3章「夢幻の狭間で」-04

 気がつくと、草原に立っていた。地平の彼方までさえぎるものが何もないその場所は、見渡す限り、均一の緑であった。風が通り抜けていくたびに、足下の草が肌を撫でるように揺らめく。決して手の届かないはずの青空は眼下に広がる草原を覆いつくしながら、地平線で大地と交差している。あの場所まで行けば、空にも手が届くのだろうか。夢物語のような思いつきがエルセの脳裏をかすめた。
「エルセ!」
 呼び声に振り向くと、いきなり髪に何かがすとんと覆い被さった。
「あはは、似合う似合う」
 エルセを呼んだ声の主は、愛おしそうに目を細めた。何が起こったのかとっさに理解できなかったエルセは、両手をあげて、覆い被さっているものを取り外した。
「あ……」
 手に収まっていたのは、赤と黄と白で編まれた花冠だった。エルセの表情がほころぶ。
「もう、お兄ちゃんてば器用なんだから」
 二人の笑い声が混ざり合って、天高く響きわたる。きっと空はいつでもエルセたちのことを見守ってくれるに違いない。このときが永遠に続くように。二度と、誰も傷つかぬように。
 リオットはエルセの手から花冠を取り上げると、再びそっと髪に置いた。その拍子にリオットの指が髪に触れて、エルセはなんだかくすぐったい気持ちになった。と同時に、胸の底から激しくこみあげてくる感情を自覚した。
 リオットがつとエルセから視線を外し、目を細めた。その横顔がどことなく寂しげに見えて、エルセは揺れ動いた。あるいは、何かを案じているようにも見える。どうしてそんな表情をするのだろう。まるで、今にもエルセを置いて遠くへ行ってしまいそうな、そんな風に思えた。
「お兄ちゃん……?」
 すがるような呼びかけは、リオットに届く前に風にさらわれて消えていく。撫でるような風はいつしか勢いを増して、ひゅるひゅるとエルセの耳元で渦巻く。
 エルセは一歩前へ踏み出して、リオットの腕をつかんだ。
「お兄ちゃん、あの、あたし……」
 言いよどんだ言葉の続きは、瞬間、雷でも落ちたかのような轟音にかき消された。とっさに瞼をきつく閉じる。再び目を開いたとき、しかと腕をつかんでいたはずのリオットの姿はどこにもなかった。
 前方の空に暗雲が垂れ込めている。それは瞬く間に青空を覆い尽くして、世界から光を奪った。リオットはどこへ行ってしまったのだろう。追いかけようと四方を見渡しても、生ぬるい風に揺られる草花の他に動くものはなかった。まるで世界の終末を予感させるようなおどろおどろしい光景に、エルセはただ立ちすくむしかなかった。
 遠くから地鳴りのような音が迫ってくる。一目散にエルセの方へ這ってくるその音が次第に大きくなるにつれて、足元がぐらぐらと揺れ始めた。足に力をこめて踏ん張ろうとしたが、間に合わなかった。四肢が投げ出される。短い悲鳴を漏らしてエルセが倒れ込んだ先は、先ほどまで立っていた草原とは異なる、どういうわけかひんやりとした固い床だった。
 何が起こったのか、などと冷静に考える余裕などなかった。次々と襲いかかる得体の知れない事象に、身体がついていくのが精一杯だった。揺れが収まる。痛む腕に力をこめて上体を起こしたエルセが目の当たりにしたのは、白一色の空間であった。
「何……これ」
 部屋、という体裁ではなかった。何もない空間に、白く塗りつぶされた空気だけが延々と存在しているようだった。床に接地しているはずの身体すら、宙に浮いているような錯覚を覚える。途方もなく広い空間のようにも見えるし、身動きがとれないほど狭くも感じられる。焦点がまったく合わない。まともに目を開けていると、視界がねじれてしまいそうだった。
「こんにちは」
 やにわに頭上から降ってきた声にびくりと身体を震わせる。いつの間にそこにいたのだろうか、一人の少女が立っていた。まだ十歳ぐらいだろうか、ひどく幼い顔立ちをしているのに、笑顔とともにエルセに送った挨拶は余裕に満ちていた。
「あ……あの……」
 なんと言葉を紡いだらいいのかわからず、嗚咽にも似た声の断片がひねり出るばかりだった。声が妙に響いたような気がしたのは、やはりここはそれなりの広さがあるのか、あるいはエルセの頭がぼんやりしていたせいか。
「そんなに怯えないで」
 くすくすと微かに息の混ざった笑い声が、エルセの耳元をぞわりと撫でる。少女は口元に手を当てて、さぞかし可笑しそうな様子だ。
「恐がらせちゃったかしら? ごめんなさい」
 少女は、座り込んだままのエルセに一歩近づいた。エルセは、ここに迷い込んでからずっと同じ体勢をとっていたことに気づいて、身体を支えていた腕を床から離した。少女の青い瞳が、エルセをじっと見つめている。その眼差しをずっと見つめ返しているうちに、次第に心が静まっていくのを感じていた。
「あの……ここは一体……」
「あら、その質問は時期尚早よ。今のあなたには、知ったところでどうにもできない。それより」
 ようやく絞り出した質問をためらうことなく一刀両断した少女は、もったいぶるように言葉を切った。人差し指を立てて、エルセの鼻先に近づける。妙に演技がかったその行動は、十歳やそこらの少女におよそ似つかわしくなかった。
「会いたいの? ――お兄さんに」
 どくん、とエルセの心は跳ね上がった。兄の、リオットのことを知っている。一体これは何なのだろうか。しかも、決して会うことなど叶わないというのに、やけに挑戦的な口調だ。戸惑いなのか悔しさなのか悲しさなのか、自分でも名付けられない波立つ感情とは裏腹に、エルセの口から滑り出た言葉は素直だった。
「……会いたい」
 リオットに、会いたい。どんな形でもいいから、とエルセの心を散々かき乱し続けてきた願いが、こんな状況でも変わらぬ重みをもって心をふさぐ。少女は、エルセの言葉に何も反応を返すことなく、相変わらず射るような視線を注ぎ続けている。ふと、目の奥につんと痛みを感じた。痛みは雫に姿を変えて、エルセの頬を伝っていく。
 たまらずエルセは下を向いて、両手で顔を覆った。嗚咽もない静かな涙が、頬から手のひらへ、そして手首を伝って肘へと滑り落ちる。
 少女がもう一歩、近づいたのを感じた。と同時に、手首をつかまれる。吸いつかれそうな、柔らかい肌だった。そっと手のひらを顔から外される。
「顔を上げて。私の言うことをよく聞いて」
 言われるがままに、戸惑ったような表情をする少女を見上げる。
「今から言うことを、ちゃんと覚えておいて。――家を出て右へ。五つ目の角を右に曲がるの。そのまま突き当たりまで行って今度は左。さらに二つ角を越えたところに教会があるわ。中に入って裏手に回って。そこに、あなたを導く存在が待っている。あなたはもう、悲しまなくてもいい」
 あまりの唐突さに、いつしかエルセの頬は乾いていた。食い入るように少女を見つめる。そのエルセの視線に気づいてか、取り繕うように少女は微笑んだ。
 何がどうなっているのか、尋ねることすらもはや意味がないような気がした。ただ、一つだけ聞きたいことがあった。
「あなたは……あなたは、誰……?」
 どうして自分とリオットのことを知っているのか。容姿に不相応な振る舞い、そして先ほどの予言めいた言葉。一体、この少女は何者なのか。
「私? 私はカティーエだけど……。でも、私のことなんかよりも、あなたには気にしなければならないことがあるはずよ」
「……カティー、エ」
「あなたが正しい道を選ぶことを祈っているわ。じゃあね」
 それだけ言い残すと、少女は消えた。文字通り、この場からすっかり姿を消してしまったのだ。エルセは目を疑った。得体の知れない場所に、得体の知れない少女。謎の導き。考えることすら億劫になってきたエルセの視界は次第に翳りを帯びて、やがて暗転した。

 目が覚めたのは、薄暗い部屋だった。荒い呼吸音がやけに大きく聞こえる。ここがどこなのか、瞬時に理解できなかった。がばりと布団を押しのけて、上体を起こす。部屋全体を見渡して、ようやくここが自分の部屋、正確にはターキィの家にある自分の部屋だということを思い出した。
 窓を見やると、明け方のぼんやりとした光が、まだまどろみの中にいる町を弱々しく照らしている。静けさが、エルセの不安をかき立てる。
 夢だ。確かに、夢だった。そう考えればわけのわからない状況に合点がいく。いるはずのないリオットと一緒にいたことも。なのにどういうわけか、その考えを否定したがっているもう一人自分を自覚していた。
 少女の言葉を、エルセは鮮明に覚えていた。現実に返るとともに崩れ去っていった数え切れない夢の中で、これだけははっきりと思い返すことができるのだ。
「家を出て右……」
 夢の中で出会ったリオットの姿が脳裏をかすめる。会いたいの? と、少女の声を借りて自問する。
 会いたい。
 エルセは布団に顔をうずめた。揺さぶられる心をどうすることもできないまま、エルセは再び眠りへと落ちていった。