3章「夢幻の狭間で」-01

 その日、エレンシュラ軍の魔術師棟は重苦しい空気に包まれていた。
 軍という場所の性質上、誰もが日々緊張感をもって過ごしていることは間違いない。特に、近年の隣国トロイラとの戦況を考えると、司令部の内部は常に糸を張りつめたような雰囲気だ。生半可な気持ちで立ち入れば、居たたまれなくなることは必死だろう。
 司令部から隔離されるように建つ魔術師棟とて、同じである。だが、今日の魔術師棟に漂う雰囲気は普段のそれとはまったく異なるものだった。陰鬱な水草に覆われた沼のほとりに立っているかのような、暗く、淀んだ雰囲気だ。魔術師たちはさながら水底の澱である。
 その雰囲気を作り出した当の本人――ウェルバーニアは、手を後ろに組んで自室の窓から外を眺めていた。眼下に続く森の向こうに、朝靄に包まれた司令部をふと認めた。ウェルバーニアは苛立たしげにカーテンを勢いよく閉め切ると、身を翻した。
 入り口に、フーリエスが立っていた。銀髪を今日は一つにまとめている。庭の掃除当番だからだろう。
「何の用だ」
 ぶっきらぼうに問いかけると、ウェルバーニアはそのまま背後の窓にもたれかかった。
「それが分からないほど盲目な指揮官に付き従っているつもりはありませんが」
「ふん、わたしとてたったあれくらいのことでわざわざ抗議しに来る気骨のない者を指揮しているつもりはないのだがな」
 フーリエスの目の色が変わった。
「確かに仰せつかった任務を果たせなかったのはいけませんが」ウェルバーニアの視線を真正面に受け止めながら、喉から声を絞り出す。「何もわざわざ起床時間よりも前にたたき起こして、あのような叱り方をすることはないかと。そもそも、彼らは今回の任務について詳しいことを何も知らされていない。あくまで密計だからだ、と仰るあなたを信じて、真摯に取り組んでくれたというのに、あの仕打ちはあんまりではないでしょうか」
 最後は声が震えていた。それほどまでにたかぶっている証なのか、生殺与奪の権を握っている相手であるためか、あるいはその両方なのかもしれなかった。珍しく刃向かってくるフーリエスの様子を、ウェルバーニアは興味深そうな表情で眺め回した。よっぽど思うところがあったのだろう、などと心中を測る。
 自分の放った言葉が沈黙を招いて、フーリエスはどこか気まずそうに顔をゆがめている。だが、自分の述べた無礼ともとれる言葉を撤回する様子もないし、そのまま引き下がる気もないようだった。
「ふん、確かにわたしは術が使えないが、だからといって術のことを知らないと見くびってもらったら困る」
 沈黙を破ったのはウェルバーニアだ。
「お前たちが術を使うときの術空間は、術を使う者であれば誰でも皆共通だということぐらいわたしも知っている。つまり、隔離の術を使った時点で、あの女の存在を敵方――トロイラにわざわざ教えてやっているようなものだ。だから、隔離をしたのならば絶対に連れてくる必要があった。失敗するなら、むしろ最初から隔離などしない方がよかった」
「確かにそうですが……それは制約みたいなものです。わたしたちにどうにかできるものではありません。それで責められたら、彼らがかわいそうではありませんか」
 突き刺すような冷ややかな視線から目を背けることなく、フーリエスは言い切る。その表情に恐れやためらいの色はもうなかった。毅然とした態度で、ウェルバーニアの目を見つめている。実際に術を操る者の矜持なのかもしれなかった。
 ウェルバーニアは忍び笑いを漏らした。
「一国の命運よりも、部下の感情が大事なのだな」
「感情ではありません。士気です」
 たたみかけるような口調に、ウェルバーニアの眉がぴくりと動いた。こんな風に食いついてくることはめったにない。初めてといってもいいほどだ。
 だんだんと居心地が悪くなってきたのはウェルバーニアの方だ。いたぶるような言葉を投げかけるたびに、自分の中の何かが削られていく心地がする。フーリエスのどこまでもまっすぐな眼差しがまぶしかった。それを気取られまいとするように、ウェルバーニアはふいと顔をそむけた。
「わたしはお前を信頼している」
「……よく存じております」
 息をのむような気配を感じて、ウェルバーニアは視線を戻す。フーリエスがゆっくりと目を伏せた。長い睫毛が妙な存在感を放っている。
「そのお前が信頼している部下とて同じだ。叱るのは信頼しているからだ。本当は分かっているのだろう?」
 はぐらかすような問いかけに、フーリエスは納得できないといった表情を返した。普段は素直すぎるほど素直で、自分の感情を押し殺すことに長けているはずの魔術師とは同じ人物と思えないほど、不満をあらわにしている。
 まだ物言いたげに口を半開きにしているフーリエスを押しのけるようにして、ウェルバーニアは自室を出た。何か言われても沈黙を決め込むつもりだったが、予想に反して背後から飛んでくる言葉はなかった。

 朝から、全身がひどい疲労感に包み込まれる。フーリエスとの押し問答が、絶えず頭の中で繰り返される。起床時間前にたたき起こしたと言うが、たたき起こす者はそれよりさらに早く起きているのだ。叱る方だって体力は削られる。好き好んでやっているわけではないのだから。
 自然と、足取りが荒くなる。普段よりも早い朝食をとりに、ウェルバーニアは食堂へ向かった。
 魔術師は、しょせん魔術師だ。魔力を保有しているがゆえに、一般人として生きることを諦めるのを余儀なくされた者たち。軍はその受け皿の一つにすぎない。普通の軍人が受けるような、体罰すら日常である訓練を受けてきたわけではない。だから、叱られるのに慣れていないことは理解している。自分の要求が理不尽であるということも。フーリエスの抗議は当然のことだ。失態をしたからといって強く咎めるつもりは、ウェルバーニアにだってさらさらないのだ。――普段であれば。
 階段の踊り場に取り付けられた窓から、再び司令部棟を認めた。さきほどよりも太陽はやや高く、そのため景色がよりいっそうはっきりと見えるようになった。
 エレンシュラ軍に所属する魔術師たちは、例外なく魔術師棟に住まうことになっている。仕事をするときも、不必要に外へ出歩かない。魔術師が放つ魔力が、一般人に有害であるからだ。軍には他にもいくつかの魔術師棟があるが、この棟の統括はフーリエスにゆだねられている。魔術師の人数こそ少ないが、全面的に信頼できる者たちがそろっている。
 他の軍人は、用がない限り魔術師棟には決して寄りつかない。用があるときだって、つとめて長居をしないようにする。だから、積極的に出向くどころか魔術師と同じように棟に住まい、仕事部屋まで構えるウェルバーニアは、軍の中でも異端だった。その奇妙な行動のことは、司令部から離れたここであれば上に干渉されることなく動くことができるから、とも、手駒である魔術師たちを監督するため、とも噂されているが、本人の口から真相が語られたことはない。どういうわけか未だに心身ともに健康そのものであることを、気味悪がる者も少なくなかった。

 食堂に足を踏み入れた途端、空気が張りつめるのを感じ取った。中では十数人の魔術師が朝食をとっている最中だった。今朝の一件があったため普段のような談笑こそ交わされていないようだったが、ウェルバーニアの姿を認めるや否や、皆そろって視線を泳がせて急に落ち着かない態度になった。席を立って片づけ始める者もいる。
 ウェルバーニアは彼らに気づかれないよう小さくため息をついた。壁に背をつけてもたれかかると、つとめて威厳のある声を作った。
「食事係」
 空気を乱したいわけではない。だが、今は自分の言葉が、存在が、どうあってもこの場をかき回してしまうことは自覚していた。ならば、とるべき行動は一つしかないのだ。彼らが自分に抱いている印象どおりの自分を、演じること。
 魔術師の一人が慌てて炊事場へ転がり込んでいった。彼がおそらく食事係なのだろう。食料庫の扉を開け閉めする音と、食器が触れあう音が交互に聞こえる。その他の者たちは、明らかにウェルバーニアの視線を意識した様子で、ぎこちない動きで片づけを始める。指揮官にとって気に入らない動きをしたら、また叱られると考えているのだろう。彼らの思考が透けてみえる分だけ、胸に余計な重石がのしかかる。もっと鈍感でいられたらよかったな、と詮ないことばかりが頭に浮かぶ。あるいは、こういう振る舞いをありのままの自分のままやってのける、そんな人間であれば、と。
 やがて食卓に食事が並べられると、ウェルバーニアは人払いをした。もっとも、その必要もなく皆逃げるように引き上げてしまってはいたのだが。まだ片づけ終えていなかった数人の魔術師の視線が絶えず自分に向けられていることを自覚して、司令部で食事をとるときのように仰々しい動きで椅子に腰掛ける。
 最後の一人が食堂から出て行った。やけに丁寧に扉が閉まると、ウェルバーニアは深々と息を吐き出しながら、姿勢を崩した。つり下げられていた糸がぷつんと切れてしまったかのように、背もたれに背中を滑らせる。腹が空いているというのに、目の前の食事に手をつける気になれなかった。
 ――まだだ。
 ウェルバーニアは両肘を食卓にのせて、組んだ手を額に押し当てる。
 どれだけ疎まれようと、理解されなかろうと、構わない。疑念が真実となり、真実が現実となるまでは、それまでは自分の中だけに留めておくのだ。
 何も知らぬ者が見れば、まるで祈りを捧げているかのようだ。柔らかな朝陽が差し込む中、瞳を閉じてうなだれる彼の背中は、ただの悩める青年のそれだった。