幕間 ミュゼ

 最後の角を曲がると、見慣れた町並みが現れた。思わず馬車から身を乗り出したミュゼのことを、隣に座っていた初老の男性がたしなめる。
「大人しくなんてしていられないわ。だって今回の旅もとっても楽しかったんですもの。早くお話をしたくてたまらないの」
「ミュゼは気が早いのう。家に着いたらまずは荷ほどきじゃ。それから倉庫の整理、馬の身繕い、お出かけはそれが終わってからじゃ」
「はぁい」
 不服そうに返事をしつつ、ミュゼは馬車の外を流れていく町並みに視線を戻す。左右にせわしなく走らせるそれは、まるで誰かを探しているようだ。
「あ、そうだおじいちゃん。ルネヴィアでご馳走になったライナンのパイ、帰ったら焼いてあげるね!」

 ミュゼは家に帰ると、言いつけどおり荷ほどきに取りかかった。半袖のゆったりした麻の服から、褐色の四肢が伸びる。小さな身体でくるくると動き回る様子を、杖を頼りにおぼつかない足取りで馬車を這い出た祖父は、眩しげに見つめていた。どこから見ても、幸せの見本のような光景。だがその視線に含まれているのは、孫を愛しく思う気持ちばかりではない。祖父は足を止めると、偉いでしょうと言わんばかりに満面の笑みを向けるミュゼに、力ない微笑みを返す。
 その瞳がたたえていたのは、どこまでも深い、絶望だった。

 商人の娘であるミュゼは、幼い頃から両親についてエレンシュラの各地や周辺国を旅してきた。生まれながらに好奇心旺盛だった子供は、新たな土地へ足を踏み入れるたびに、濁りのないつぶらな瞳をきらきらさせた。
 やがて学校に通う年頃になると、彼女は祖父の家に預けられた。ミュゼの両親が拠点を構えることなく、絶えず移動しながら商売をする形態をとっていたのに対し、同じく商人である祖父は拠点を中心とした商売を行っていたため、学校に通うには都合がよかったのだ。ミュゼの好奇心は学校で学ぶ知識だけでも十分に満たされたし、頻度は多くないが定期的に遠方へと足を伸ばして商売する祖父には必ずついていったから、生活に退屈することはなかった。
 そんなエルセが学校を卒業してからも両親の元へ戻ることなく、祖父の家に身を寄せ続けているのには、一つの理由があった。

「行ってきまぁーす!」
 ライナンのパイを焼き終えたミュゼは、着替える間も惜しかったのか、香ばしい匂いが染み着いた服のまま、突風のように家を飛び出していった。緑の絨毯に覆われた丘を駆け下る。柔らかな日差しに包まれた世界は、銀をまぶしたかのように輝いてみえた。耳の高さで切りそろえられた焦げ茶の髪が、ときおり頬を撫でるようにくすぐる。瞳に映るすべてのものが色鮮やかだ。さわやかな晴天だった。
 丘を下りきると、ミュゼは足を止めることなく大通りへ飛び込んだ。つむじかぜのような少女とすれ違った人々は、みな一様に振り返って声をかける。こんにちは、であったり、おやおや帰ってたのかい、であったり、言葉はさまざまだ。そのすべてに返していられないミュゼは、代わりにとびきりの笑顔を振りまいてみせる。はじける果実を思わせるみずみずしい表情は、辺り一帯に鮮やかな色彩をもたらした。
 やがてミュゼが立ち止まったのは、ある屋敷の前だった。豪奢な門に守られたその屋敷は、周りに立ち並ぶ家と比べて明らかにたたずまいを異にしていた。門のすぐ横には来訪を知らせるための紐が垂れ下がっている。しかしミュゼはそれに触れることなく、屋敷の裏へ回り込んだ。家人が出入りすると思われるこじんまりとした扉をためらいなく開けると、息を思い切り吸い込んだ。
「イアトスー!」
 ミュゼは自分にとって特別な存在である人の名を、屋敷全体を震わせるような声で呼んだ。まもなく奥から二、三人の足音が近づいてくる。一番手前に見える影が目当ての人間だと判別するや否や、ミュゼは一目散に駆け寄って胸めがけて思い切り飛び込んだ。少しうろたえながらもしっかりと抱き留めたその人物こそが、ミュゼがこの町にとどまる理由に他ならない、最愛の恋人なのだった。
「イアトスっ。ただいま!」
 胸にうずめた顔をぱっと離して、しっかりと視線を交わす。会えなかった時間も互いに変わりがなかったことを、その一瞬の間に確かめる。後ろからやってきたイアトスの父親と使用人の女性が、おかしそうに笑いながら顔を見合わせた。
「おかえり。ミュゼ」
 イアトスは抱き抱えた腕をそのまま上に持ち上げて、ミュゼの髪をゆっくりととかす。この柔らかな手のひらが大好きなのだ。全身に甘い痺れが走る。このまま溶けてしまえそうだった。
「無事に帰ってきてくれてよかった。中でゆっくり休むといい。ちょうど新鮮な果物を仕入れてきたところなんだ」
「果物!」
「さ、早く部屋に。すぐに準備するからね。たんと食べるといい」
「うん! わたしもたくさんお話したいことがあるの! ルネヴィアっていう町に行ってね……」
 ミュゼたちが歩き出すと、使用人の女性がぱたぱたと台所へ走り去っていった。左腕をイアトス、右腕をその父親に絡めて歩き出した少女は、二人を引きずるように勝手知ったる屋敷の中へと消えていった。

「ミュゼはもう着いている頃かの」
「そうじゃろうな」
 家に残されたミュゼの祖父は、片づけをひととおり終えると祖母のいる居室で腰を落ち着けた。カップになみなみと注がれた牛乳が、湯気をたてて待っていた。遠出は年老いた身体には負担が大きい。牛乳を喉に流し込むと、全身が活力を取り戻すのがわかる。
「あんな元気に振る舞って……かわいそうに」
 もともと元気な子供だったが、確かに最近は異常とも思えるほどに明るさを増していた。ミュゼを知るほとんどの者は、愛らしい笑顔以外の表情を知らない。人間である以上、負の感情だって当然あるはずなのだ。学校を卒業したとはいえ、にじみ出る幼さは大人から見れば小さな子供と大差ない。咀嚼しきれなかった感情を、消化できるとは思えなかった。
 だが本当のところ、ミュゼの秘めた心の内など推し量れるはずがないのだ。速度を緩めることなく命を蝕み続ける病、それがあの小さな身体に宿っていることを、ミュゼと祖父母以外に知る者はいない。両親も、恋人であるイアトスも、ミュゼの放つ溢れんばかりの気力こそが真実であると信じ切っている。死の居場所は今日かもしれないし、明日かもしれない。想像するだけで気が狂ってしまいそうな運命を背負った少女は、その片鱗すら覗かせることなく、むしろ惜しげもなく周囲の人間に自分自身を分け与えている。健気なのだ、と静観する時期はとうに過ぎていた。もしも無理をしているのだったら、ミュゼの病気に拍車をかけてしまう可能性だってある。だが、一番長い時間を過ごしている祖父ですらも、本心を見透かすことができなかった。
 祖父は一人の青年を思い浮かべた。ミュゼが毎日自慢げに語る恋人、イアトス。彼の話をしているときの笑顔だけは、紛れもなく心からのものであると確信できる。無限の未来が待ち受けているはずの若者に重い枷を課すことになるのだとわかっていても、今となってはミュゼを彼に託すほかに、望みを見いだす術がなかった。
「次の旅には、ミュゼは連れて行くのかの」
「いや、もう連れてはいけないじゃろう。万一何かあったら……」
 声が自然と細くなる。考えるだけでもおぞましいのに、言葉にすることなどできるはずがなかった。祖母も同じ気持ちを抱いたのか、先を促すことなくさっと瞼を伏せる。
「そうか。……かわいそうに」
 この町から離れたくないと思っているのはミュゼだけではない。祖父母にもまた、ミュゼをここにとどめおかねばならない、祈りにも似た理由があったのだ。

「婚礼の日取りを決めようか」
 ミュゼが旅から戻ってきて数日後、折り曲げた膝にミュゼの頭を寝かせて髪を撫でていたイアトスは何気ない口調で言った。心地よさにうとうとしていたミュゼははっと意識を取り戻すと、がばりと身体を起こした。
「婚礼!」
 口にするとひどく甘ったるいその言葉が、ミュゼの表情をとろりと溶かした。イアトスの首に両腕を回してしがみつく。ミュゼを包み込むような穏やかな瞳の中には、あふれだす感情を全身から放つ自分の姿があった。
「結婚したら……わたし、家族になるの?」
「そうだよ。まぁ、今も家族みたいなものだけどね」
 イアトスも彼の父親も、この家に住む者は誰もがミュゼを本当の家族のように扱っている。来訪者には固く門扉を閉ざす一方で、裏口から上がり込むミュゼのことは咎めるどころか、大地と戯れるかのような軽快な足音が響きわたるのを心待ちにしてすらいるのだ。ミュゼが運んでくる空気が、音が、匂いが、決まりきった日常によどむ屋敷に生命の息吹をもたらしてくれる。惜しむことなく自分のすべてを与える少女は、その小さな身体ではこぼれ落ちてしまうほどの寵を一身に受けながら、まっすぐな瞳で未来だけを見つめていた。
「幸せだよ、ミュゼ」
「わたしも。だけど、今が一番じゃないわよね?これからもっと幸せになるんだから!」
 優しく抱擁するイアトスに応えるように、ミュゼも回した腕に力をこめる。
「また、旅に出るんだろう? 次に帰ってきた後に……《白の眠りの日》に婚礼をあげよう」
「《白の眠りの日》……お祭りの日ね! きっと町の人みんながお祝いしてくれるわ。――ねぇ、帰ってきたら、またたくさんお話聞いてくれる?」
「うん。待ってるよ」
 窓から差し込む柔らかな日差しの中で、二人は口づけを交わした。何の力ももたない、ささやかな約束。だがミュゼにとっては、どこまでも不確かな未来の中を導いてくれる、たった一つの道しるべだった。

 目が覚めて最初にとらえたのは、雨粒が屋根をたたきつける音だった。明けきらぬ空はどんよりと暗く、涙を落とし続ける暗灰の雲は途切れることなく夜と朝の境目を埋めていた。
 妙に目が冴えてしまったミュゼは寝返りを打つと、薄暗い部屋で異様な存在感を放つ白が視界に飛び込んできた。婚礼衣装だ。ミュゼの褐色の肌と調和するように、とイアトスが選んでくれた、控えめな白だ。口元が思わずほころぶ。ほとばしる感情の行き場を探して、枕をぎゅうと抱きしめる。
 がたん、と何かが床に落ちるような物音が心臓をはねあげたのはそのときだった。動きをぴたりと止めると、静かに上体を起こす。初めは、祖父か祖母が倒れたのかと思ったが、すぐにそうではないとわかった。玄関の扉が開く。何かをひきずるような音と、人のものではない硬い足音。不穏な予感が胸をかすめる。
 ミュゼは寝間着のまま部屋を飛び出した。
「おじいちゃん!」
 予感がそのまま現実として現れたかのような光景がそこにはあって、ミュゼは思わず怒鳴るような声をあげた。家の横に停められた馬車とそこに積み込まれた荷物が、祖父の意図を如実に物語っていた。これは、旅に出るための支度だ。これまで何度も手伝っていたのだからわかる。雨に濡れるのにも泥でぬかるむ足元にも関心を払うことなく突き進むミュゼには、ただ瞠目して手を止める祖父しか見えていなかった。
「一人で行っちゃうの? どうして? わたしも連れて行ってよ! すぐに準備するから、待っててよ」
「ミュゼ」
 家に引き返そうとするミュゼを、ひどく穏やかな口調で呼び止めた。それだけで、祖父の意志が変えようもないほど固いことを思い知らされる。ぴたりと足を止めた。靴はすでに泥だらけだ。頬から滴るのは、降りしきる雨ばかりではなかった。
「これ以上は身体を悪くするばかりだ。婚礼も控えている。家で大人しくしていなさい」
 降り注ぐ雨が、ミュゼの体温を徐々に奪っていく。素直にはいと言えるほど、大人ではなかった。祖父の言い分も本当はどこかで理解している。自分が、ただ聞き分けのない子供にすぎないだけだ。だが、今だけはそれを許してほしかった。
「どうして? わたし、もうすぐ結婚するのよ! 結婚したらもう旅に出たいなんて言わないわ。ずっとイアトスのそばにいる。これが最後なの! 最後にするから……」
 突然襲いかかってきた頭痛に、言葉が途切れる。叫び声の残響が耳鳴りへと形を変えて、凶器のように鋭い痛みを与え続ける。ミュゼはこめかみを押さえた。
 決してその場しのぎの言い訳などではない。結婚が決まったときからミュゼが心に宿していた、まじりけのない真実の意志だった。次の旅から帰ってきたら、イアトスと婚礼をあげる。そしてそれを最後に、自分一人のものだった人生をイアトスに捧げながら生きていく、そう決意していた。
 ――指先の感覚がなくなってきたのは、雨のせいだろうか。
 だから、最後の思い出を作りたかったのだ。祖父母に守られ、慈しまれるばかりの幼子から、一人の女性として大切なものを守る側へと変化を遂げるために。
 ――脚に、力が入らない。
 旅に出たからといって、何が変わるわけでもない。自分は自分のままだ。だが、ミュゼにとっては必要な儀式だった。新たな幕を開けるにはこれまでの幕を下ろさなければならない、ただそれだけのことなのだ。
 ――どうして、そんな目をするの。
「お願いだから……」
 悲哀に満ちた表情をつくる祖父へ向けて絞り出した懇願が最後、ミュゼの身体は雨に溶けるように崩れ落ちた。生を食らう病を宣告された少女は、内に秘めたさまざまの思いを抱えたまま、それを外に向ける機会を永遠に失った。