4章「交差と翻弄」-05

「ウェルバーニア!」
 雑踏の中で背後から自分の名前を呼ばれた気がしたが、口につけたグラスを離すことはしなかった。司令部の食堂はほぼ席が埋まっている。そんな中で広めの食卓を確保したウェルバーニアは、報告会のついでに酒でも嗜もうとやってきたのだ。やや赤みがかった透明な液体で唇を濡らすと、舌で転がすように味わってから飲み下す。身体の内側が焼けるような熱さを帯びる。やや強めの酒だが、この感覚がたまらない。そろそろ声の主が現れる頃だろうか。
「ウェルバーニア」
 今度は頭上だった。ウェルバーニアが顔の向きを変えるまでもなく、その男は視界に侵入してきた。金属製の盆の上にいくつかの食器を乗せている。もうそんな時間かと窓の外に視線をやると、紅く染まった雲が、空の青をからめとるかのように薄く伸びている。先ほどまでの嵐が嘘のようだ。
「久しぶりだな、元気だったか?」
「そう見えるのなら、そうなんじゃないか」
「うわー、そういうところ相変わらずなんだな」
 男は盆を食卓に置くと、ウェルバーニアの正面に腰掛けた。並べられた食器から食欲を刺激する匂いが漂ってくる。食事はまだだった。早いところこの男の相手を切り上げて、魔術師棟で食事をとろう、などと秘かにもくろむ。
「ずいぶんと自由にやってるって聞いてるぞ」
 人なつっこい目を細めて、何がそんなにおもしろいのかにやにやと唇の端をつり上げながら話し出すこの男の名は、ランティールという。ウェルバーニアと同じく司令部に勤める人間だ。ただし、軍人としてではなく文官としてだ。年の頃はウェルバーニアと同じくらいだったか、気にしたことがないため詳しくはわからない。
 三十歳になる頃までは、そこそこ親しい同僚としてよく酒を酌み交わしていたものだが、神託の直後からほとんど会うこともなくなったし、会っても挨拶を二、三交わす程度だった。多忙だったのもあるが、極秘にしておかねばならない神託の内容を無意識のうちに漏らしてしまうことを恐れていた、というのが一番の理由だ。そう考えると、神託は自分の人生を随分と変えたものだ。ウェルバーニアは再びグラスを持ち上げ、喉を焼く液体を流し込む。
「まあな」
 ウェルバーニアは短く返事をした。グラスの中で半分ほど残っている赤い液体が食卓の振動にあわせて音もなく揺れる。
「羨ましい限りだな。俺なんて相変わらず振り回されっぷりさ」
「その方が気楽なときもあるだろう」
「そうだけどさ。あ、そういやお前も聞いてるかもしれないけど」
 ランティールは食事に手をつける気配もなく、身を乗り出した。湯気の勢いが衰えかけているが、そんなことはお構いなしといった様子だ。
「エンペルヘル野の戦い、終局も近いぞ」
「そうか」
「おいおい、反応が薄すぎるぜ」
 ランティールは呆れたように背もたれへ身体を預けて、天井を仰ぎ見る。
「……もともとこの戦い自体が、トロイラ側が仕掛けてきたものだろ。イアトスだか何だか知らないけど、神のための聖戦だとかいって。なのにここにきていきなり撤退の動きを見せているらしい。まるで戦意喪失したかのようだって」
 まるで内緒話をこっそり教える子供のような所作だ。言葉を受け取ったウェルバーニアの反応を伺うように、目に期待の色を浮かべている。夕食時に突入した食堂はますます賑わいを増していた。空席を求めて食卓の間をさまよう者もいる。
「ランティール、イアトスって何だと思う」
「は?」
 思ってもみなかった質問を突然投げかけられたランティールは目を丸くした。眉をひそめて首を傾げた後、思い出したように匙を取り上げて黄土色のスープを口へ運ぶ。
「イアトスは……トロイラの奴らが神として崇めている存在だろう。宗教みたいなもんじゃないのか。なぜそれが人殺しをしていい理由になるのか俺にはさっぱりわからんがな」
「つまりイアトスは実在する人物ではなく、信仰の対象として作り上げられた存在だと?」
「うーん。実在はしてたのかもしれないけど、とっくの昔に死んでるだろ。トロイラが建国されたのって何千年も前だっていうし」
「そうか」
 ウェルバーニアは残りの酒をぐいと飲み干した。ランティールは意図のはっきりしない質問に怪訝な表情を見せながらも、空腹を埋めるかのように食事をかき込んでいる。窓の外はすっかり闇に染まっている。至る所に明かりが灯されているとはいえ、闇の欠片が食堂に忍び込んで薄暗い。
「そういえばさ」ランティールの瞳がにわかに輝いた。「お前、結婚はしないのか?」
 いきなり文脈を断ち切られて、言葉の理解にいささか手間取った。正面の男はやけに顔をほころばせて、頬を染めている。最後に会ったときはお互い独身だったはずだ。ランティールの様子からして、おそらく最近結婚したばかりなのだろう。
「いやぁ、待っててくれる人がいるっていいもんだぞ」
 溶けてしまいそうな笑顔が明かりに照らされてくっきりと浮かび上がる。無防備を極めたような様子のランティールに思わず苦笑混じりのため息をつくと、ウェルバーニアはグラスを手に立ち上がった。
「女など枷でしかないな」
 そのままランティールに背を向けて、食堂の出口へ向かって歩み始める。
「けっ、つまんねー奴!」
 去り際に吐かれた暴言めいた言葉を背中で受け止めると、ウェルバーニアは振り返ることもなく食堂を後にした。

 司令部から魔術師棟へ向かう道は森の中をくぐるように敷かれている。普段から自分以外の者が通るのをめったに見かけない、月からも忘れ去られてしまったかのような明かりのないひっそりとした道だ。澄んだ空気に乗って漂う新緑の匂いと葉ずれの心地よい音が、余計な思考を吸い出してくれる。
 イアトスについてやや唐突に始めた問答を思い返した。ランティールの答えは、エレンシュラ国民ならば共通して有しているであろう認識そのものだ。すなわちそれは、司令部に籍を置いて戦局を握る立場である者でも、その程度の認識しか持っていないということ。そのことに安堵の念を抱くとともに、心臓を握りつぶされるような痛みと息苦しさを覚える。
 真実を知っているのは、自分だけなのだ。少なくともエレンシュラ軍の司令部の中ではそうだ。決して短くない年月をこのことに費やしてきた身として、秘密が秘密のままであることは誇らしくもあった。だが、それを上回る重圧が常にまとわりついているのも事実なのだ。
 神託で告げられただけであって、事実を確かめたわけでもない。だが、ともすれば誰かの妄言だと切り捨てることもできるそれと運命をともにすることを決めた日から、ウェルバーニアの中では確かに存在する事実となった。
 ――イアトスは、生きている。トロイラの有史以来、一人の女性を待ちこがれているのだ。
 汗を吸った制服が肌に張りつく。早く着替えて洗濯をしなければと、ウェルバーニアは歩みを早めた。