3章「夢幻の狭間で」-06

「おい」
 玄関の扉を後ろ手でそっと閉めたエルセは、月明かりの下、足を一歩踏み出したところで声をかけられた。思わず身体が飛び上がる。声のした方を見ると、茂みから人影が現れた。
「こんな時間にどこに行くつもりだよ?」
 人影――ターキィは声を荒げて詰め寄った。たじろぐエルセの隙をついて、腕を掴む。エルセの方こそなぜこんな時間に外にいるのか、と逆に質問したかったが、今は掴まれてしまった腕を離すことが最優先だった。
「ごめんなさい……。でも、離して。お願い」
「出て行くのか?」
 核心をついた問いに、エルセは言葉に詰まる。何と答えたところで、こんなところを見られてしまった以上、ターキィがエルセを解放してくれるはずなどない。掴まれている部分が、どくどくと脈打つのを感じる。振りほどこうと試みても、力で勝てるはずもなかった。
「痛い、離して」
「離さない」
 必死の懇願も一言ではねつけると、ターキィはエルセの身体を引き寄せた。腕を掴んでいない方の手を、背中に回す。エルセの頬がターキィの胸元に押しつけられる。ほのかな汗の匂いが、鼻腔を刺激した。規則的に繰り返される鼓動の音は、果たしてどちらのものだろうか。
「エルセ。……好きだ」
 半ば予期していた言葉が、頭上から降ってきた。エルセは固く目を閉じた。涙が滲む。寒くもないのに鳥肌が立った。それに、足も震えている。これ以上こうしていることを、全身が拒絶していた。
「ごめん……なさいっ」
 渾身の力をこめてターキィを突き飛ばすと、ようやく腕が自由になった。ターキィは驚いたような表情を見せた後、ひどく寂しげな目をした。その目に束の間のためらいを覚えたものの、すぐに思い直してエルセは身を翻して駆けだした。
 自分の行動が、誰かを傷つけているのかもしれない。困らせて、呆れさせているのかもしれない。だが、そんなことに構っている余裕などなかった。何を犠牲にしてでも手に入れたかった。それは、エルセが生きていくための礎に他ならない、大切に抱えていくべきたった一つの意志だった。
 昼間に一度は諦めた道を、夜の闇を切り裂くように駆けていく。不思議なくらい、身体が軽かった。カティーエの示した道筋が頭の中で何度も繰り返される。最後の角を通り過ぎたとき、前方に黒々と横たわる鬱蒼とした林から、カティーエのいう教会らしきものの一部がのぞいているのが見えた。
 林を通り抜けると、唐突に石壁が現れた。エルセの肩の高さほどあるそれは、いかにも神聖なものらしいたたずまいの白い教会を、林から伸びる枝から保護するかのようにぐるりと囲っている。外周に沿って歩いていると、すぐに石壁が途切れて門になっている部分に行き当たった。おそるおそる門を押してみる。軋む音を立てながら、あっけないくらいに簡単に開いた。
「エルセ!」
 背後からの呼び声に、エルセははっとした。ターキィが追いかけてきたのだ。エルセは再び足を速めて、教会の裏手へ回り込んだ。
 そこにいたのは、馬だった。ただの馬ではない、白馬だ。白い毛並みは月明かりを反射しながらきらめいている。いや、光源はそれだけではなかった。白い光の粒子が、白馬の周りを漂いながらぼんやりと輝いている。エルセを待ちかまえていたのは、白光を放つ馬だった。
「エルセ! 待てよ!」
 馬に乗ったことなど、これまで一度もない。だが、エルセは自分が何をするべきなのか、本能的に理解していた。エルセが近づくと、まるで何年もそうしてきたかのような自然さで、白馬は脚を折って屈んだ。背にまたがった途端、再び脚を伸ばして元の背丈に戻る。手綱もなければ、鐙もない。それでも、大丈夫だと確信があった。
 どこへ連れて行かれるのかも、わからない。その先に何が待っているのかも。ただそれでも、今はこの不思議な生き物にすべてをゆだねることが、エルセのとるべきたった一つの正解だった。
 白馬が助走を始めたそのとき、教会の影から現れたターキィの姿を認めた。膝に手をついて、息を整えながらこちらを凝視している。ごめんなさい、と口の中で呟いた。白馬が次第に速度を増していく。
 崩れ落ちるようにして教会の脇に座り込んだ姿が、最後だった。エルセは再び前を向くと、途方もない闇の向こうへ消えていった。

***

 壁越しに扉を激しく叩く音がして、ウェルバーニアは緩めていた襟元を締め直した。叩かれているのはこの部屋ではない、隣の部屋だ。この時間であればさすがに寝ていると思ったのだろう。
 ついに、敵方が事を起こしたか。深夜だというのに妙に冴えきった頭が、そのけたたましい音の意味を結論づける。
「仕掛けてきたか」
 仕事部屋の扉をゆっくりと開けると、予想したとおり、音の主はフーリエスだった。ウェルバーニアが出てきたのを認めると、ぎょっとした顔で寝室を叩くのをやめた。
「そちらにいましたか」
 こんな時間にかっちりと制服を身につけているにも関わらず、大して意外ではなさそうに言う。ウェルバーニアは仕事部屋の扉を閉めると、先導するように歩き出した。
「さて、説明してもらおうか」

 少女を取り巻いていた異様な魔力のことは、司令部から帰ってくるなりフーリエスから報告を受けていた。フーリエスの仕事部屋にたどり着くやいなや、その後に起こったことについて説明を促す。少女が何かに導かれるように居所を出、白光を放つ妙な馬に連れ去られた――フーリエスの説明の要旨はこうだった。説明している間、ウェルバーニアは常に眉間に皺を寄せながら、斜め下の方にじっと視線を固定していた。話を聞くときの癖だ。本当に頭に入っているのか、対面する者をたびたび不安がらせてきたとは知っているが、相手がフーリエスならば何も問題ない。
 ひととおり説明を聞き終えると、ウェルバーニアは腕組みをした。
「それで、どこへ向かった」
「そこまでは追跡できず……。ただ、方角的には北西に向かっていったかと」
「ふん」
 ウェルバーニアはフーリエスを押しのけるようにして、窓際に置かれた机へと突き進んだ。懐から小さく折り畳まれた紙のようなものを取り出す。机の上に広げるように置いたそれは、司令部を中心にエレンシュラ全土を描いた地図だった。
「件の少女の居所はここだ」
 ウェルバーニアは地図上の一点を指した。司令部からずっと北東へ行ったところ、ルアンシア山脈にかなり近いところだ。
「その教会とやらも、ここからそう離れてはいまい。十代の女が徒歩で行き着くことができるのだからな」
 フーリエスは黙りこんで、ウェルバーニアが指を滑らせるのを食い入るように見つめている。
「つまり、ここから北西に向かったとなると……どう思う?」
 ウェルバーニアはいきなり地図から指を離し、真剣な面持ちのフーリエスを見やった。緊急時であるはずなのに、いきなり意見を求められて面食らっているフーリエスのことをまるでからかいでもするような眼差しだ。
「まず、少女はトロイラへ向かったと考えて間違いないでしょう」
 あくまで冷静に、フーリエスは自分の意見を語り始める。
「次に入国の場所ですが……エレンシュラからトロイラへ入国する方法は三つあります。そのうち、エンペルヘル野から入る、という選択肢はまずありえないでしょう。方角的にも少女が向かった方向とは正反対ですし、何よりあそこは戦地です。通り抜けられるとは思えない。また、ルアンシア山脈の西側を回り込む、というのも考えがたいでしょう。いくら馬に乗っているとはいえ、ただの少女の旅路にしては遠すぎます。となると、最も考えられる選択肢は山を越えること、になります」
 そこで言葉を切ったフーリエスが、ウェルバーニアにちらりと視線をやった。ウェルバーニアは何も言わずに、先を促すように顎をしゃくった。
 フーリエスは心得顔をつくると、地図を指し示した。司令部から北上して少しだけ西へ外れた、ルアンシア山脈の麓の町だ。
「……山を越えるとなれば、このルイネアという町を通って行くのが最も一般的です。ルイネアからルアンシア山脈に入り、向こう側へ抜ければそこはもうトロイラの領地です。わたしたちには手が出せなくなってしまう。ですから、なんとしてもルイネアから先へ行かせてはならない」
「同意見だ」
 ウェルバーニアは満足げにうなずいた。フーリエスもそれにつられてうなずく。
「どういたしましょうか? ルイネアには魔術師棟があります。協力を要請しろと仰るなら、今すぐ統括に連絡を取りますが」
「その必要はない」
 硝子板の置いてある台座の方へ身体を向けたフーリエスを、手で制す。広げてあった地図を手早くたたむと、再び懐へしまいこんだ。
「馬には乗れるのだったな?」
「は? まぁ、それなりには……」
「今すぐ部下たちを集めて任務の指示だ。しばらくお前がいなくとも手が空かぬようにな。それが終わったら出立の準備だ。くれぐれも携帯用の硝子板を忘れるんじゃないぞ。わたしは玄関に馬をつけておく」
 ウェルバーニアはいきなり早口でまくし立てたと思ったら、フーリエスの反応を待たずに部屋を出ようとした。言われた言葉の意味を素早く咀嚼すると、すでに小さくなりかけていたウェルバーニアの背中を追った。
「お待ちください。それでは……」
 ウェルバーニアが振り返る。射抜くような、鋭い視線だった。
「言ったはずだ。これはあくまで内密に進めるべきだと。これ以上、誰にも知られるわけにはいかない。――我々だけで片をつける」

 エルセの出立から二時間ほど遅れて、彼らを乗せた馬は蹄の音で静寂を破りながら、目的地に向かって北上していった。遙か遠く、ルアンシア山脈に抱かれた麓の町、ルイネアへ。あらゆるものが未だ闇にまぎれて真の姿をさらそうとしない中、地面を蹴り上げて前に進みゆく音だけが、確かなものとして存在していた。