2章「忍び寄る者」-03

「ついに見つけたぞ!」
「本当ですか。早速隔離に入りましょう」
「言われなくてもそうするさ。見張りを頼む」
「言われなくても」
 魔術師棟の、とある一部屋で、二人の魔術師が興奮に声を荒げていた。一人はまだ少年の幼さを残した若い魔術師で、もう一人は彼より十数年ほど先輩といったところだろう。
 若手の魔術師は返事をすると、部屋の中央にいる先輩の魔術師に背を向けて、出入り口である扉の前に立った。術を使っているときは、闖入者の存在が一番厄介なのだ。部屋の外に誰もいないことを確認すると、素早く結界を張る。この程度の術なら、まだ経験の浅い彼でも息をするように使うことができる。結界を張っておけば、今からまさに隔離の術を使おうとするのを邪魔されることはない。彼は再び部屋の中央に戻った。
 先輩の魔術師が、色のついた硝子板をじっと凝視している。だが、ただ凝視しているように見えてその実膨大なエネルギーを消費して術を操っているということは知っていた。だから彼は必要以上に近寄ることなく、先輩の魔術師の動きを見守っていた。
「よし、隔離は成功だ」
 先輩の魔術師は硝子板から目を離さずに言った。隔離が成功したということは、自分たちが暮らしているこの世界から目的の少女だけが切り離されたということを意味する。あとは少女を誘導してエレンシュラ軍へ引き渡すことができれば、上位魔術師であるフーリエスから言い渡された任務をまっとうすることになる。胸が高鳴るのをおさえきれなかった。
 若手の魔術師はちらりと窓の外へ目をやった。彼らの仕事場は、エレンシュラ軍の司令部から少し離れた森の中にある。魔術師の体質が一般人に及ぼす影響を考えてのことだろう。建物を囲う石垣の向こう側から、いささか元気に生長しすぎた広葉樹が張り出してきている。そういえばもうすぐ草むしりの当番だったか、とふと思い出して、彼の表情は曇った。
 任務の成功を疑うことなくとりとめのないことを考えていたら、背後から突然、机が倒れるような音がした。はっと視線を部屋に戻す。先ほどまでじっと椅子に腰掛けていた先輩の魔術師が、机の上に硝子板を押しつけるようにして立ち上がっている。おそらく硝子板を机に叩きつけたのだろう。
「クソがっ……!」
 異様な雰囲気を察知して、彼は先輩の魔術師へ駆け寄った。正面へ回り込んで顔をのぞき込むと、唇を噛んで肩を震わせている。先輩の魔術師の視線を追って硝子板に視線を落としたが、彼には先ほどと変わらぬ何の変哲もない硝子の板にしか見えなかった。まだ使い方を教わっていないのだ。
「――どうかしましたか」
 声をかけていいものかどうか迷った末、彼は遠慮がちに喉から声を絞り出した。先輩の魔術師はそれに反応してか、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちる。問いかけへの返事を聞くまでもなく、何が起きたかを悟った。少女の身柄を確保までしたのに、取り逃がしたのだ。任務の失敗。フーリエスの評価を得られる貴重な機会を逃してしまったのだ。
 こんなときはなんという言葉をかけたらいいのだったか。若手の魔術師は、頭の中に蓄積された経験を必死に探った。結局、それ以上何も言わないことにした。

***

 気がついたら、路地へ入り込んでいた。そして、気がついたら一人だった。
「ターキィ……?」
 エルセの呟きが、左右の壁に吸い込まれるようにして消えていく。きょろきょろと辺りを見渡してみても、背の高い壁がひたすら無機質に続いているだけだ。見上げると、天高くに細長く切り取られた空が白い。
 つい先ほどまで一緒にいたはずだ。唇を舐めると、ライナンの甘酸っぱい味が頬に広がる。幻ではない。それに、あれほどいた人の波は一体どこへ消えたのか。静止して耳を澄ましてみても、人の声はおろか物音一つない。
 エルセは身震いをした。まるでこの身だけが別世界へ迷い込んでしまったかのような心地だ。いや、実際に迷い込んでしまったのかもしれない。瞳に映るすべてのものが、まがいもののように感じられる。体内に送り込まれる空気ですらも、だ。作られた世界の中に一人放り込まれた少女のことを上空からなめ回す巨大な双眸が、今にも姿を現しそうだ。
 そんな子供じみた想像から逃げ出すように、エルセは駆けだした。いくら走っても視界がとらえるのは同じ風景だ。一体、自分はどうしてしまったのか。大声をあげて叫びたい気分に駆られたが、どういうわけか喉から漏れるのは、荒い呼吸音の他は嗚咽にも似たか細い音ばかりだった。
 どれだけ走れば、どこへ向かえば、何をすれば、この悪夢は終わるのだろう。考えたところで空をつかむような話であるにも関わらず、考えずにはいられなかった。
 エルセの脳裏に、さまざまな場面が次々と浮かんでは消える。まだ両親が生きていた頃の思い出も、秘めた思いを抱えながら過ごした兄との時間も、今となっては愛おしくて仕方がなかった。このまま力尽きるまで走り続けていれば、もう一度手に入れることができるのだろうか。そんな錯覚にすら襲われた。瞳からこぼれ落ちた涙が頬を伝い、そのまま後方へと飛散する。
「きゃあ!」
 突然、何かにつまずくような感触がして、エルセは前につんのめった。体勢を立て直そうとしたが、足は余計にもつれて、エルセの身体が地面に放り出される。ざらざらとした地面に顔面が擦り付けられ、鼻に痛みが走った。その瞬間、さっと周りの空気が変わった気がした。
 顔を上げると、そこはやはりどこかの路地だった。しかし、先ほどまでさまよっていた場所とは違う、見慣れた雰囲気の路地だ。そう遠くないところから喧噪が聞こえる。振り返ると、竹で編まれた花籠が散乱している。どうやら、これにつまずいて転んだらしい。
 不意に足音が近づいてきて、エルセの前で止まった。
「ほら」
 声のする方に頭を向けると、ターキィが立っていた。むすっとした顔でエルセに手を差しのべている。
 エルセも、その手に向かって右手をのばした。ずきずきと痛む手足に力を込めて、身体を起こした。
「何してるんだよ、どこ行ってたんだよ」
 ターキィの問いかけに、エルセは答えなかった。答えようがなかった。しかしターキィも、黙り込むエルセをそれ以上追及しようとはしなかった。二人は黙って帰路についた。
 建物の端から漏れ出る橙色の光が、夕暮れを告げている。こんな空を見るのはなんだか久しぶりな気がすると、エルセは新鮮な感覚にとらわれた。