4章「交差と翻弄」-04

 外は荒れ狂う嵐だった。風に振り回されて鳥の群のように同じ方向へうねる雨粒が、窓硝子を叩きつける。まるで窓の内側にいる者を非難するかのように、砂を投げつけられるような音が断続的に聞こえる。だが、非難されるいわれはない。フーリエスは固く瞳を閉じると、寝返りを打った。
 突然の出発から一体何日が経過したのだろうか。数えてみる気にもならなかった。とがらせた神経を全身に張りつめたウェルバーニアの隣で、常に心身を休めることなく動き続けてきたのだ。術を使えば、使った分だけ確実に疲労が蓄えられる。魔力の自然な流れを歪めて、仕事として使えるような体系的な形に変えているのだから当然のことだ。それに、持って行ったのは携帯用の頼りない硝子板のみだった。媒介動物を操って少女を捜索することぐらいはたやすいことだったが、さすがに天候の交換を命じられたときは辟易を隠せなかった。もっとも、それで怯むような指揮官であるはずがない。
 しかし、それでもやり遂げたのだ。魔術師棟の三階、使われていない部屋が並んだ廊下の突き当たりの部屋で、件の少女も今、同じように身体を休めているはずだ。悲願を叶えた対価として、このくらいの休息は認められても文句は言われないだろう。重力のなすがまま溶けるように横たわる身体は、寝床と同化していると表現しても差し支えなかった。
 疲労の度合いに比べて、どういうわけか目は驚くほど冴え冴えとしている。深い深い眠りの淵をのぞき込みたくても、そこへ近づくことを本能にも近い直感が拒絶しているような心地だ。それに、妙に喉が乾いている。このまま無為に横たわっていたとしても、かけた時間に見合うだけの回復は見込めないだろう。
 身体が求めるいくつかの欲求のうちの一つ――水を求めて、フーリエスはゆるゆると立ち上がった。

 外は荒れ狂う嵐だった。窓の内側にいる者の視覚も聴覚も脅かさんばかりに繰り広げる雨風の狂騒も、しかしエルセには遠かった。
 何が何だかわからないまま押し込められたこの部屋は、妙に不自然な桃色で全体が統一されている。その桃色のベッドの上でエルセは、底に穴の空いた器で水をすくいあげるかのような甲斐のない思考を、もう何巡も試みていた。
 一体、エルセの周りで何が起こっているのか。なぜこんな風に連れ回されなければならないのか。カティーエの目的は。軍の目的は。そして、兄には会えるのか。考えたところでエルセに結論を導き出せるはずのないそれらの問いは、しかしだからといって今すぐ頭の中から切り離せるようなものでもなかった。
 不意に扉を叩く音がした。妙に遠慮がちな、静かな音だ。立ち上がって自ら来客を迎えにいく気力など残っていないエルセは、はい、とか細い声で返事するのみだった。さすがにみっともないだろう、と寝ころんだときに乱れた服を整える。ややあって扉の向こうから姿を現したのは、ルアンシア山脈からエルセをここまで運んできた二人の男のうちの、魔術師の方だった。
「逃げ出したわけじゃないんだな。……見張りは何か言っていなかったか」
「見張り……?」
 いきなり飛んできた不躾な言葉に、エルセは顔をしかめた。訳のわからぬまま連れ回されたのはエルセの方なのに、まるで囚人が脱走でもしたかと疑うような口調だ。そもそも、この部屋に見張りがいたことすら初耳だった。
 エルセは両膝を腕で抱えるように座り直すと、その上を布団で覆った。男の視線の前で生身の姿をさらすことに、言い表せないような嫌悪感を抱く。
「なんだ、交代も頼まずにどこへ行ったんだ」
 ぶつぶつと不平を漏らす男は窓際へ進み出て、遠くを見るように目を細める。だが、この嵐の中では、吹きすさぶ風と雨に遮られてろくに見通すことすらできないはずだ。どこかへ行った見張りを探すならば、外よりも棟内をまず当たるべきではないか。この上なく当然の発想に至ったエルセを差し置いて、男は視線を固定したまま微動だにしない。
 何が目的なのか、わからないことは苦痛だった。重苦しい沈黙と気まずさをもたらしてまで、一体この男は何がしたいのか。それは今だけに限ったことではない。エルセをルイネアから半ば脅迫のような形で連れ戻し、この部屋に放り込んだ、その一連のいずれのことがらにも理由が与えられていないのだ。まるで人形か、道具のようではないか。
 男の視線が、沈黙の抗議に応えるようにゆっくりとエルセの方を向く。とっさに、膝を覆っていた布団を肩まで掛け直す。向けられた視線には、はっきりそれとわかるほどの同情が浮かんでいた。自分よりも弱い者を哀れむときの目。エルセの表情は知らず知らずのうちに険しくなる。
「心配しなくていい。ここにいる限り君は安全だ」
 幼い子供を諭すように、男は言う。自分の感情を別な風に解釈されて、悔しさとももどかしさともつかない思いがこみ上げてくる。
「どうして、あたし、こんなところに」
 つとめて強気な口調を装ったが、発したかった言葉は喉でつかえて唇からうまく滑り出ることができなかった。まるで子供の強がりだ、とエルセは責めるように自分の唇を噛む。
「君が向かっていた土地はトロイラといって、エレンシュラと敵対している国だ。一般人である君が足を踏み入れていい場所じゃない。危険だ」
「……嘘を言わないで」
「嘘じゃない。学校でも習っているはずだ。何があったのかは知らないが、じきに家に帰してやるから、妙なことは考えずに――」
「嘘よ!」
 どこまでも白々しい男の言葉に耐えられなくなって、エルセは布団を飛び出した。男の纏うローブにつかみかかると、不意をつかれたような表情をまっすぐと見据える。
「そんな教科書通りの話なんて聞きたくない! 何を隠してるの、ねぇ、どうしてこんな目に遭わなきゃならないの? あたしはただ、お兄ちゃんと、お兄ちゃんとまた二人で暮らしたいだけなのにっ……」
「落ち着け」
「第一、何が安全よ、あんたたちがお兄ちゃんを見殺しにしたんでしょう? あたしには最後のお別れすらさせてくれなかったくせに! あんたたちの方が……ここにいた方がよっぽど危険じゃない!」
 言い切るとエルセは崩れ落ちた。こみ上げてくる思いは止めどなく、涙となって流れ落ちる。足元でわめく少女のことをこの男がなんと評価しようと、どうでもよかった。不格好だろうと情けなかろうと、ただじっと座って誰かの手のひらで転がされるのを待つだけなのは、もうごめんだった。
 視界いっぱいに広がっていた黒いローブがふと動いた気配がして、エルセは嗚咽をこらえるように止めた。男はしゃがみこむと、エルセの目の高さまで首をすくめる。真っ直ぐにエルセを見つめる透き通るような青の瞳を、きれいだと思った。
「名は、なんという」
「……エルセ」
 魔術師の男は少しだけ腰を浮かせると、手を差し伸べる。呼応するように思わず右手を伸ばしてしまったエルセの手のひらが、柔らかい手のひらに包まれた。男が立ち上がり、エルセの身体を引き上げる。再び両足で床を踏みしめたエルセの頬は、いつの間にか乾いていた。
「君の言うことはもっともだ。本当にすまない。だが、今はここにいてもらわねばならない。じきにすべて説明する」
 嘘だ、と思った。だが今度は口に出さなかった。諦めにも似た空虚さが胸を満たしていた。
 そうしてエルセは取り残されるのだ。一人何も知らないままで。このまま世界が滅びてしまうのではないか、と思わせるような嵐の中で、エルセの周りの空気だけがしんと静まりかえって動きすらしない。
 魔術師の男が去っていった扉をしばらく見つめていた後、エルセは窓の外に目をやった。いっそ、この嵐の中に身をさらしてしまいたい、と思った。

 廊下に出た瞬間、フーリエスは違和感を覚えた。その正体は見渡すまでもなくすぐにわかった。向かって左手、魔術師棟の外に面した窓がわずかに開いているのだ。風に乗った雨粒が、その勢いを殺さぬまま隙間から飛び込んできて、廊下に敷かれた絨毯に染みを作っている。
 見張りが見あたらないことに不審を抱いて、この部屋に入ったときには開いていなかったはずだ。この嵐の中だというのに、一体、誰が開けたのか。フーリエスは怪訝に思いながら、窓枠に手を伸ばそうとした。
 その瞬間、風を裂くような鋭く短い音が、嵐の狂騒に混じってフーリエスの耳をかすめた。それが何かを認識するよりも早く、崩れ落ちるように身体を伏せる。矢だ。一本の矢が反対側の壁に突き刺さっている。フーリエスは素早く窓を閉じると、顔を上げて外に視線を走らせた。
 石塀の向こう側に植えられた木々の枝が、塀のこちら側まで張り出して絡まるように重なり合っている。その枝の一つに、自然が織りなすものとは明らかに異なる黒っぽい影が乗っていた。人間だった。黒いローブに包まれた人間が、枝の付け根にしゃがみこんでいる。フーリエスは目を凝らしたが、激しい雨足が視界をさえぎって顔までは見えなかった。そうしているうちに人影はもぞもぞと動いて、軽やかな身のこなしで飛び降りた。
「待て!」
 窓を開けて思わず身を乗り出したフーリエスは、眼下の風景にここが三階だということを思い出した。勢いのついた身体をぐっとこらえると、窓枠に足を乗せたまま辺りを見渡す。人影はもうどこにも見あたらなかった。
 鼓動が皮膚を突き破りそうなほど脈打っていた。再び窓を閉めて振り返った。壁に突き刺さった矢を引き抜く。その瞬間、矢は手の中で水のように形を失い、砂のようにこぼれ落ちていった。魔力でできた矢である証だ。
「魔術師か」
 廊下には自分以外に人の姿はない。しんとした空間に、ただ窓を震わす風の音だけがやけに大きく響いていた。