3章「夢幻の狭間で」-05

 硝子板をのぞき込んでいたフーリエスは、突然目を見開いたかと思うと、さっと歩いていって壁にかかっていたローブを取った。ローブを素早く身につけると、媒介動物として利用していたカラスを解放する。硝子板は何も映し出さなくなった。
 少女の捕獲に失敗した後も、秘かにフーリエスによって監視が続けられていた。もちろん、ウェルバーニアの指示だ。一度、術空間に引き込んでしまった以上、隔離の術を使って身柄を確保する、という作戦はもう使えない。ウェルバーニアの言った通り、魔術師の使う術空間は誰もが共通なのだ。つまり、少女をその術空間に引き込むということは、見通しのよい街道に連れ込むようなものだ。誰が目を光らせているかわからない。仮にその街道をトロイラが監視していて、少女を見つけてしまっていたら――。街道の変化に敏感になっているに違いないトロイラは、少女を見つければ、今度こそ主のもとへ導くだろう。
 かといって、少女の居所までまで出向いていって物理的に身柄を確保することなど、できるはずもない。軍の人間が人攫いに近い行為をするところなどを誰かに見られでもしたら、大問題だ。エレンシュラ軍の威信が、ということだけではない。ウェルバーニアはあくまで秘密裏に事を進めようとしているのだ。どういう意図かはわからないが、軍に露呈したら、ウェルバーニアの立場がまずくなることは確定的だろう。結局、彼らはトロイラが少女の存在に気づいていないことを祈りつつ監視を続け、もし少女に異変があったら対処するという後手の方法をとるしかないのだった。
 その異変が、今まさに硝子板の向こうに見て取れた。少女の周りに突如、異様な魔力が漂い始めたのだ。フーリエス以外に少女に接触している魔術師などいないし、もちろん少女自身が放つ魔力であるはずがない。となると、魔力の源として考えられる可能性は一つしかない。
 フーリエスは自室を出た。ロープの端がはためく。魔術師棟の最上階にあるウェルバーニアの仕事部屋にたどり着くと、扉を叩いた。しばらく待ってみても、反応はない。フーリエスは小さく舌打ちをして、廊下の窓へと目をやった。すっかり日は暮れて、藍色の空を背景に月がぼんやりと光を放っているが、寝るような時間ではない。司令部に出かけているか、それとも食事中だろうか。一刻も早く報告しなければ、と悶々とした思いを抱えながら身を翻すと、廊下の突き当たりに三人の魔術師の姿が見えた。
「どうされましたか」
 三人のうちの一人が、フーリエスに気づいて声をかけた。最上階の部屋を使っているのは基本的にウェルバーニアだけで、他の魔術師が立ち入る用事はないはずだ。フーリエスは顔をしかめたが、今はそれよりも優先すべきことがある。
「ウェルバーニア様を探している」
 足を止めてこちらを見ている三人の方へ向かいながら、ふと、そのうちの一人が見知らぬ魔術師であることに気づいた。痩せこけた頬に、紫色をした薄い唇はにたにたと薄気味悪い笑みを浮かべている。鋭い眼光は、それだけで人を殺すことができそうだった。二人の魔術師の影に潜むようにして、しかし視線はしかとフーリエスをとらえている。別の棟に住んでいる魔術師なのか。そうだとしたら、来訪を自分が知らないのはおかしい。
「ウェルバーニア様ならまだ司令部からお戻りになっていませんが」
 手前にいた一人の魔術師の言葉が、フーリエスの疑念を中断した。何食わぬ顔で反応を待っている。フーリエスは落胆を隠しきれなかった。ウェルバーニアがまだ司令部にいるならば、今の自分にできることはない。魔術師が単独で司令部に出向くことなどできないのだから。
 そうか、と独り言のように呟く。緊急かと思われた用事に猶予ができてしまった。拍子抜けしたついでに、謎の魔術師の正体を明らかにしておこうと思った。
「ところで」
 その後ろに控えているのは誰だ、続けたかった言葉をとっさに飲み込む。後ろの魔術師が、異様な雰囲気を放っていた。睨まれているわけではないのに、視線を浴びるだけで恐怖心を煽られる。三日月の形に細められた目からは、敵意がありありと読みとれる。殺気、と呼ばれるものなのかもしれない。無言の圧力に気圧されて、フーリエスは口をつぐんだ。そしてそのまま、戸惑いの表情を見せる二人の魔術師に背を向けて歩き出した。
 あの男がいないときに、事情をたっぷり聞かねばならないと思った。平然と連れ立っていたということは、二人は彼の案内をしていたのだろう。それならば、最上階にいたことも納得できる。彼がどういう者で、何の用事でやってきたのか。なぜ、統括であるフーリエスに知らせなかったのか。だがその前に、ウェルバーニアに少女の件を報告しなければならない。わからないことばかりが波のように押し寄せてきて、もがくことすら投げ出したい気持ちになる。それでも、放棄するわけにはいかない。前へ進もうとしなければならない。
 自室のある階に降りたってふと、脳裏に一つの疑問がかすめた。一体あの二人は、謎の男に自分のことをなんと紹介したのだろうか、と。

***

 これまでの生活が充実したものだったかと問われれば、肯定の返事を即答することはできない。学校を卒業したにも関わらず、同級生のように職に就くわけでもなければ、どこかの男に嫁ぐわけでもなかった。それらは決して義務ではないとはいえ、一般的、という枠からは外れていた。
 だがエルセにとっては、その枠から外れてでも望んだことだったのだ。軍人として国のために働く兄を、亡くなった両親の代わりに支える。エルセと十も離れたリオットに支えなど不要なのかもしれなかったが、遠征のときには一人で家を守り、凱旋のときには精一杯いたわる、そんな生活は十分に張り合いのあるものだった。
 それなのに、今はどうか。朝食を済ませたエルセは、後かたづけをしているトリエンデの後ろ姿を目で追いながら考える。居候の身でありながら、文句を言いたいわけではない。この家に住み始めてもう十日が経つのに、家事を手伝おうとすればやんわりと断られ、仕事の手伝いも免除だ。ならば外に職を見つけようと話を切りだしても、気にしなくていいと一蹴された。結局、自分は単なる厄介者以上の存在になれないのだ。エルセに与えられた時間のすべてが、その事実を残酷に突きつける。
「それじゃあ、仕事に出かけるわね」
 物思いに沈んでいたエルセに、何でもないような笑顔でトリエンデは言った。
「はい。行ってらっしゃい」
 もはや恒例となっているやりとりを、今日も繰り返す。手を拭いた前掛けを脱ぐと、トリエンデはターキィの部屋へ向かって声を張り上げる。
「ターキィ。行くわよ」
「はいはい。……って、エルセ、一人で大丈夫か?」
 ターキィは煩わしそうに台所にやってくると、エルセの姿を見つけるなりそう言った。何を案じているのか一瞬わからなかったが、ややあって昨晩の出来事だと思い当たった。買い物からの帰り道で遭遇したカラスの大群は、襲撃といっても過言ではない。それに、瓶の中で蠢いていた蛇。不可解な出来事が間を空けずに連続で発生したとなれば、心配するのは当然のことだろう。
 だが、それらの出来事はエルセの中ではすっかり薄らいでしまっていた。その後に見た奇妙な夢が記憶を完全に塗り替えていったのだ。それを悟られぬように、エルセは少しだけ不安げな表情を作ってみせた後、大丈夫、と返した。
 トリエンデと、名残惜しそうな表情のターキィを見送って、エルセは一人になった。
「家を出て右……」
 確かめるように呟いた。夢の中の少女が示した道順は、いまだに鮮明に記憶している。悲しまなくてもいい、と少女は言った。その言葉の意味するところは何なのか。自分を導く存在とは、一体何を指しているのか。考えれば考えるほど、エルセの胸にはある期待が生まれてしまう。自分でも呆れたくなるほど、盲目的で滑稽な期待だった。
 リオットに、会いたい。何度頭に浮かべたか数えることなどとうていできない思いを、なおも執拗に繰り返す。少女の言葉はしょせん、夢の中の出来事なのだ。言葉に従ってみたところで、期待を裏切られてとぼとぼと引き返す未来が容易に想像できる。
 だが――。エルセは逡巡する。だからといって万に一つの可能性を捨て去ってもいいと思えるほど、今の生活を守りたいわけではなかった。トリエンデもケルディスもターキィも皆、不自然なくらい優しい。その優しさがいずれ牙を剥くとも思えなかった。生きていくだけならば、申し分ない。ただ――空虚だった。自分の意志で生きていなかった。表現するならば、生かされている、だ。
 部屋に差し込む光が急に強くなった。窓を振り返ると、雲に覆われていた太陽がちょうど顔を出すところだった。四角く切り取られた窓枠の向こうは、光をふんだんに受け止めてまばゆく輝いて見えた。薄暗い部屋の中から眺めるその景色に魅了されるように、エルセは窓の外から目を離すことができないでいた。
 エルセの瞳に一つの意志が宿った。
 自室に戻ると、自分の荷物をひととおりかき集めた。そこまで散らかっているわけではないが、生活しやすいように小物を棚に配置していた。かき集めた中から必要なものだけをより分ける。あとは、服だ。櫃に入った服をさすがに全部持って行くわけにはいかない。エルセはその中から、一番動きやすい服を着替えの服として選んだ。
 必要な荷物をナップサックに詰め込むと、結構な重さになった。背負ってみると紐が肩に沈み込む。すぐに肩が痛くなりそうだが、仕方がない。ここへ戻ってくる、という意識は一握りすらもエルセの中にはなかった。
 部屋を軽く掃除して、持って行かない荷物を整理し終えた頃にはすっかり昼を過ぎていた。部屋を出る直前にもう一度全体を見渡して、やり残したことがないかを確かめる。黙って出て行くことになるが、仕方がない。ここまで世話をしてくれた恩義よりもずっと大切なものがエルセにはあるのだ。高ぶる気持ちと、これが現実であるとにわかには信じがたい気持ちが同居した、不思議な心地の中に浸っていた。
 靴を履いて、家の中に誰もいないことを確認すると、玄関の扉を開けた。視界にいきなり光があふれて、思わず目を細める。静かだった。生暖かい風がときおり、木々を揺らしながら吹き抜けていく。エルセはゆっくりと足を踏み出した。
 自分の足音だけが響くこの空間は、当然のことながら何の変哲もない郊外の風景だった。まばらに建ち並ぶ家々はしみ入るような緑に包まれてゆったりと構えており、そこで暮らす家族のことをしかと守っている。甲高い笑い声が聞こえてそちらを振り向くと、小さな子供とその母親が庭で水遊びをしていた。どうしようもないくらいにのどかでありふれた、日常だった。
 二つ目の角を越えたあたりから、急に足が重くなった。三つ目の角を越えたときにはもう、家を出るときには胸に満ちていた高揚感が、ほとんどしぼみかけていることを自覚せずにはいられなかった。
 どこまでも現実のみがあふれているこの光の中で、自分の企てはあまりにも非現実すぎる。一歩一歩進んでいくことが、急に馬鹿馬鹿しい行動に思えた。しょせん、夢の中の出来事なのだ。つい数時間前にはあらがったはずのその言葉が、今は素直に従うべきものとしてエルセの胸に君臨した。先ほど見かけた子供だって、これくらいの分別はあるに違いない。
 エルセは立ち止まった。四つ目の角はまだ見えてこない。立ち止まった瞬間、どっと足に疲労が押し寄せてきた。
 引き返そう、と心がささやいた。兄は、戻らない。それだけは変わらぬ事実なのだ。もし本当に少女の示した先に何かが待ち受けているとしても、それが兄であることは決してない。
 あとは落ちるばかりという太陽が、気だるげにあたりを照らしている。その光に促されるようにして、エルセは来た道をとぼとぼと戻っていった。

「あたし、やっぱり働きに出ようと思うんです」
 その晩、夕食をとりながらエルセは切り出した。トリエンデとケルディスは手を止めて、顔を見合わせる。ターキィは気にもとめない様子で、スープをかき込んでいる。
「あら、まだ言ってるの? 本当に気にしなくていいのよ。それより……」
 トリエンデは思わせぶりに言葉を切った。口元に意味ありげな笑みを浮かべながら、ターキィの方をのぞきこむ。ケルディスはというと、目を閉じてなにやらうんうんとうなずいている。
「な、なんだよ」
 トリエンデの視線に気づいたターキィは顔を背ける。頬がわずかに赤く染まっているのを、エルセは見逃さなかった。ふと、交易市へ出かけるときのマッカヤの表情を思い出す。一緒に出かける二人を見て、明らかに何かを想像している顔。その顔がトリエンデと重なった。
 そういうことか、とエルセはひとり合点する。居候であるエルセのことを、この家族がどういう目で見ているか。今は厄介者でしかないエルセが、最終的にどういう存在になることを期待しているか。エルセの意志とはまるで無関係に繰り広げられる思惑を目の当たりにして、思わず食卓に並べられた皿をなぎ払いたい衝動に駆られた。
「……ごちそうさまでした」
「あら、もういいの?」
 トリエンデの心配する声にも答えずに、エルセは一目散に自室へ戻った。扉を閉める直前に、台所から談笑がわき起こったのが聞こえた。わざと乱暴に扉を閉めると、その場にへたりこんだ。何も信じられなかったし、信じる気も起きなかった。リオットの死とともに、エルセも死んだのだ。そんな感覚にすら襲われた。永遠にこの家にとらわれたまま、逃げることも能わない。
 ターキィのことは、もちろん嫌いなわけではない。だが、エルセ自身が彼のことをそういう対象として見たことは一度もなかった。リオットが、エルセの中に絶対的な存在として君臨しているのだ。そして、その位置を保ったまま逝ってしまった。
 エルセは這うようにしてベッドにたどり着いた。床に足をぺたりとつけたまま、布団に顔をうずめる。何かを考えれば考えるほど、エルセの中の何かが削られていく。今すぐ意識を失ってしまいたかった。考えなくとも済むように。目覚めてしまった後のことは、目覚めてから考えるから。
 まるで願いを叶えるかのように、エルセの意識はすうっと遠のいていった。

 目を開けたつもりだったが、視界は真っ暗だった。まだ夢の中にいるのだろうか。確かめるように、何度かまばたきを繰り返す。やはり、目覚めている。そこまで自覚して、エルセははっと顔をあげた。
 深夜だった。少なくとも深夜に近い時間帯ではあった。物音一つ聞こえない。変な体勢で寝てしまったからか、足がしびれている。エルセはゆっくりと体勢を変えて、ベッドにもたれるように座った。
 日中に着ていた服のままだ。それに、身体中に汗がはりついていてべとべとする。だが、立ち上がる気力はわいてこなかった。明日にしよう、と再び目を閉じかけたとき、聞き覚えのある声が響いた。
「何をためらっているの?」
 突然のことに小さく悲鳴をあげて、エルセはのけぞった。昨晩、夢に見た少女の声だった。確か、カティーエと名乗っていたか。昨晩とは違って、ここはエルセが現実に住んでいる部屋のままだ。それに、カティーエの姿はどこにも見あたらない。ただ、声だけが夢の中と同じ響きをともなって、エルセに語りかけてくる。
「あなたが悲しむと、私も悲しい」
 不思議と、恐怖はなかった。予感めいたものすら覚える。あぁ、やはり自分の進むべき道はここにはないのだ、と。
「ごめんなさい」
 暗がりの中、エルセは立ち上がった。荷物が入ったままのナップサックを取り上げて、肩に背負う。自分でも信じられないほどに軽快で、迷いのない所作だった。
「もう、引き返したりしないわ」
 どこにいるのかもわからない声の主に向かって、エルセは微笑んだ。くるりと身を翻すと、確かな足取りで扉の方へ向かった。
 窓の外にひっそりと止まっていたカラスは、部屋が空になるのを見届けた後、音も立てずに夜の闇へ溶け込んでいった。