4章「交差と翻弄」-03

 満天の星の下で秘かに蠢く二つの影は、ルアンシア山脈の麓に広がる林の中をゆっくりと縫っていた。
 目の前を行く少女は道筋を完全に心得ているようで、足取りにはわずかな迷いすら見られない。その背中を見失わないようにぴったりと付いて歩くエルセは、行く手を遮るように伸びてくる枝を払うのに精一杯だった。
「ヴィヴィはどうするの?」
 こんなときにどういうわけか生じた疑問を口にしてみる。カティーエがいつも引き連れている白馬は、小屋に置いてきたままだ。となると、目的地へは徒歩で移動することになる。どれだけの距離を歩くのか見当もつかないが、体力があるわけではないエルセはふっと不安が過ぎった。それに、その間の世話はどうするのだろうか。
「ヴィヴィは連れていけない」
 カティーエの声色はどことなく寂しげな色を帯びていた。エルセはそれきり口をつぐむ。何も考えずに置いていくわけではさすがにないのだろう。目の前で揺れるカティーエの髪だけを頼りにして、ひたすら無心に両足を動かす。
 草木をかきわける規則的な音ばかりが満たす空間を、徐々に薄れゆく空の色が照らし出す。頭上を覆う木々の隙間から、空を切り取ったかのような黒い影がすぐ目の前に横たわっているのに気が付いた。そして、エルセの足はまっすぐとその方向へ向いている。
 まさか、山に入るとでもいうのか。それまで思い当たりさえしなかったその考えは、しかしあらゆる物事のつじつまをぴったりと合わせた。着替えて、と言ってカティーエが差し出した服装と靴。苦心して軽くした荷物。そして、小屋に置き去りにされたヴィヴィ。目の前に迫るルアンシア山脈よりも更に大きく暗い影が、エルセの表情を一瞬にして曇らせた。
 山の向こうに思いを馳せる。リオットを葬った国、トロイラのことを。その地に足を踏み入れるかもしれない。恐れているわけでも、嫌悪を抱いているわけでもない。ただ、その可能性を思うだけで気の遠くなるような痛みを覚えるのだ。戻れないのならば、このまま時を止めてしまいたかった。分別の知らぬ赤子のように泣きわめけば叶うのならば、今すぐにもそうしたかった。だが、立ち止まればカティーエの背中は小さくなる一方であり、一人の人間のちっぽけな願いなどあずかり知らぬ空は、その明るさを増していくばかりだった。

 どこが林と山の境界だったのか気づかないまま、いつしかエルセは岩だらけの坂道を上っていた。あるいは、境界などないのかもしれない。都会育ちで山などとは縁のない生活を送っていたエルセにはわからなかった。リオットの話を聞きながら想像していた山の様子と、今エルセの周囲を取り囲む風景はまるで異なっている。一面に敷き詰められる緑の絨毯など見渡す限り存在しないし、花は草むらの中に紛れるようにして遠慮がちにほころぶだけだ。とても道とは呼べないような、草木の割れ目からかろうじてのぞく土と岩ばかりの地面を踏みしめながら、滴る汗に気を留めることもなく一心不乱に上り続けていた。
 頭上を遮る木が開けると、日差しが容赦なくエルセを熱気で包み込んだ。太腿が悲鳴をあげている。一歩進むごとに、荒い呼吸音が妙に耳に響く。その音を聞き取ったのか、前を行くカティーエが立ち止まって振り返る。日陰に手頃な岩を見つけると、そこにもたれかかるよう手で示す。
 座り込んで岩に背中を預けると、汗がどっと噴き出した。身体に蓄積した疲労がじわじわと溶けていく感覚がする。休息の心地よさを一度味わってしまうと、ずっとこうしていたいと全身がささやく誘惑に打ち勝てそうもなかった。カティーエが皮袋に入った水を差し出す。汗で失った水分を取り戻すかのように、エルセは喉に水を流し込んだ。
 カティーエはその間もずっと座ることなく、立ってエルセを見下ろし続けていた。まるで、エルセの疲労が回復するのを待っているようだ。息があがっている様子もない。この小さな身体のどこにそんな体力が眠っているのだろうか。あるいは、これも魔術の一種なのだろうか。考えてもわかるはずのない問いに頭を使うのをやめて、カティーエの急かすような視線に応えるようにエルセは立ち上がった。
 小休憩をときおり挟みながら単調な道をひたすら上り続けていると、突然カティーエが立ち止まった。地面を見ながら歩いていたエルセは、思わず背中にぶつかりそうになる。
「上に気をつけて」
 カティーエの視線の先を追って見上げると、澄んだ青空に二つの黒い影が旋回していた。その鳥の名を思い浮かべると、反射的に身体が震えた。カティーエは顔をしかめると、道を逸れて木々の屋根の下に潜り込む。エルセもその後に従う。
 明らかに、人の通る道ではないのだろう。先ほどまでいた道が歩きやすく踏み固められていたのに比べて、敷き詰められている土はひどく柔らかかった。一歩踏み出すたびに、足首まですっぽりと埋まってしまう。それでもさらに奥に進もうとするカティーエに遅れをとるまいと、エルセは木の幹を支えにしながらおぼつかない足取りを重ねていった。
 カティーエは一定時間ごとに頭上を見上げて、何かを確認する素振りをみせる。何を確認しているかは明らかだった。二羽のカラスは二人が道を外れたにも関わらず、常に頭上を旋回し続けている。不穏な予感がますます濃度を増していく。先ほどまでとっていた小休憩も、もうしばらくとっていない。エルセの体力は尽きかけていたが、しかしカティーエの必死な形相に向かって声をかけることはためらわれた。自分の身体が自分のものでなくなるような感覚に耐えながら、半ば這うような姿勢で追いかける。
 何度目かにカティーエが頭上を見上げたときだった。にじみ出ていた焦燥が、ふと消えた。エルセも頭上に視線を移すと、青い空に雲がのんびりとたゆたっている。カラスの姿は見えない。どうやら撒いたようだ。エルセは近くの木にしがみつくようにして、柔らかな土に身体を埋めていた。慎重に注意を見渡すカティーエを見上げる。生暖かい風が吹き抜けていった。
 もはや隠れる必要がなくなった二人は再び元の道へ戻った。足の裏で感じる固い土の感触が、これ以上なく嬉しかった。降り注ぐ日差しさえも、希望を思わせる。萎えかけていた心が気力を取り戻す。
 視線の先に続く単調な坂道を見上げる。どのあたりまで来たのだろうかと振り返ろうとしたエルセは、突然正面から吹き付けてきた冷たい風に頬を叩かれて思わず目を閉じた。目を開けたときには、陽光に満ちていた辺りの景色がみるみるうちに色彩を失っていった。暗雲が背後からやってきてエルセたちを覆おうとしていることが、もはや見上げる必要もないくらいにはっきりとわかった。風は途切れることなく吹きすさび、草木をほしいままに弄ぶ。内臓までも震わせる轟音の中を、カティーエはそれでも進んでいく。その後ろをエルセだ。幸い、左右に広がる木々が風を一身に受け止めてくれているおかげで、歩む速度はそれほど落ちない。ただ、それでも受け止めきれずに漏れ出る風が、体温を容赦なく奪っていく。指先がしびれてまともに動かない。エルセはぎゅっと手を丸めた。
 突風が横から全身を叩きつけた。立っていられないほどの、衝撃。倒れ込んだエルセは、道に転がっていた石に膝をぶつけた。痛みを覚えたことすらも意識から吹き飛んでしまうほどの風に、エルセはそのままうつぶせになった。かろうじて顔を横へ向ける。左右を守ってくれていた木々が途切れて、岩だらけの山肌が無機質な姿をさらしていた。
「戻って」
 カティーエはエルセを引きずるようにして、森林地帯へと押し戻した。途端に風が緩やかになって、エルセは息を整える。道端の岩にもたれかかると、頭上で枝が狂ったように暴れている。唸りというよりも咆哮と呼んだ方がしっくりくるであろう風の音が、エルセを不安の渦へと引き込む。
「ここにいて。動かないで」
 カティーエはそう言い残すと、激しい風の中へ身を投じた。髪も服の裾も踊り狂ったようにはためく。小さな身体が今にも吹き飛ばされてしまうのではないかと、エルセはただ見ていることすら恐ろしかった。
 やがてカティーエの姿が曲がり角の向こうへ消えると、言いようのない孤独感がエルセをじわじわと侵食していく。聞こえるのは風の音のみ。むしろ、エルセの世界には風以外の何も存在していなかった。轟音を伴う風は、相変わらず道の両端に広がる木々が受け止めてくれている。それが自分に襲いかかるところを想像するだけで、息が詰まりそうになる。
 風の作り出す轟音だけが満ちていた空間に、別の音が混じり込んだ。突き刺すような音が聞こえたと思った次の瞬間、砂を振りかけられたかのような痛みがエルセの全身を襲った。地面に点々と染みが出来ていく。雨だ。まるで風が固体に変化したかのような雨がエルセを追い立てる。目が開けていられない。氷でも纏っているかのような冷たさ。動かないでとは言われたが、このままでは凍えてしまう。
 エルセは身体の向きを風下へとひねると、目を僅かに開けて雨をしのげそうな場所を探す。少し下ったところに張り出した岩を見つけると、腹ばいになってその場所へ転がり込んだ。水浴びでもしたかのように、髪の先から水が滴る。変色しきった服がぴったりと肌に張り付いている。
 カティーエは大丈夫なのだろうか。身を乗り出して様子を伺おうとしても、刺々しい雨粒が吹き付けてそれを許してはくれない。これまでのただ者ならぬ雰囲気からしてきっと大丈夫だという気持ちと、さすがにこの嵐の中を無事ではいられないのではないかという気持ちがせめぎあって、エルセの心中をかき乱す。だが、ひたすら信じる他に出来ることは何もなかった。息を整えて、膝を抱える。せめてこの嵐が早く終わりますようにと祈りながら、エルセは抱えた膝の中に顔をうずめた。
 長い時間だった。少なくともエルセにとってはそうだった。始まりは突然だったが、終わりも突然やってきた。ぴたりと止んだ音におそるおそる顔を上げてみると、辺りは嘘のように静けさを取り戻していた。あれほど荒れ狂っていた木々はまるで時が止まってしまったかのように、ぴたりと静止している。辺りが再び色彩を取り戻そうとしていた。
 岩の下で張り付いたまま動けなかったエルセは、ふと遠くの方で足音を聞いた。カティーエはやはり無事だったのだ、と安堵がどっと押し寄せる。足音は次第に近づいてくると、エルセを匿っている岩のすぐ隣で止んだ。泣き笑いのような表情になって岩陰から這い出ようとして、エルセは戦慄する。地面に伸びる影が、二つあったのだ。それも、どう見ても幼い少女のそれとは異なっている。
 ぴくりとも動けなくなってしまったエルセの喉元に、何かきらめくものが突きつけられた。思わず息をのむ。それが剣であると理解するのを待たずに、頭上から低く太い声が降ってきた。
「エレンシュラ軍だ。大人しくしていれば危害を加えるつもりはない」
 視線だけを上に向けたエルセがとらえたのは、軍服を着た男と、その後ろに隠れるように立つローブを纏った男の姿だった。