3章「夢幻の狭間で」-03

 魔術師棟の中庭は、しんと静まりかえっていた。皆、仕事をしている時間なのだから当然だろう。そんな音のない空間に身を浸しながら、フーリエスは今朝の口論を反芻していた。
 ――そもそも。
 フーリエスの思考が、過去へ飛躍する。
 事の発端は何だったのだろうか、と懸命に記憶をたどっていく。確かあれは、ウェルバーニアが三十歳の神託を受けた、ちょうどその頃が境だった気がする。そのことに思い当たると、頭の中に眠る過去の記憶から、次第に霧が取り払われていった。
 エレンシュラ軍に属する者は、魔術師を除いて、節目の年ごとに神託を受ける。二十歳、三十歳、四十歳、と十歳ごとに訪れる節目の年に、今後の進むべき道や人としてのあり方について助言をたまわる場らしい。それまで軍人として優秀だったウェルバーニアは、とりわけ総帥からの寵愛を一身に背負って、異例だと謳われる昇進を繰り返して上り詰めてきた。だが、三十歳を迎え、四日間にわたる神託から戻ってきた後、フーリエスはおぼろげに思ったのだった。ウェルバーニアの目つきがなんだか妙におかしい、と。
 隣国トロイラが祀っているイアトスという神が、一人の少女を欲している――。ある日突然呼び出された会議室で、真剣な眼差しをしたウェルバーニアに、そう切り出された。ぽかんとするフーリエスの様子も気にとめることなく、ウェルバーニアは話し続ける。その少女がイアトスと邂逅したとき、トロイラは崩壊し、ここエレンシュラとて無傷では済まない。多数の犠牲者が出るだろう。だから、そうなる前になんとしてもくい止めねばならない。少女をイアトスと引き合わせてはならぬ。すまないが――協力してほしい。
 聞かされたのはそれだけだ。ウェルバーニアが口をつぐんだ後も、耳がとらえた言葉は意識の表面を滑り落ちていくばかりで、理解が追いつかなかった。神との邂逅、国の崩壊――あまりに空想めいた響きの連続に、刹那、ついにウェルバーニアの頭がいかれてしまったかと危惧を抱いた。あるいは、神託を自称する怪しげな思想に洗脳されてしまったか、とも。だが、その危惧が長く続かなかったのは、ウェルバーニアの訴えるような眼差しがあまりに真剣味を帯びていたからであり、築いてきた信頼関係のためでもあった。
 ややあってようやく内容を頭で理解したフーリエスは、確か、いくつか質問を投げかけたのだったか。ウェルバーニアの話はあまりに突飛で、論理を欠いている。だが、明らかに今話した以上のことを知っている様子のウェルバーニアは、質問のどれにも答えることなく、ただ絡め取るような視線をフーリエスに注ぐばかりだった。
 それから間もなく、ウェルバーニアはフーリエスたちの暮らしていた魔術師棟に寝所を移した。さらに仕事部屋まで構えて、もとより深かった魔術師たちとの親交に拍車をかけた。奇異な行動に誰もが疑問を抱いたに違いないが、ウェルバーニアの放つ雰囲気が、それを寄せ付けることはなかった。
 あれから、五年ほど経っただろうか。今となってはウェルバーニアのことを疑う気持ちなど、とうに消え去ってしまっている。いや、もとより疑うつもりなど毛頭ない。ただ、あまりに驚いただけだ。
 普通に暮らしているならば、エレンシュラの一般人が敵国であるトロイラに足を踏み入れることなど、まずありえない。だが、少女を欲するイアトスは未知なる力を操って、必ずや少女を見出し自分のもとへ引き寄せようとするだろう。幾たびもの作戦会議を重ねた結果、エレンシュラ軍としての公的な任務をこなす傍ら、二人は秘かにその少女の正体と居場所を探し続けてきた。

 フーリエスは深呼吸をすると、頭上を見上げた。四角形に切り取られた青空に雲がどこからともなく流れ着き、そして逃げるように流れ去っていく。
 ここから逃げ出したいと思ったことは一度もない、と言ったら嘘になるのかもしれない。嫌気が差したことは何度もある。だが、それが具体的な企てに変わったことは、少なくともなかった。自分自身につきまとう、禍々しい運命のこととて同じだった。一般人に比べて、極度に制限された暮らし。望んだわけでもないのに、身体の内側でひとりでに生成され、周囲の空気を容赦なく汚染する魔力。魔力保有者だと正式に認定されてしまった者がとりうる人生の選択肢は、あまりにも少ない。だが、とフーリエスは考える。もしも無限の自由が保障されていたとしたら、自分は今頃どこで、何をしているのだろうか。今すぐにこの生活から解放されるとしたら、どんな生き方を選ぶのだろうか。そんな自分など、想像することすらできなかった。
 音のない空間でひとり思いを巡らせていると、ふと背後に気配を感じた。意識を現実に引き戻す。振り返ると、やけに身長差のある魔術師が二人、棟からまっすぐに向かってくるところだった。二人の魔術師の名を頭に浮かべる。よく見ると、背の低い方の魔術師は、背の高い魔術師にひきずられるように歩いている。
「フーリエス様」
 うやうやしく自分の名を呼んだのは、ティオルトという魔術師だった。顔面に薄く刻まれた皺が、フーリエスよりも年上であることを物語っている。少女の捕獲に失敗した魔術師だ。もう一人はユディスという名で、ティオルトと組んで任務にあたっていた魔術師だ。軍という響きにはおよそ似つかわしくない、幼さの残る顔立ちをしている。  二人はフーリエスの前で立ち止まると、いきなり頭を下げた。正確には、ユディスはティオルトの手のひらで強引に押し下げられる格好だ。
「昨日はとんだ失態を犯しまして……申し訳ありませんでした」
「ありませんでした」
 ユディスの弱々しい声が続く。予想もしていなかった謝罪の言葉に、フーリエスは面食らったように後ずさった。
「……わたしに謝らなくともよい」
 二人は深々と頭を下げたままの体勢をいっこうに崩さない。フーリエスはつとめて戸惑いを見せないよう、落ち着き払った声を作る。
「顔を上げよ」
「はぁ……しかし」
 そう言いながらも、ティオルトはこわごわと上体を起こす。ユディスも彼に倣った。
「ウェルバーニア様のことを気にしているのか?」
 その名前を聞いた瞬間、二人の表情に怯えの色が宿った。わかりやすい反応だ。だが、わかりやすいからこそ、制御もたやすい。
「お前たちが気にすることはない。責任はわたしがとる」
 力強い言葉とともにわずかに微笑んでみせると、ユディスの表情が一変してほころびた。ティオルトからも怯えの色がすっかり消えている。心なしか、肩の力が抜けたようにも見える。フーリエスは部下に柔らかい眼差しを注ぎながら、心の底に黒い染みが落ちるのを自覚していた。ユディスは早く立ち去りたいとでも言わんばかりに、じりじりと後退してフーリエスから距離をとっている。
「仕事中だろう? 早く戻った方がいい」
 ユディスの心中を察して、フーリエスは促した。
 やがて、二人が再び棟へ吸い込まれていくのを見届けたフーリエスは、途方に暮れたように再び空を見上げた。たゆたう雲は相変わらず、悠然と世界を見下ろしながら気ままに形を変えていく。
 間違ったことを言ったつもりはないし、嘘にするつもりもない。ただ、自分の放った言葉の意味が、自分でもわからなかった。
 ――責任とは、一体何なのだろうか。