2章「忍び寄る者」-02

「マッカヤさん!」
 馬車の乗り場にたどり着くと、ターキィは真っ先にマッカヤの姿を見つけて駆けていった。馬の足下にひざまずいていたマッカヤは振り向くと、顔をほころばせて立ち上がった。マッカヤの周りには客待ちをする馬車がずらりと並んでいる。厩舎から漂ってくる匂いに、エルセの呼吸は自然と控えめになる。
「おや、そちらの彼女はこの間の。エルセさん、でしたか」
「うん。今日は町へ行こうと思って。今空いてる?」
「ええ、空いてますよ」
 そう答えるとマッカヤは客を迎える準備をしながら、ときおりエルセの方にひどく色気の含んだ視線を向ける。エルセは思わずマッカヤから目をそらすように、背後にあるたった今抜けてきたばかりの森で視界を埋める。
 マッカヤがエルセの姿に、正確にはターキィとともにやってきたエルセの姿に何を想像したのかを思いはかることは簡単だった。その内容を言葉で反芻してみると、いきなり腹の底から嫌悪がこみあげてくる。森の入り口付近を散策するふりをして、さりげなくターキィと距離をとった。
 ターキィが決して嫌いなわけではない。だからといって、男女の関係にあると誤解されて平気でいられるはずはなかった。エルセにとって想い人は兄リオット、ただ一人なのだ。ターキィとの関係が既成事実となれば、もう言葉も交わすことのできないリオットへの裏切りになってしまう。エルセはことさら無関心をよそおって、道ばたにこぼれ咲く鮮やかな花々に目を凝らした。陽光を砕いてまぶしたような輝きが花弁に落ちる。その輝きに焼かれて、エルセの目に涙がにじむ。もと来た道を引き返して、どこでもいいから閉じこもってただ一人になりたかった。
「エルセ?」
 気づいたら乗り場からかなり離れたところまで来てしまっていたようで、呼び声に振り向くと怪訝な表情をあらわにしたターキィが立っていた。ふらふらと森の縁をさまよい歩くエルセを心配して追いかけてきてくれたのだろう。その穏やかな瞳を見つめていると、先ほどまで心の底にためていた思いがひどく汚れたわがままのように感じられた。
「ごめん、ちょっと考えごとをしてて」
「……そっか」
 うつむくエルセに、さっと手が差し出される。少しばかり逡巡したが、悪意のない優しさを拒絶できるはずもない。エルセはターキィの手に身をまかせて、馬車乗り場へと引き返した。
 馬車の準備は終わっているようだった。ターキィのナップサックが荷台に無造作に放り込まれている。ターキィはエルセの背負っていたナップサックをなかば強引に引きはがすと、自分のナップサックに重ねるように置いた。
「よろしいですかな?」
 マッカヤが振り返って二人とも乗り込んだことを確認すると、馬車はゆっくり動き出す。ただ幼なじみと遊びにいくだけなのに、不思議なくらい心が重かった。馬車の外を流れていくのは畑とあぜ道、点在する家、退屈なほどありふれた田舎町の風景だ。町が近づくにつれ、畑だったところには建物が並び、道は整備され、家の外観は洗練されたものになっていく。エルセの胸を刺すきりきりとした痛みも、次第にその威力を増す。町の馬車降り場についたときには、来たばかりだというのにエルセの顔には憔悴の色が滲んでいた。
「はいよ、お疲れさん」
 エルセの気持ちとは裏腹の、常夏の海を思わせるような陽気な声が前方から飛んでくる。
 馬車降り場には他の馬車はいなかった。ちょうど日陰になるところで馬をとめると、マッカヤは素早く荷台へ回り込んで二人の荷物を拾い上げた。
「ありがとう」
 ターキィがお礼の言葉とともにお代をマッカヤに手渡した。エルセはゆっくりと馬車を降りると、目を細めながら日差しの下へ進み出た。細い道が、石造りの四角い建物の群の中を縫うように通り抜けていく。ここは表通りに面した何かの施設の、ちょうど裏手のようだった。人々の話し声や楽器の演奏、それに道を行き交う轍の音が、建物に濾過されてエルセの耳に飛び込んでくる。少しだけ胸の重石が軽くなった気がした。
「今日は交易市の日か」
「交易市?」
「うん。いろいろな地方から商人がやってきて、地元の特産品を売ったり、芸を披露したりするんだ。ここらじゃ食えない珍しいもんがたくさん食えるんだぜ。あ、あと髪飾りなんかもあるかも。せっかくだし、遊んでいこうぜ。ぱーっと。な?」
 そうまくしたてる間、ターキィの視線は常に道の先に固定されていて、エルセの方を一度たりとも見はしなかった。エルセの様子を慮っているようなその素振りはひどく不器用で、それがかえってエルセの胸を痛めた。どちらともなく道に沿って歩き出すと、表通りの喧噪が次第に近づいてくる。

「ほら、着いた」
 角を曲がると、石壁ばかりだった視界が急に色にあふれた。町を貫く大通りは露店とその客でごった返していて、その向こうにはターキィの家の敷地の五倍はあるであろう広場が、中央に設えられた噴水と花壇で彼らを迎えている。
 しかし、そんな心躍るような賑やかさも、エルセにとってはどこか他人事であった。
 幼いころ、町へ連れてきてもらったことがあるらしい、ということは両親から聞いて知っていた。だがそのときは交易市の日ではなかったし、第一そんなころの記憶などすべて埋もれてしまっている。エルセが住んでいた家もターキィの家も、地区は違えど郊外であることには変わりなく、こんなに大勢の人の波など初めて目の当たりにするのだった。
 軽やかな身のこなしで波をかきわけて進むターキィとはぐれまいと、必死にその背中を追う。少しばかり歩くと比較的落ち着いた道に出た。焼き菓子のような香ばしい匂いがあたりを包み込む。
「あっ、エルセ、ライナンのパイだぜ」
 ターキィは立ち並ぶ露店の一つを指さすと、そこめがけてまっしぐらに駆けていった。香ばしい匂いはどうやらその露店から漂ってきているらしい。
 エルセが煙の立ち上るその露店にたどりつくと、ターキィが手のひらくらいのパイを商人から受け取るところだった。表面はこんがりした焼き色に、なめらかな光沢が重ねられている。ターキィが半分に割ると、中から紅色の丸い果実があらわれた。果実の裂け目からは紅色の果汁が、溶けたてのチョコレートのようにとろりとこぼれ出している。果汁を地面に垂らさないように、ターキィはエルセに片方を差し出した。
「これは?」
「ライナンっていう実だよ。エレンシュラの南の方でしか採れないから、俺もあんまり食べたことがない。すっぱくて、でもすっげー甘いんだ」
 エルセが顔を近づけてみると、なるほどつんと鼻の奥が刺激される。前歯で挟み込むと、薄く重なったパイ皮が小気味よい音をたてて口の中を崩れ落ちる。次いで、弾力のあるライナンの実が果汁と絡み合いながら舌の上へ落ちてきた。実を砕くように奥歯で噛むと、目の奥をつんと刺激されたような感覚の後、甘みが頬いっぱいに広がった。目を丸くするエルセのことを、ターキィが面白がるように見つめている。その表情に、兄の姿が重なった。
 そういえば兄リオットも、エルセが慣れない料理に奮闘するのを見て同じように笑っていたっけ。両親が亡くなって二人で引っ越してきた後だった。兄は仕事をしているから、必然的に家事、とりわけ料理をエルセが分担することになった。食料品店に行けば売り物の種類の多さに目を回し、ぎこちない手つきで調理器具に振り回されるエルセの姿を眺めながら、兄はターキィと同じ表情をしていたのだった。だが、そんな兄に嫌な気持ちは抱かなかった。いつだって兄は、エルセの料理を平らげてくれたからだ。エルセすら口に入れたくないほどの失敗作だって、作り直そうとするエルセのことを制止して、気がついたら鍋は空っぽだった。そのとき兄が作ってみせた穏やかなまなじりが、エルセの心を兄に縛りつけたまま離さないのだ。
 ぼんやりと回想に沈んでいたエルセは、はっと後ろを振り返った。照りつける太陽の下、市場には変わらず人波がうねっている。露店の屋根からカラスが一羽、音もなく飛び立っていった。カラスが次第に黒い点と形を変え、そして空の向こうまで消えていくのを、何となしにじっと見つめていた。
「エルセ?」
 声をかけられて、エルセは視線を下に落とした。手の中のライナンのパイは、いつのまにか湯気をたてることをやめていた。
「どうかしたのか」
「ううん、なんでもない」
「そうか」
 ターキィは深く追及しなかった。エルセは再び後ろを振り返る。ごったがえす人の話し声やときおりわき起こる歓声、飛び交う怒号めいた声が、まるで壁の向こう側の出来事のように遠く響いている。すぐそばにいるはずなのに、自分だけどこか別の次元にでもいるかのような……。

「エルセ? どこへ行くんだ」
 突然、エルセがふらふらと人波の中へ迷い込んでいくのを見て、ターキィは手に持っていたパイを口の中へ押し込んだ。ターキィの呼びかけにも応じることなく、エルセはまるで何かに操られてでもいるかのようなおぼつかない足取りでどんどん進んでいく。そんなエルセを引き戻そうと、ターキィは手を伸ばす。一瞬、右手がエルセの服をつかんだものの、人の勢いにおされてすぐに指先が滑り落ちてしまった。
 やがて、エルセの小柄な身体は完全に飲み込まれていった。