感触を覚えたものだが、ターキィに呼ばれるまでの間に、ときおり吹く風がそれも乾かしてしまった。
「行こうか」
「うん」
 差し伸べられた手に、エルセは自分の手を重ねる。
 家にいてもふさぎこんでしまうだけだから、気晴らしに町で買い物でもしてきたら、とトリエンデに提案されたのが昨日の夕食時。ケルディスも腕を組んで、無言でうなずいてくれた。するとターキィもすっかり乗り気になってしまって、普段からあれくらいてきぱきしてくれればいいんだけどね、とトリエンデが苦笑するほどの手早さで、馬車の手配やら荷物の準備やらを済ませてしまった。エルセはその提案に気乗りしているかどうかもはっきりとわからないまま、流されるように今日を迎えることとなった。
 春の陽気に包まれていると、眠気が次第にエルセに忍び寄る。なんだか陽光を浴びるのがひどく久しぶりな気がした。ターキィの家に転がり込んでから四日が経つが、まともに外に出るのは今日が初めてだ。
 丘を下るエルセのワンピースが、風をはらんで膨らむ。下り終えるとエルセは繋がっていた手をほどいて、ナップサックを背負いなおした。ターキィとこうして並んで歩くのは何年ぶりだろうか。学校に通っていた頃は毎日のように会って話していた。卒業してからはというと、ターキィが何かのついでといってときどきエルセの家に立ち寄るぐらいだった。
 隣を見上げると、ターキィの金糸のような髪が、日射しに透けてしまいそうになりながら、先端をふわりふわりと揺らしている。手のひらで包み込めばさぞや心地よいことだろう。そんなふうに見とれていると、自分に注がれる視線に気がついたのか、ターキィがエルセに微笑を向けた。春の中をたゆたう二人ははたから見れば、まぎれもなく若い恋人同士だった。
 だが、だが――。エルセの心にふいに黒い染みが影を落とした。ターキィの顔が木陰に暗くなり、暗転した視界の中でそれは次第に兄の、リオットの顔へと姿を変える。少し前までであれば、隣で微笑みをくれたのはリオットだった。二度と訪れることのないリオットとの思い出と、これから訪れるターキィたちとの生活。その二つを天秤にかけてみると、エルセの瞳から急に光が消えていく。ターキィたちが嫌いなわけではない。きっとあの三人はエルセに優しく接してくれるし、エルセもそれに応えるだろう。胸に空いたどこまでも空虚な穴にさえ目をつむれば、人並みに幸せな生活を手に入れられるのだ。わかっていても、エルセの中で微笑むリオットの幻影はいつまでも鮮やかなままで、エルセの表情から霧を払ってくれない。
 光をさえぎる濃緑の屋根の下、二人はどちらともなく無言だった。

***

 指令の内容をできるだけ噛み砕いて説明すると、フーリエスは部屋に集った部下たちの様子を眺め回した。合点のいってる者もあれば、首をかしげている者もある。それもそうか、とフーリエスは思わず眉間に皺を寄せる。
「フーリエス様」
 もう一度説明しなければならないか、と逡巡していたら、部下の一人が歩み出てきた。フーリエスが彼に視線を向けると、彼の震える唇が言葉を紡ぐ。
「要するに、件の少女――リオット少佐の妹とかいう少女を捕らえて連れてこい、ということですか」
「そうだ」
 部下の理解力に、フーリエスは安堵の笑みを浮かべた。この魔術師棟で暮らす魔術師は少ないながらも、信頼のおける者ばかりだ。まず間違うことはないと踏んでいるが、念には念である。もう一度だけ注意を促しておくに越したことはない。
「繰り返すが、これはウェルバーニア様からの直々の指令だ。派手にことを起こすことは避けて、あくまで隠密な行動を心がけてもらいたい。くれぐれもエレンシュラ軍に感づかれぬように。仮に感づかれてしまったとしても――」
 含みをもったフーリエスの言葉に、一同はごくりと息をのむ。
「容赦なく切り捨てることを了承してもらいたい」
 部屋の空気がはりつめる。ところどころから聞こえていたひそひそと話す声もいつのまにか止んでいる。フーリエスが散会の合図を出すやいなや、部下の魔術師たちは黒いローブを引きずりながら、一斉に部屋から出ていった。一人になったフーリエスはふうと大きなため息をつく。
 ウェルバーニアの指令をそのまま部下たちに伝えたはいいが、フーリエス自身もすべてを理解しているわけではない。それに、彼らにとってはいささか残酷ととられるような物言いをしてしまった。あくまで平静を装ってはいたものの、今になってそれがフーリエスに重くのしかかる。仕方ないのだ、と自分に言い聞かせた。部下たちには細心の注意を払ってもらわなければ、しくじったらウェルバーニアを含めた全員の立場が危うくなるだけだ。
「ずいぶんと酷な言い方じゃないか」
 自分の執務室へ戻ろうとローブを翻すと、振り向いた先からもったいぶるような低い声が降ってきた。見ると、いつのまにか開いていた扉のへりに、ウェルバーニアが腕を組んでもたれかかっていた。フーリエスをからかうような眼差しだ。口元には、わずかな笑みが浮かんでいる。
「君らしくない」
「は……。ですが密計ということですので、あれくらい言っておいた方がよいかと」
「あぁ、わかっているよ」
 ウェルバーニアはおかしくて仕方がないというふうに、くくくと押し殺したような声を漏らす。
「安心したんだよ。君はいささか部下に甘いところがあるからな。今回の件でエレンシュラの命運が決まる。君を信頼しているよ。……くれぐれもうまくやってくれ」
「御意の通り」
 ウェルバーニアは体勢を立て直すと、意味ありげな視線をフーリエスに送って廊下に去っていった。フーリエスはその姿が曲がり角の向こうに消えるのを見届けることなく、ウェルバーニアに背を向けて歩き出した。