4章「交差と翻弄」-02

 ひどく長い時間、どこかをさまよっていたような気がする。それが夢の中だったのか、それとも果てしない祈りの海の中だったのか、区別することはできなかった。目を開けても閉じても、ひたすらに塗りつぶされた闇が存在するだけだ。
 それでも自分が確かに生きている、と実感したのは、腹がたてる間抜けな音が静寂を突き破ったからだ。エルセは身体を起こした。
 円卓のある部屋へ這い出たエルセは、予想とはまるきり異なった様子に面食らった。窓の外は、黒々とした闇に満ちている。にも関わらず、明かりの類の一切ないその部屋は、どういうわけか煌々と白い光で満ちていた。
「あぁ、起きた」
 ヴィヴィの毛並みを整えていたカティーエは、エルセの立てた物音に気づいて振り返った。よく見ると、円卓には色とりどりの果物や、肉、パイなどが並べられている。
 カティーエの無言の促しに従って、エルセはこわごわと円卓に近寄っていった。色と質感、それに匂いがお互いに作用し合って、きわめて魅力的なよそおいをしている。パイを手にとって一口噛み下すと、味覚は舌から全身へしみ入って、身体中のあらゆる感覚が目覚める。
「よかった」
 並べられた食料をひとしきり貪るように飲み込み終えると、カティーエが後ろからぽつりと呟いた。思わず振り向くと、愛おしいものを見る目つきで微笑む少女の姿があった。こんな風に笑うこともあるのか、とエルセはなぜか胸のつかえがとれたような気がした。
「ここがどこなのか、知りたい?」
 何の前置きもなく問いかけられた言葉に、エルセは硬直した。カティーエの方から謎を明かしてくれることなどきっとないのだろう、と確信にも近い予感があったのだ。エルセは黙ったままうなずいた。知りたいことは他にもあふれるほどあったけれど、言葉という形をとるにはあまりにも漠然としすぎていた。
「ここはルイネア」
「ルイネア……」
 聞いたことがあるようなないような地名を、エルセは確かめるように復唱した。
「次の新月の日に発つわ。今日から数えてちょうど三日目」
 有無をいわさぬ眼差しに、エルセの身体がからめとられる。発つ、ということはここから更にどこかへ向かう、ということだろう。どこへ、何のために向かうのかと聞き返そうと思ったが、カティーエはすでにエルセに背を向けていた。結局、ほとんどのことがいまだ明らかにされないまま、話は打ち切られてしまったようだ。期待をいきなり絶たれてしまった宙ぶらりんな気持ちが、エルセの中でくすぶった。
「もう寝るといいわ」
 カティーエは突然右手を肩の高さまで掲げたと思うと、その華奢な指先に向かってそっと息を吹きかけた。外の闇が一気に流れ込んできたかのように、視界が暗転する。一瞬、視力を失ってしまったのではないかと慌てたが、ほのかに差し込む月明かりがその考えを打ち消した。次いで、魔術という言葉が脳裏をよぎる。そもそも、明かりのないはずの部屋がまるで晴天の昼下がりのような様子だったことが、普通ではない。カティーエの力によるもの以外に考えられなかった。魔力という特別な力がどこかで存在しているということは知っていたが、見たことも、人づてに聞いたこともない。それでも、初めて夢にカティーエが現れてから起こり始めた一連の出来事のただ中にいるエルセは、その考えを難なく受け入れることができた。
 手探りで寝室へ戻ると、身をよじって横たわった。押しつぶされるような圧迫感を覚えるのは、四方に迫る壁のせいばかりではない。自分を取り巻くいまだ得体の知れない何かと、これから起こることへの不安、そしてそんなときでもほのかな明かりを灯し続ける一縷の望みが混ざり合って織りなす渦に、エルセの小さな身体は簡単に飲み込まれてしまいそうだった。

 窓からは、人の往来を全く見ることができない。それは、白日の下であろうと、月の下であろうと同じことだ。密集する屋根が、まるで地面を隠すかのように連なっているのだ。動くものが何一つない風景は、この町が実はとうに死に絶えた廃墟なのではないかという錯覚を見る者に与える。
 エルセは窓から視線を外した。小屋の中には、彼女以外に誰もいない。カティーエはどこからか調達してくれた朝食を円卓に並べた後、ヴィヴィを連れて小屋を出て行ってしまった。「外には出ないで」と、これ以上なく簡素な、そしてこれ以上なく受容しがたい言葉を残して。エルセは素直に従って、太陽が頭上近くにのぼる今までの間、ずっと窓辺にもたれて動かぬ景色を眺め続けていたのであった。
 薄暗く、土の匂いが立ちこめる他には何もない小屋である。エルセが持ってきた荷物の中にも、暇をつぶせるものなどなかった。次第に、あの身動きのとれない寝室で寝ているときにも勝る窮屈さが、エルセの全身を襲い始める。カティーエの意図するところはわからないが、仮に迷ってしまうことを案じているのだとしたら、少なくともこの近くを離れなければ問題はない気がした。
 少しだけ、入り口の向かい側に広がる林に行くだけ、と言い聞かせながら、エルセは白日に身をさらした。
 外に出た瞬間、小屋の中がいかに淀んでいたかを身体中で思い知った。混じりけのない空気は、エルセを内側から洗い流してくれる。頭上から降り注ぐ日差しに、心まで溶かされてしまいそうだった。
 ヴィヴィとともに通ってきた道の向こう側には、目にしみる鮮やかな緑を余すことなく披露しながら、一面の林が地面を覆っていた。まるでいざなわれるかのように、エルセの足はその中へ向かっていった。
 さざめく木の葉が、地面にゆらゆらと影を落とす。ときおり、小鳥の遠慮がちな鳴き声がこだまとなって、木々の間を渡り歩いていく。静寂の地に足を踏みしめ、光と影の織りなす緑の空間を縫っていくこの時間は、平和そのものだった。何もかもを投げ捨ててしまいたい、と暴論めいた思いがふと脳裏をよぎる。兄への思慕さえも捨て去って、このまま生を閉ざすことができたなら。その考えはひどく魅惑的な色をもって、エルセの心の隙間へ入り込む。だが、できるはずがなかった。できるはずがないからこそ、エルセは今ここでこうしているのだ。
 絶望に近い気持ちが心に生まれかけた瞬間、こののどかな景色にはおよそ似つかわない、空気を切り裂くような鳴き声が遠くの方で響くのを耳がとらえた。夢心地だったエルセははっと我に返る。この鳴き声の正体を、エルセは知っている。
 エルセが立ち止まると、再び同じ鳴き声をとらえた。今度はエルセのすぐ近くだった。空気を叩きつけるようなはばたきが、すぐ後ろで聞こえた気がした。
 カラスだ。その名前から想起されるのは、おぞましい記憶。いつまで経っても止むことのない、耳を聾するような羽音が頭の中で再生される。
 小屋へ戻ろう、と緑の空間から一歩踏み出したとき、何やら柔らかいものとぶつかった。身体を支えきれず、尻餅をつく。
「外に出ないで、って言ったよね?」
 顔をあげた先にあったのは、おそらくぶつかった相手であるヴィヴィと、その上から凍り付くような冷たい視線をエルセに注ぐカティーエであった。汗ばむ陽気であるにも関わらず、背中に寒気が走る。
「ご、ごめんなさい」
 あわてて謝るエルセの襟元を、ヴィヴィが心得たようにくわえる。そしてカティーエを背中から降ろすと、エルセを引きずりながら小屋へ戻っていった。
 カティーエがヴィヴィを木の板の向こうへ押し込めると、ようやくエルセは解放された。締め付けられた喉元には苦しさがまだ残っていて、思わず咳き込む。しかしカティーエはそんなエルセの様子を気にかけることなく、どこからか調達してきた食材を円卓に並べたてている。ようやく咳が落ち着いたエルセは、そんなカティーエの姿に、操者の思い通りに動く操り人形が重なった。一体、この少女は何者なのだろうかと、今の今まで抱かなかったことが不思議なほどである疑問がふと生まれた。エルセを目的へ導くことが役割ならば、果たして彼女は本当にただの人間なのだろうか。夢に突如現れ、魔術めいた技を使い、そして幼い子供の姿をとっていながらまったくらしからぬ振る舞いをする、この少女。少なくともエルセの敵ではないはずだが、味方であるとも言い切れないような無機質さを備えている。
「食べないの?」
 いつの間にか食事の用意が終わっていた。床に座り込んでいたエルセは、身体を素早く椅子へ移動する。なんとなく、カティーエの視線が痛かった。
「明日、出発するから。いらないものは置いていって。あと、着替えて」
「あの……これからどこへ行くの?」
 疑問を口にすると、カティーエの視線が一段と冷たさを増した気がした。だが、エルセにもそれを知る権利はあるはずだ。むしろ、知らずに連れ回されている方が正常ではない。
「それを知って、どうするの?」
 しかしカティーエは目を細めると、エルセの要求をたやすくはねつけた。
「どうするって……」
「どこに行くのであれ、あなたに選択肢はないはずよ。前に進む、以外のね」
 氷のような冷ややかさを帯びた言葉は、これまで気づいていながらずっと気づかないいふりをしていた一つの事実を、エルセの胸に鮮明に浮かび上がらせたのだった。
 そう、エルセにはもう帰る場所などないのだ。他でもないエルセ自身が、半ば感情に任せるままに捨ててきたのだから。どこに向かうのであれ、今や実質的な庇護者たるカティーエに付き従わなければ、今度こそ途方もなく広い世界に一人放り出されてしまうだけだ。ヴィヴィにしがみつきながら駆けてきた平野が、ふとよみがえる。あの中を一人さまようところを想像するだけで、震えが走った。
 今はただ、身を任せるしかない。エルセは目を閉じた。そのうち、自分を取り巻く世界の形が、否応なく真実を教えてくれるに違いない。ただ、そうだとしても、エルセにはどうしても聞いておきたいことがもう一つあった。それはエルセの進退などよりも、もっとずっと手前にあるものだ。
「兄に……リオットに、会えるのですか」
 それは、エルセが存在し続けるための理由そのものだった。胸に宿るほのかな希望だけを頼りにここまでやってきたのだ。その望みが断たれるのであれば、今すぐ生を諦めても構わなかった。
 自分で投げかけた問いにも関わらず答えを聞いてしまうことに恐れを抱いて、エルセは身構えた。
「来てみればわかるわ」
 しかし返ってきた答えは、肯定でも否定でもなかった。安堵と焦燥がない交ぜになったため息が漏れ出る。
「妙なことを考えるのはやめなさい。夜明け前に発つ。それまでに準備と休息を済ませておくことね」
 これ以上は、何を言っても無駄だ。そう悟ったエルセは、激しく揺らめく感情のやり場がないまま、カティーエの指示に従った。