4章「交差と翻弄」-01

 どこまで遠くまできたのだろう。
 次第に白み始める空の端が、夜明けを告げている。藍色の空を彩る星のきらめきは次第に失われていき、その代わりそびえ立つ山の向こうからは、すべての者に希望をもたらす朝陽が今まさに生まれようとしていた。
 ところどころで岩がむき出しになった、見渡す限りのだだっ広い草原だった。エルセを乗せた白馬は薄闇を纏いながら、右手に横たわる山脈に沿うようにして疾駆していた。青く巨大なルアンシア山脈はどこまでもその尾根を連ね、急峻な峰はまるで空に刃を突き立てているようだ。
 耳元では、ごうごうと風を切る音が絶えず鳴り響いている。にも関わらず、エルセは夢心地だった。出発してからどれほどの時間が経過したのだろうか。一瞬だったような気もするし、もう何日も経っているような気もする。それまで自分が眠っていたのか、それとも起きていたのかすら、記憶の彼方へ追いやられてしまっている。何もかもが、夢と現の狭間で揺れていた。
 これからどうするのだろう、とエルセのぼんやりした頭が、とらえどころのない不安を拾い上げた。どこか他人事であるのは、瞳に映る光景も、聞こえてくる音も、これが自分の現実だと受け入れきれていない証だ。ただ、このまま身を委ねていればいずれ何かにたどり着く、その確信だけがエルセを貫いていた。たどり着くその何かはひどく曖昧で不確定なものでしかなかったが、今は信じるより他はなかった。
 大地を照らす光が、また一段明るさを増した。物言わぬ白馬はまるで背後からせまってくる光に追い立てられるようにして、変わらぬ速度でエルセの身体を運び続けている。
 山の端から朝陽が顔をのぞかせ始めた頃、右側にそびえるルアンシア山脈の他にさえぎるものが何もなかった平野の遥か前方に、岩山のようなごつごつと低く連なる影が浮かび上がった。突然現れた風景の変化に、エルセは目を細めて注視する。次第に距離を詰めていくにつれて、岩山のように見えていたものは、建物の集まりが作り出す輪郭だということが見て取れた。人の住む町だ、そう意識したとたんに、はっと目が覚めるような心地になった。
 ルアンシア山脈の裾野を侵食するように、あるいは急峻な山々に庇護されるようにして存在するその町はルイネアという名を与えられ、ルアンシア山脈への唯一の玄関口として知られていた。
 エルセを乗せた白馬はよりいっそうと速度を増した。あの町が、どうやら目的地のようだ。あそこに、兄がいるのだろうか。誰かに言えば空想だと笑い飛ばされそうなささやかな希望が、エルセの胸を締め付けた。

 ルイネアの門をくぐったのは、まだほとんどの者が寝床で夢を見ている時間だった。町に入ってすぐに至ったのは、いくつもの脇道と交差する大通りだ。薄暗い大通りには人の姿はなく、宿屋や商店が所狭しとひしめき合っている。ぽつりぽつりと、旅人に安堵をもたらす明かりが、ところどころ窓から漏れ出ている。白馬は物陰から首だけを突き出すようにして左右を見渡すと、素早く大通りを渡った。そのまま脇道へ滑り込む。まるで何かから目をくらますかのように、何度も角を折れ曲がりながら駆け抜けていった。
 だいぶ奥まできただろうか。といっても、土地勘のないエルセには今自分がどの辺りにいるのかなど見当がつかなかった。ただ、ずいぶん長い時間だったような気がする。白馬は速度を緩めた。草地の中にかろうじてそれとわかる道を、歩くような速度でたどっていく。左手には林が見える。町に入った頃の雑然とした印象とは異なり、この辺りは建物もまばらにしかない。水音にも似た小鳥のさえずりが聞こえる。音のした方を向くと、二羽の小鳥が暁の空へと飛び立つところだった。
 道の脇に建つ小屋のような建物の前で、白馬は停止した。エルセを背に乗せたときと同じように、脚を折って屈む。エルセが背から降りたのと同時に、小屋の扉が軋む音を立てて開いた。
「おかえり、ヴィヴィ」
 扉の向こうから姿を現したのは、夢で見た少女カティーエだった。恐ろしいほど静かで淡々とした声色だったが、白馬を見つめる眼差しは優しかった。白馬――ヴィヴィの隣に立っていると、少女の幼さがよりいっそう際だつ。しかしカティーエは身長差などものともしない手つきでヴィヴィの首を包み込むと、片方の手で頭を撫で回した。しばらくそうしていた後、何やら腰に下げていた袋から細長い物体を取り出す。それを見て急にせわしなく頭を動かし出したヴィヴィの口元に、その物体を近づける。ばりばりと固いものが砕かれるような音がして、それは口の中へ吸い込まれていった。この不思議な生き物も食事をとるのか、とエルセは妙に感心した。
「突っ立ってないで、入れば」
 カティーエがヴィヴィを手懐けるさまをぼうっと見ていたエルセは、冷水を浴びせられたかのように我に返った。エルセがあわてて小屋の中に入ると、カティーエは静かに扉を閉めた。
 中は薄暗かったが、見た目よりもしっかりとした造りになっていた。立ちこめる土の匂いが鼻を刺激する。入ってすぐ目の前に置かれていたのは、小さめの円卓だった。正面にはおそらくこの小屋で唯一の窓があり、採光を一身に担っている。右手には、扉が二つ。左手には、柱と木板で囲われた長方形の空間。どうやらヴィヴィの住処となっているようだ。そこから細い通路を挟んだ向かい側にも、何やら部屋があるようだった。
 カティーエは慣れた手つきで木の板を取り外すと、ヴィヴィをその狭い空間に押し込める。それから向かい側の部屋に入っていったかと思うと、両腕に何かを抱えて現れた。どさり、と無愛想な音をたてて円卓に置かれたのは、籠に入った干し肉と何種類かの木の実だった。
 どうしていいかわからないという以前に、瞳が映した光景をどう理解すればいいのかわからなかった。カティーエの不自然なほど落ち着き払った行動を、ぼんやりと目で追うことしかできない。カティーエが動きを止めてからも、円卓に並べられた食料に固定した視線は、意志を奪われてしまったかのようにそこから外すことができなかった。
「……嫌い?」
 しばらくエルセと円卓を交互に見比べていたカティーエは、それでも何の反応も示さないエルセの行動をそう解釈した。困ったように首を傾げたあと、再び先ほどの部屋へ向かう。
「あ、ちがっ……」
 ようやく我に返ったエルセは、あわててカティーエを引き留めた。何がどうなっているのかはわからない。ただ、何をするべきなのかはわかった。食事をとれ、この幼い少女はそう言っているのだ。円卓の下にしまわれていた椅子を引き出すと、まるで座り方を教わったばかりであるかのようなぎこちない動作で身体をあずける。薄切りにされた干し肉を手に取った。エルセの知っている干し肉とはだいぶ形状が異なっている。やたらすべすべとした感触のそれを一枚口に挟んでみると、まるで木板でも噛んでいるかのような固さだった。軽く顎に力をこめたぐらいでは、びくともしない。徐々に顎にこめる力を加えていっても、干し肉はいっこうに形を変えないばかりか、歯形一つ残すことすら許さない。このままでは歯が折れてしまうのではないか、という予感にエルセは思わず身震いをして、諦めて口の中から吐き出した。
 カティーエはその一部始終を見守っていたが、特に何を言うということもなかった。ただ、エルセが口から吐き出した干し肉を、木の実が入った籠ごと持ち上げると、元あった部屋へ運んでいった。食事のつもりで出した食料が、思いがけず食べられないような状態だったのだろうか。あるいは、食べ方を知らないエルセに呆れたのだろうか。一貫して落ち着き払った態度を崩さないカティーエの様子からは、真意を読みとるのは難しかった。
 カティーエが戻ってくるまでの間、エルセは窓の外に見える白い空にじっと見入っていた。視線よりも上に窓があるからか、座ったままでは空の他には何も見えない。そろそろ人々が活動を始める時間になっただろうか。外にどんな風景が広がっているのかがふと気になったエルセは、立ち上がって窓の側へ歩み出た。

 この小屋は、町よりも一段高いところに位置しているらしかった。眼下には、雑然と並ぶ茶色の屋根が大地を埋めつくさんばかりに広がっていた。少し遠くに目をやると、今まさにエルセが渡ってきた平野がその向こうに続いていた。
 それよりもさらに向こう、自分の目ではもはや認識できないくらい離れた場所からはるばるやってきたのだと考えると、エルセは眩暈がしそうだった。ターキィに引き留められたあの夜が、もうずっと昔の出来事のように思える。今頃、彼らはどうしているのだろうか。エルセがいなくなって心配しているだろうか、それとも悲しんでいるのだろうか。そのどちらでもない、とエルセの直感が告げた。束の間の驚きと戸惑いこそあれ、そのうち彼らは彼らの日常を取り戻す。結局、エルセは彼らにとって何も為さない存在だったのだから。
 思考を振り切るかのように、視線を窓の外から再び小屋の中へ移す。ヴィヴィが柱と板に囲まれた狭い空間の中で、しきりに足踏みをしながら頭を上下させている。
 日常。自分の思考が放った言葉が、自分の胸に引っかかった。いったいこの不思議な旅路は、エルセを何へ導こうというのだろうか。どこへたどり着けば、終わりになるのか。その先に平穏な日常が待ち受けていることなどが果たしてあるのか、想像すらつかなかった。ただ、いずれ訪れるその日常が兄と共にあればいい、そんな無意味な願いだけがエルセを突き動かしているのだった。
 床を擦るような音が耳をかすめた。次いで、カティーエが姿を現した。カティーエは視線を一瞬さまよわせていたが、窓辺にエルセの姿を発見して安堵の表情をみせる。
「ごめんなさい、食べられるもの、なかった」
 エルセの予想は的中した。と同時に、新たな疑問が生まれた。この小屋には普段から人が住んでいるのだろうか。ヴィヴィがいることや今の状況からしても、カティーエが住んでいると考えるのが自然な流れだった。だが、そうだとすると今の言葉にはひっかかるものがある。
 思考が脇道に逸れかけていると、カティーエは今度は小屋に入って右手側――今のエルセにとっては左手側だ――、二つ並んだ扉の方までやってきた。
「寝るのは、ここを使って」
 カティーエが指さしたのは、二つの扉のうち窓に近い方だった。そしてそれだけ言い残すとエルセを一瞥した後、身を翻して小屋を出て行った。ぱたん、と扉の閉まる乾いた音は、残響となっていつまでもエルセの耳を支配していた。
 指定された扉を開けると、人が一人ぎりぎり寝転がることができるくらいの、部屋と呼ぶのもはばかられる空間だった。天井近くに明かり採りの小さな穴が開けられているだけで、窓はない。藁で編まれた敷物が窮屈そうに敷かれているおかげで、かろうじて寝床の様相を呈している。だが、エルセにとってはそれでも十分だった。眠る、という行為の存在が意識の表層に呼び覚まされた瞬間、エルセはようやく、全身に疲労がまとわりついているのを自覚したのだった。