3章「夢幻の狭間で」-02

 目が覚めると、夕暮れの台所だった。今にもずり落ちそうな体勢で椅子に身体を預けている。いつの間にか眠り込んでいたのだろが、眠る直前まで何をしていたのだったか、とっさに思い出せない。ひりひりと痛む目をぎゅっと閉じると、反動で涙がじわりと滲む。瞼を開くと、ようやくエルセの身体も目覚めた。
 物音の一つも聞こえない。誰もいないのだろうか。あるいは、またあのよくわからない空間に迷い込んでしまったとでもいうのか。
「ターキィ?」
 橙色に染まった空間に向かって、幼なじみの名前を遠慮がちに呼びかける。返事はない。エルセは椅子から身体を離して立ち上がった。体勢のせいか、手足の関節がずきずき痛む。
 台所を出て、居間をのぞき込む。誰の姿も見あたらないし、気配も感じられないが、何ら普段と変わりなかった。立ちこめる生活の匂い。少なくとも、どんな感覚も寄せ付けなかったあの無機質な空間ではない、と本能が察知して、ほっと胸をなで下ろす。
 それならば、皆どこへ行っているのだろうか。普段であれば、ターキィの母親トリエンデがとっくに食事の支度をしている時間だ。まだ仕事中なのだろうか。
 ターキィの両親は、自宅に隣接して建てられた工房で、木製のおもちゃを製作して生計を立てている。この家に初めてやってきたとき、玄関の脇に置かれた靴箱の上や、部屋の壁、戸棚など、家中のいたるところにおもちゃが飾りつけられているのが目についた。父親のケルディスがものづくりをして、トリエンデが店番をしているようだが、注文が殺到して忙しくなるとターキィも手伝いにかり出されるようだ。エルセはというと、暗黙のうちに免除されている。それがエルセへの気遣いであるのか、あるいは余所者への排除であるのかは、つとめて考えないようにしている。どちらであるにせよ、エルセはいまだに勝手のわからないこの家の中で、留守番という名目のもと、無為な時間を過ごすしかないのだ。
 それでも、一番心が安まるのは、誰とも関わらずにすむこの時間だった。初めてここに連れられたときに感じた居心地の悪さには、いずれ慣れるだろうと思っていた。生まれたときから家族であったのだと、思いこもうともした。だが、日が経つにつれて大きくなっていくのは、エルセと周囲を隔てる溝だった。そして、兄リオットと過ごした時間ばかりが、考えまいとどれだけ抑え込もうとしても、いつの間にか意識の一番上に浮かび上がってくる。決して叶わぬ願いに支配されて、エルセの心と身体は蝕まれていく。
 ふと、トリエンデの笑顔が脳裏に浮かんだ。エルセと接するときには決まって顔に張りつけている、満面の笑みだ。その実、心の中で何を考えているかなど知らないし、わかりたくもなかった。エルセがここにいることを、きっと誰もが望んでいない。そんな生活から今にも逃げ出したいと思っても、ずっと兄に守られて生きてきたエルセには一人で生きていけるだけの術などあるはずもなかった。
 目覚めたばかりの空っぽの頭が、瞬時にどろどろした思いに満たされる。一人であるはずなのに、一人になりたかった。自室に戻ったエルセは、窓辺に腰掛けて頬杖をついた。遙か遠く、夕陽を浴びて燃えるようなエレンシュラ山脈の山並みを望む。あの向こうにも国があって、自分たちと同じように暮らしている人がいるだなんて、エルセには想像もつかなかった。トロイラ。兄の命を奪った国。どうして兄は殺されなければならなかったのか。自分を今にも絶望の淵へ転げ落ちてしまいそうなところまで追いやって、一体何を得ようとしているのか。
 会いたい。ひとたび兄のことを考え始めると、最後には必ずその思いへ収束する。どんな形でもいい。兄さえいてくれたら、エルセは何だって耐えられる気がした。
「エルセー?」
 無遠慮な声と足音がだしぬけにエルセの空想を遮った。その瞬間、兄のことを頭の中から消し去る。大切に抱えているものを、現実によって侵食されまいとするように。
「ターキィ。どこへ行ってたの?」
 扉を半開きにして、笑顔を取り繕う。自分もきっと常に同じ笑顔を張りつけているのだろうと思うと、吐き気がこみあげた。扉の向こう側から現れたターキィの顔を、なぜかまともに見られない。心がすっぽりと抜け落ちてしまった感覚がする。
「わりぃ、仕事がめっちゃくちゃ長引いてさ」
 ばつが悪そうに額のあたりを掻いているターキィは、しかしそんなエルセの様子など意にも介さない。
「で、今から夕飯の買い物に行くんだけどさ、付き合ってくれないか?」
「ごめんなさいねー、材料を切らしていたことにさっき気がついて」
 扉の影となって見えなかったが、トリエンデも一緒にいるようだ。仕方なく、エルセは扉を開ききった。トリエンデの笑顔が目に飛び込んでくる。どんなときも変わらない、同じ笑顔。エルセも取れかけていた笑顔を再び取り繕いなおして、トリエンデに向き合う。このやりとりに意味が見いだせないのは、自分が子供だからだろうか。そんなことを考えているとは微塵も感じさせない明るい声で、エルセは返事をした。
「わかりました」

 最寄りの食料品店までは歩いてすぐだった。ターキィと肩を並べて、黄昏の道を進んでいく。辺りが暗いのは幸いだった。表情を取り繕う労力が少なくて済む。
「……でさ、もう後は色塗りだけだってときにその客が急に怒り出してさ! もっと脚を長くしろって。おかげで十個ぜーんぶ作り直し。もうほんとあれは参ったぜー」
 ターキィの声が、幅の広い道に響きわたる。さきほどから、怒濤のように仕事の苦労話を吐き出し続けている。その声を耳がとらえるたびに、得体の知れない何かが積もっていくのを感じるが、気は楽だった。話の区切りで、相槌さえ打っていればいい。もとよりエルセと会話しようなどというつもりはないのだ。ただ話したいことを話せればそれでいいのだろう。エルセの気のない相槌を不審に思う素振りもない。
 目的の店は、普段トリエンデが買い物に利用する店ではなかった。彼女は町まで出かけて、何日か分をまとめて買う。その方が安上がりなのだそうだ。だが、今日は町へ出かけるには遅すぎる時間だ。町から帰ってくる頃には、とうに夢の中にいなければならないような時間になってしまう。エルセは、先日の交易市を思い返した。あの活気の中を縫って歩くトリエンデの姿を想像する。なぜか、別世界の人だ、と思った。
 日はもうほとんど落ちかけている。黒々と頭上を覆う空の端に、わずかに残った橙色が最後の輝きを主張している。勢いの衰えることのないターキィの話しぶりに混じって、耳障りな不協和音が響いた。音のした方向を見やると、屋根の上でカラスの影が二羽、逆光の中に浮かび上がっている。
 エルセたちがその屋根の前を通り過ぎると、逃げるようにして飛び去っていった。目で追いかけようとするも、空に溶け込んですぐに見失ってしまった。そういえば、最近やたらとカラスを見かける気がする。交易市でも見かけた。この辺りにはもともとカラスなどほとんど生息していないはずなのに。そんなとりとめのないことで思考を満たしていると、ふいに目の前に明かりが見えた。
「いらっしゃい」
 先に声をかけてきたのは店の主人だ。灰色の髭をたっぷりとたくわえている。
 言いつかった品をターキィが告げると、主人は雑然とした店内をてきぱきと動き回り、一つずつ品を揃えていった。エルセはぼんやりと目の前の棚を眺めた。
 茶色の皮袋が所狭しと並べられている。小麦粉や香辛料といった、粉末状の品物が入っているのだろう。袋の一つ一つに、何やら印が縫いつけられていた。この印は、学校に通っていたときに習ったことがある。エレンシュラをいくつかの地域にわけた、その地域であることを視覚的に示す簡単な記号である。エレンシュラの国印とは別に定められているものだ。おそらく、生産地を示しているのだろう、とあたりをつける。だが、今まで通ったことのある店では、こんな表示をしているところなど見たことがなかった。この店の売りなのだろうか。
 袋を上から順に目で追っていたエルセは、ふと見知らぬ印が縫いつけられた袋があることに気が付いた。正方形の白地に、貫くような黒い縦線が描かれている。エルセが怪訝な顔でその袋を見つめていると、それに気づいたターキィがエルセの視線の先を追った。
「あれ、トロイラの香辛料だ。珍しい」
 その国の名を耳がとらえた瞬間、エルセの心臓がどくんと脈打った。
「あぁ、それね」
 するとターキィの言葉に反応してか、店の主人が二人のところまで戻ってきた。抱えていた品物を精算台に置く。
「トロイラの商人がたまにここらに来て売ってくれるんだ。正規の経路では手に入らない代物さ。ま、国と国のいさかいなんて私たち個人の暮らしにゃ関係ないもんだからね。金に困って野垂れ死ぬぐらいなら越境なんてどうってことないさ」
「へーえ」
 ターキィがひどく感心している。店の主人は内緒だぞ、とでも言いたげな顔で、口元に人差し指をあてた。その軽快なやりとりに、エルセは軽い眩暈を覚えた。
 そう、多くの人にとって、エレンシュラとトロイラとの戦など自分の生活にはまるで関係がないのだ。戦地のすぐ近くに住んでいるのでもなければ、他人の命をたやすく奪い、そしてたやすく他人に命を奪われる者が自分と寸分たがわぬ人間であろうと、遠い世界の出来事のように受け止める。
 エルセもかつてはそうだったのだろうか。今となってはもう、思い出そうとする行為そのものが痛みを伴う。ただ一つ確かなのは、その痛みを理解できる人間は、ここにはいないのだ。心のどこかでは理解していても、あえて気づかないふりをしていたその事実をはたと突きつけられて、エルセは打ちのめされた。
 買った品物はいつの間にか布袋二つにまとめられていた。エルセはまだ何やら会話を交わしている二人の間に割って入ると、布袋をぐいと持ち上げる。手に提げると想像以上に重量があったが、気にしてはいられなかった。その剣幕に、ターキィは一瞬びくりと身体をのけぞらせる。どちらともなく会話が途切れた。
 お礼の言葉を述べると、二人は店を出た。両手に提げていた布袋の一つを、ターキィが無理矢理取り上げる。
「ありがとう」
 独り言のようにエルセはぽつりと呟いた。
 先ほどまで空の端に残っていたわずかな橙色は完全に追いやられて、星を散りばめた漆黒の空だけが頭上を覆う。帰路を急ぐ二人の足音以外には何も聞こえなかった。ただならぬエルセの様子に、ターキィも何かを感じ取ったのだろうか、往路とは別人のように黙り込んで、半歩先をとぼとぼと歩いている。
 この角を曲がればターキィの家が見えるというところで、背後から何やら鳥の鳴き声のような音が、やにわに夜のしじまを破った。空の向こうまで突き抜けんばかりに鋭く、それでいて妙に不安定な調子の音だ。その響きに、ふと不穏な予感を覚える。エルセは、立ち止まって振り返った。
 振り返った先にあったのは、自分たちがたどってきた道のりと何ら変わらない景色だった。風が吹き抜けると、ささやくような音を木の葉がたてる。鳴き声の主と思しき生き物は見あたらなかった。つと思い返して屋根の上に視線を走らせてみたが、カラスの姿もない。
 思い過ごしか、とエルセが再び前を向いた瞬間。今後は耳元だった。空気を切り裂くような細い音。ひっ、と短い悲鳴をあげてよろめくエルセの足が着地した先は、地面ではない、何か不吉な柔らかさをはらんだ物体の上だった。
 反射的に足を離すと、弾みで体勢が崩れた。放り出された皮袋に、勢いのついたエルセの身体がかぶさる。
「どうした?」
 ターキィが振り返るのと、ほぼ同時だった。突如、何十、いや何百もの影が地面から現れて、空気を叩きつけるように羽ばたきながら、エルセの身体すれすれを飛び去っていく。激しく重なり合った羽音が、鼓膜から恐怖を呼び込む。とっさにうつ伏せになったエルセは両手で頭を覆い、固く瞳を閉じた。轟音だった。翼が触れているわけでもないのに、周りを取り巻く空気が刃のように変質して、エルセの背中に痛みにも似た感覚を植え付ける。瞼によりいっそう力をこめた。
 どれくらいの間、そうしていたのだろう。実際には一瞬の出来事だったのかもしれないが、渦中のエルセにとっては、永遠に続くのだと錯覚してもおかしくなかった。次第に羽音が遠ざかっていっても、エルセはまるで動くことを封じられたかのように、同じ体勢のまま微動だにしなかった。
「エルセ! エルセ!」
 ターキィが駆け寄って、エルセの肩を揺らす。そこでようやく恐る恐る両手を外した。自分の息づかいが、妙に大きく響く。ターキィの呼びかけにも、とっさに声が出なかった。
 上体を起こして斜め上を見上げると、黒々とした空よりももっと色濃い無数のカラスが、まるではじめからエルセになど興味がないとでもいうように飄々と去っていくところだった。

「お帰りなさいー。ごめんなさいね、すぐ準備するから」
 家に転がり込むや否や、トリエンデが台所から姿を現した。鼓動の音がうるさいのは、走ってきたから、だけでは決してないだろう。玄関に満ちる光に包まれた瞬間、安堵が怒濤のように押し寄せてきた。扉にもたれかかって息を落ち着かせているエルセを差し置いて、ターキィが一足先に家に上がった。余計な心配をかけさせないためだろう。二人が台所へ姿を消した後、ようやくエルセも靴を脱いだ。
 食卓の上には、布袋が一つ無造作に置かれていた。ターキィが運んできたものだ。エルセはその隣に、自分が運んできたもう一つの布袋を並べた。
「あ、塩を取ってくれる?」
 そう言って振り向いたトリエンデは、夕飯に使う食材をおおかた切り終えたところだった。家族向けの大きめの鍋が、隣で火にかけられるのをじっと待っている。塩ならば、自分が運んできた方の袋にあったはずだ。エルセはたった今置いたばかりの袋を開けて、塩が入っていると思しき瓶を取り出した。
 さ、と涼しげな音を、エルセの耳がとらえた。瓶の半分ほどに納まっている白い塩が、今、盛り上がりはしなかったか。エルセは思わず身震いをした。きっと、取り出すときの勢いで、塩が飛散したに違いない。やけに冷静に推測する。だが、そう思いこもうとすることがいかに愚かであるか、理性よりも早く、震える手が理解していた。
 ちらりとターキィの方を見やると、床に座り込んで自家製のおもちゃを熱心にいじっている。脳内に響く本能的な警笛が、瓶に視線を戻すことを拒む。一滴の汗が、うなじを伝っていった。まるで石にでもされてしまったかのように、視線を動かすことも、瓶を持つ手を下ろすことも、そして声を発することすらできない。そんなエルセを促すかのような黒い影が、エルセの視界の隅で動いた。いや、蠢いている。促されるままにそろそろと視線を戻したエルセは、今まさに塩の中から顔を出したばかりのその生物と、目が合った。
「い……あ……え……」
 エルセの絶叫は家を突き破って夜の闇を震わせ、星々にこだました。床に投げ出された瓶の中では、エルセの親指ほどの太さの蛇が、窮屈そうに塩の中を泳いでいた。