5章「祈りの向かうその先へ」-01

 人目を盗んで行動するのは神経をすり減らすだけでなく、肉体にも言いようのない疲れを蓄積させるのだと、彼は改めて思い知った。いくら闇に紛れているとはいえ、風もない夜の中を動くものは、彼以外にはただのひとつもない。普段であれば意識すらしない足音が、今は自分の居場所をわざわざ告げているようでひどく憎々しい。密集する草木の影を人間と取り違えるたびに、喉元までせり上がってくる声を飲み込むのに精一杯だ。自分に課せられるであろう罰を予期すると、とたんに足がすくむ。だからといっていまさら引き返すわけにもいかなかった。この先へゆけばきっと光が待っているはずだと無理にでも信じていなければ、きっと立ち往生してしまうだろう。
 約束の場所へたどり着いた彼は、来た道を振り返った。人の姿はない。木々の間から遠くに見える魔術師棟は、闇の底に沈んで静かに夜と調和している。大丈夫だ、誰にも気づかれていない。そう自分に言い聞かせると、ようやく安堵のため息をつく。知らず知らずのうちに息を殺していたのか、身体中が新鮮な空気を求めている。辺りをうかがいながらひっそりと歩いてきたというのに、まるで走った直後であるかのように呼吸が安定しなかった。
 近くにあった幹に背中を預けると、光に誘われてつい視線が上を向いた。鈍い輝きをまとった月が、星空にぽっかりと穴を空けている。その淡い光に照らされてすべてがあばかれてしまうような気がした彼は、幹の反対側へ回り込んで身を隠した。
 ざっ、と草木をかき分ける音が、静寂の中で無遠慮に響いた。音のした方向を見やると、男の影がひとつ、たたずんでいた。彼は目を凝らすと、その男がここにいるべき人物であることを確かめる。いつの間にやってきたのだろうか。あるいは、ずっとそこにいて彼の様子を観察していたのかもしれない。だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。彼は歩み出て、男の目の前に姿をさらした。
「しくじったな」
 責めるでも呆れるでもない、淡々と事実だけを述べるような口調で男は言った。何のことを指しているのか、彼にはすぐにわかった。
「申し訳ありません」
 彼は頭を垂れる。額から流れ出る汗がぽとりと音をたてて地面に落ちた。これまで何度か密談を交わしている目の前の男が、なぜだか今日は見知らぬ他人のように思えた。
「ふむ。やはり自分の上司が相手ではやりにくいか」
「それは……」
 否定はできなかった。机上であれほど綿密に計画を立てたにも関わらず、いざ自分の上司の姿を目にすると、手元が狂ってしまった。何者にもなれなかった自分のことを信頼してくれて、居場所を作ってくれた人なのだ。反旗を翻すなどとんでもないことだと、冷静に考えれば簡単に結論を導き出せる。男から渡された矢が、一本きりだったのが幸いだった。矢の作り方など知らない彼は、狙いを外したと気づいた後は、とにかく顔を見られる前に立ち去ることで頭がいっぱいだった。あの高さから飛び降りるなど、正気ではとてもかなわない。
「まあよい。次はわたしがやろう」
 男の嘲るような口調に、彼は顔をあげた。不安と恐れを宿した彼の表情を一瞥すると、男は忍び笑いをもらした。
「案ずることはない。いずれ手に入る力の大きさに比べれば、払う犠牲などつまらないものだ」
 何も言い返せずに黙りこむ彼に、男は手持ちの計画を説明し始める。
「いいか、君はわたしの言うとおりにやってくれればそれでいい。何も難しいことではないし、危険もない。……」
 男の説明を聞きながらも、彼は激しく揺れていた。このまま身を任せて進み続けるべきなのか、すぐにでも引き返すべきなのか。どちらの道も闇が色濃く立ちこめていて、どれだけ目を凝らしても見通すことすらできなかった。

***

 恐ろしくなるほど、静かだった。部屋の中が、だけではない。あの嵐の日の激情が嘘だったかのように、エルセの心は凪いでいた。空っぽだと表現した方が適切かもしれない。あらゆる感情がすっぽりと抜け落ちてしまったかのような空白の中で、しかしたった一つだけ鮮明に浮かび上がる思いがあった。
 兄に、会いたい。
 取り巻く状況がどう変わろうとも、その思いだけは胸の底に重石のような存在感をもって、ずっと変わることなくエルセを支配し続けていた。帰る場所などない。ならば、前に進むことしか残されていなかった。食事や水が尽きたとしても、兄への渇望が尽きぬ限り、エルセは生を諦めるわけにはいかないのだ。これまでに起こったことや、今起こっていることは、きっと試練なのだ。その先にあるはずのものを思えば、どんな犠牲を払ってでも乗り越えなければならない。
 部屋は、絶えず見張られている。ときおり探るように呼びかけたり物音をたてたりすると、決まって扉の外からいぶかしげな声が聞こえてくる。何人かで交代しているらしく、声はいつも異なる。ただ、食事を運んでくるのは決まって、嵐の日に応酬を交わした男だった。
 ここにいてはいけない。根拠のない直感が、そう告げていた。エレンシュラ軍が見張りまで立ててエルセを軟禁する目的は想像すらできないが、少なくともあの軍服の男が言っているように、危害を加えるつもりはなさそうだ。寝所は不自然な桃色に染められているとはいえ居心地は悪くないし、食事も与えられている。けれども、このまま身をゆだね続けるつもりはなかった。この道の果てが兄の居場所へと行き着くとはどうしても思えないのだ。
 たどり着きたい未来があるから、自分から動いて手に入れるのだ。エレンシュラ軍やこの国に対して叛意を抱いているわけでは決してない。望むものがここにはない、ただそれだけのことだった。
 音を立てないように窓を開けると、エルセは下をのぞきこんだ。三階とはいえ、地面の遠さに身体がすくみあがる。下手に行動して怪我でも負ってしまえば本末転倒だ。だが、扉が封じられている以上、残された手は一つしかなかった。
 建物の周囲にまとわりつくように、木が等間隔に植えられていた。あの木を利用できないだろうか。木はちょうど二階の窓をのぞきこめるほどの高さだ。外壁を伝う梁が目に入る。足先ぐらいは引っかけられそうだ。
 ここから脱出した後にどうするかなど考えていなかった。だが、きっとうまくいく。兄が、エルセを自分のもとへと導いてくれる。
 エルセは靴を履いて荷物を背負った。窓枠に腕をぴたりとつけたまま、梁に足をかける。ひどく頼りなげな足場に自分の命運を預けると、一番近くに生える木へ向かって、一歩ずつ確かめるように足を擦る。重心を移動させるたびに、気が遠のくようなおそれが、容赦なくエルセの身体を包みあげる。下を向いてはいけない。気がついたら止めてしまっている呼吸をできる限り一定に整えながら、これ以上は進めなくなったところで動きを止めた。
 兄は死んでなんかいない。初めはその否定を、絶望が見せる幻影なのだと思った。兄の死を信じることができないながらも、受け止めねばならないものなのだと頭の片隅では理解していたのだ。現実から目を背けるための、ささやかな抵抗にすぎなかった。それが次第に疑念に変わり、確信へと変貌を遂げたのは、いったいいつだっただろうか。兄は、生きている。誰がどんな否定の言葉を投げつけたところで、エルセの芯をつらぬく真実をねじ曲げることなどできない。
 だから、会いに行くのだ。この足で。
 飛び乗る枝にあたりをつけると、ためらいがわき起こる前にすばやく手を離した。そのまま壁を蹴る。悪寒にも似た感覚が全身に走る。描いていた軌道よりもはるかに、身体は垂直に落ちていく。突風でも吹き付けて、身体が押し戻されたのかと思ったが、蹴る力が足りなかったのだとすぐに気づいた。このままでは届かない。落ちる速度はいよいよ増していく。エルセは歯を食いしばった。渾身の思いで腕を伸ばす。ちぎれんばかりに伸ばした腕の先が、細い枝の先をかすめた。逃すものか。枝をつかむ。苦しげな音をたててたわんだ枝が、落下の勢いを殺す。間一髪ぶらさがったエルセは、反動で身体を幹の方へ投げ出される。思わず目を閉じる。だがそれも一瞬だった。ぱきりと、緊張感のかけらもない軽い音が頭上で弾けた。再び落ちていく感覚。唐突に背中に走った鋭い痛みが、落下の終わりを告げた。
 胸のあたりがひどく窮屈で、息が詰まる。だが、生きている。どくんどくんと全身をめぐる血流が、これ以上なく愛おしかった。ややあって目を開けたエルセは、覆い重なって繁る枝葉の間から、金糸のような陽光が降り注いでいるのをきれいだ、と思った。
 だが、いつまでも生の余韻に浸っているわけにはいかない。誰かに見つかる前に立ち去らなければと上体を起こしたエルセは、しかしその意図が失敗に終わったことを悟る。背後から聞こえる複数の足音。逃げなければ、と本能に近い部分がささやいたが、身体が反応しなかった。次の瞬間には、エルセは頭上をおおう影によって日の光を完全に遮蔽された。何かを擦るような鋭い音。視界の隅で何かがきらめく。なんだか前にも同じようなことがあったなと、突きつけられた刃を前にしてやけに冷静だった。
「そんなに死にたければ、もっと確実な方法で息の根を止めてやろうか」
「……兄に会わせて」
 剣の持ち主に背を向けたまま、エルセは震える喉から声をしぼりだす。少しでも顔を動かせば、もろい皮膚など鋭い光を放つ刃に簡単に切り裂かれてしまうだろう。息を吸って吐くという一連の動作が、自分のものではないような心地を覚える。まるで呼吸の仕方をすっかり忘れてしまったかのようだった。
「ふん、軍も見くびられたものだな。奴は死んだ。使いの者がお前に伝えたはずだが」
 刃が喉元を離れる。それが鞘におさまったことを察知するやいなや、エルセはがばりと後ろを振り返った。
「嘘よ! 兄は死んでなんかいないわ、山の向こうで――トロイラであたしのことを待ってるはずだもの!」
 影は二つあった。軍服を着た男には、見覚えがある。ルアンシア山脈で出会ったときとまったく同じ、まるで忌まわしいものを見るような目つきでエルセを見下ろしている。もう一人は黒いローブに身を包んでいるが、ルアンシア山脈で出会った魔術師とは別の人物だった。妙に痩せこけていて、むしろ身体がローブに埋まっていると表現した方が適切かもしれない。
 トロイラ、と口にした瞬間、軍服の男の眉がぴくりとひきつるのを目ざとくとらえた。やはり何かを隠している、と確信する。その何かの正体は、エルセにとっては一つしかなかった。
 互いに探るような視線をぶつけていると、黒いローブの魔術師がエルセの方に歩み出てきた。魔術師は中腰になると、座り込んだままのエルセをなめ回すように視線を走らせる。触れられたわけでもないのに、全身に嫌悪感が伝っていく。鳥肌がたった。
「……疲労で錯乱状態にあるようですね。どこかで休ませた方がよいのでは」
「休息ならば十分与えたはずだ。この女に必要なのは、もっと別のものだろう」
 軍服の男はエルセの腕をつかんだ。
「やめて! 離して!」
 骨ばった指が腕に食い込んで、ちぎれるかと思うほどの痛みを覚える。精一杯暴れようとするエルセの努力はしかし、男にとっては抵抗の範疇にも入っていないらしい。身体がむりやり男に引きずられ、足がもつれる。
 どこへ連れて行かれるのだろう。何をされるのだろう。エルセの胸いっぱいに満ちているのは、不安でも恐れでもなく、激しい怒りだった。二度も剣を向けられたのだ。その上、まるで意志を持たぬ物体であるかのような扱い。もし危害を加えられるようなことがあったら、今度こそこの男を糾弾してやろう。引っ張られる上体に追いつこうと懸命に足を動かしながら、そんな決意を瞳に宿していた。

 いきなり身体を投げ出されたと思ったら、腰に鈍い痛みが走る。ざらざらとした床は、外気の陽気が嘘のようにひんやりとしている。ごみでも放り込むような粗雑な手つきで押し込まれたのは、石造りの小さな建物だった。
「危害を加えるつもりはないとは言ったが、限度があるということを覚えておけ」
 荒々しく扉が閉まる音が、腹の底まで響きわたる。暗転する視界。窓がないことに、初めて気がついた。
「嫌……! 出して! ねえ、出してよ!」
 暗闇は、一瞬にして人の気力を殺ぐ威力を含んでいる。さきほどまでたかぶっていた感情は、光とともにどこかへ消え失せてしまった。代わりにひどく情けない、弱々しい感情が意識の底から浮かび上がってくる。
「出して……。もう嫌……どうして……」
 扉を叩く音は、次第に小さくなっていく。やがてその行為が何の意味もなさないと悟ったエルセは、抵抗することすらも諦め、闇の中に崩れ落ちた。