5章「祈りの向かうその先へ」-02

 その男には見覚えがあった。だが、どこで見たのかを思い出す前に、異様に細い唇から紡がれる言葉によって思考を中断される。
「……長らく町の医師のもとで医術を学んでおりましたが、このたび軍医として入隊いたしました。ラデュトスと申します」
「統括のフーリエスだ。しかし……」言葉を切ると、男の隣に立つウェルバーニアに視線を移す。「ずいぶんと突然の話ですね」
「本当はもう少し早くに入隊する運びだったのですが、その……医師の方の都合がありまして」
 わずかに薄ら笑いを浮かべながら言いよどむ男の様子に、フーリエスは思わず眉をひそめる。魔力をもつ者の進路として医術への従事はごく一般的であるし、そこから別の職に転じるということも珍しいことではない。だが、何かが引っかかるのだ。妙に痩せこけた顔。唇は病的な紫色をしている。いったい、どこで見かけたのだったか――。
 考えあぐねていると、挨拶を済ませたラデュトスは、ウェルバーニアに連れられて会議室を出ていった。とたんに、疲労がどっと押し寄せてくる。知らず知らずのうちに神経を張りつめていたらしい。あの男には、そうさせるだけの威圧感があった。三日月の形をした瞳が放つ矢のような視線は、それだけで人を射止めることができそうだった。あれはまるで……。
 殺気、という言葉を頭に浮かべたとき、唐突にフーリエスの脳裏をある光景がよぎった。少女――エルセを追って出立する直前に見た、不審な男。ウェルバーニアの部屋だけがある最上階で、先導する二人の魔術師につき従うようにしていた、男。あのときも同じ視線を放っていた。今やすべてを思い出したフーリエスは、進路をさえぎるように置かれた机に苛立ちを覚えながら、二人の行方を追った。

「ウェルバーニア様」
 廊下の向こうに指揮官の後ろ姿を認めると、声をかけた。ラデュトスは一緒ではなかった。おそらく、部屋に送り届けた後なのだろう。
 振り向いたウェルバーニアの表情には、疲労とも異なる複雑な色がにじんでいた。
「あの男は」
「ああ。一階の部屋だ。医務室の隣に居室を用意した」
 この魔術師棟は司令部の近くにあることもあって、専門の医師をおいていない。多少、医術に心得のある魔術師が交代で当番をしている。戦地から遠く離れているため、そもそも戦いで傷つく者が運び込まれることなどないのだ。戦乱のただ中にあるエンペルヘル野や国境近くのルイネアで勤務する魔術師は、軍人に混ざって戦地へ赴くこともしばしばある。そういった場所では医術を専門に学んだ魔術師が、一般人の医師と一体になって怪我人の治療にあたっているという。
 静寂をたたえながら薄く広がる青を眺めながら、フーリエスはまさにその下で繰り広げられているであろう血なまぐさい争いのことに思いを馳せた。
「あの男、警戒した方がいいかもしれません」
 周囲に誰もいないことを確認しながらも、できるだけ声を押し殺す。ウェルバーニアはちらりとフーリエスを一瞥すると、おもむろに目を伏せた。会ったばかりの相手に下す評価ではない。瞼の中から再びまみえる瞳に不審の色がにじんでいることを覚悟していたが、予想に反してそこにあったのは普段と変わらぬ冷徹なまなざしだった。
「わたしに忠告するとはな」
「……申し訳ありません。ただ」
「お前に言われるまでもない。泳がせておくのも悪くないだろう。それより」
 ウェルバーニアは言葉を切ると、窓の下に視線をやる。
「あのじゃじゃ馬をなんとかせねばな」

 食料の貯蔵庫は食堂に隣接しているし、武器庫も棟内で鍵をかけられて眠っている。外にある石造りの倉庫は不要になった品を廃棄するために建てられたものだ。それも、今はほとんど使われなくなっている。中がどんな状態になっているのか、最後に見た様子を思い出しても、現状を類推するには無意味だろう。掃除すらしていないのではないか。
 この中にエルセがいるという。フーリエスは自分に刃向かい、泣き崩れた少女を思い浮かべる。つかまれた襟元の感触が、鮮明によみがえった。
「鍵はお前が持っていろ」
 ウェルバーニアは首にかけていた鎖を外した。輪になった鎖に鍵が通されている。
「食事は毎食届けろ。ただ暴れるようなことがあればその限りではない。窓もないし鍵さえかけてあれば問題ないはずだ。抜け道などないんだろうな?」
「はい。ただの倉庫ですので……しかし、その……そろそろ家に帰してやった方が良いのではないか、と」
 受け取った鍵を首にかける。やけにずっしりとしていた。ローブの中にしまい込むと、固くひんやりとした感触が胸元に息苦しさを与える。
 ウェルバーニアはそんな一連の動作に試すような視線を走らせていたが、ややあって呆れたように鼻で笑う。
「家に帰してどうする? トロイラがまたあいつを連れ出さない保証はどこにある? それとも、どうしてもルアンシア山脈を越えたいというならば、食料ぐらいは用意してやろう」
 おかしそうにゆがんだ唇から紡がれる皮肉は、しかしどこか力なかった。ウェルバーニアもそれを自覚してか、フーリエスの反応を待つことなく素早く背を向ける。
 また、逃げようとしている。フーリエスは悟ると、歩き出すウェルバーニアの前へ回り込んだ。普段であれば大人しく見送っていた背中の反対側を見るのは、初めてだった。ウェルバーニアもまた自分をさえぎる部下の魔術師のことを、忌々しげな目で見やる。
 フーリエスとて、慈善事業で魔術師をやっているわけではない。通常の任務は部下に割り振っているとはいえ、その傍らで密計に加担することは知らず知らずのうちに神経をむしばむ。それも、最近は机上での調査だけでなく、深夜に突然馬を走らせ遠く横たわるルアンシア山脈へ飛んでいったかと思えば、エルセの見張り番や食事番までさせられているのだ。刃向かうつもりはないし、ウェルバーニアの期待には応えるつもりだ。ただ、真実を隠されたままで動けるような範疇は、とうに超えていた。
 命を狙われたことは、まだ報告していなかった。下手に矛先が部下に向いても厄介だという理由だけではない。
 ウェルバーニアがひとり胸に抱えている真実を、引き出すための切り札だった。そしてその使い時は、今まさに到来したのだ。
「少し、お話をさせてください」
 有無をいわさぬ口調に、ウェルバーニアも何かを感じ取ったのだろうか。眠りにでも落ちていくかのようにゆっくりと瞼を下ろす姿は、すべてを諦め、あらがうことをやめた贖罪者そのものだった。

 会議室に結界を張ると、フーリエスはつとめてなんでもないように装いながら、嵐の日に起こったことを淡々と述べた。円卓の上に腕を置くと、ひやりと固い触感が火照った身体を中和した。円卓の反対側で椅子に背をもたせかけるウェルバーニアは、フーリエスからいっときも視線をそらすことなく、沈黙を守っている。
 話し終えても、場の空気は乱れることなく静寂を保っている。何かを見透かすようなウェルバーニアの目つきに、自分のもくろみがひどく幼稚なものに映っているのではないかと、気まずそうに視線をそらした。
「ふん、わざわざ丁重に結界を張ったかと思ったらそういうことか」
 やはり見透かされていた。だが、それでもフーリエスの気持ちに変わりはない。
「出過ぎたことなのは承知しています。ですが、何のために命まで狙われることになったのか、わからないままで溜飲を下げるなど無理な話です」
「お前には話したはずだがな」
「確かに、そうです。ですが、すべてではありません」
 その言葉は、ウェルバーニアの中に眠る何かを刺激したようだった。あからさまに表情が一変する。ぱたぱたと、扉の外を誰かが走り抜けていった。結界を張っているとはいえ、思わず身体がびくりと震える。自然と音の方向に顔が向いた。
 足音の残響が完全に沈黙へと溶け込んでしまうと、ウェルバーニアがようやく口を開いた。
「……トロイラなんて国は、存在しない」
「は?」
 固唾をのんで待ち受けていたところへ飛び込んできた言葉は、思考を止めてしまうだけの威力を持ち合わせていた。ようやくのろのろと動き出した思考が次に浮かべたのは、何かの比喩か、という考えだった。トロイラという国が文字通り存在しないなんてことは、ありえない。現に、エンペルヘル野一帯はトロイラとの戦渦のまっただ中にあり、幾多ものトロイラ兵と実際に剣を交えているのだ。死傷者も多く発生している。
「存在しない、とは、一体どういう……」
「言葉の通りだ。我々にはあたかも国が存在しているかのように見えているが、実際には存在しない。我々がトロイラだと称している土地はエレンシュラの国土であり、トロイラ兵は皆エレンシュラの国民だ」
 言葉が頭の中で飛び散って、うまく形をなしてくれない。どうしたってつながるはずのない文脈を当然のようにすらすらと紡ぎ出す唇を、信じられないといった目で見つめる。狂人でも相手にしている心地だった。あるいは、妙な宗教にでも傾倒している信者か。だが、目の前にいるのは紛れもなく、長年をともに過ごしてきた指揮官の姿をしていた。言葉がふわふわと思考を撹乱するのとは裏腹に、真剣味を帯びた瞳はしかとフーリエスをとらえたまま離さない。
 ともかく、先を聞こう。フーリエスは姿勢を正した。
「トロイラは、ある一人の男が意志の力で作り上げた幻想国だ。遙か昔、考えすら及ばないほど遠い昔だ、奴はエレンシュラの一部をその強大な魔力で囲い込み、トロイラと称した。独立などという政治的な試みとはほど遠い。お前がこの部屋に結界を張ったように、ルアンシア山脈の北方を巨大な結界で囲った、ただそれだけだ」
 途方もない話に、目の前がくらみそうになる。耳がとらえた音声はただそのまま滑りぬけていくだけで、具体的な想像を形作るにはあまりにもとりとめがなかった。
「そしてそこに暮らしていた者、あるいは生を受けた者は一様に、イアトスと呼ばれる得体の知れない人物を崇拝するよう定めた。洗脳でも呪いでもない、ただ奴がそう定めたのだ。トロイラが祀る神こそがイアトスだと我々は思いこんでいるが、実は違う。トロイラ、いやトロイラと呼ばれる土地に存在する人間は、イアトスのために生き、イアトスのために死ぬことを運命づけられている。エレンシュラとトロイラが繰り広げる争いも、つまりはそういうことだ。奴らはイアトスの名のもとにエレンシュラの土地を侵食しようとしている」
「ちょっと待ってください。その、トロイラを作ったという男は、一体何のためにそんなことを」
「前に話したはずだがな。――奴はイアトスのために一人の女を探している。正確には、生まれてくるのを待っていた。そのため自分自身とイアトスに不老不死の術をかけ、自分の手の及ぶ範囲を広げるために国境を拡大しようとしてきた」
 誰かの創り出した物語であればいいと願った。目の前の指揮官が、吟遊詩人の語る昔話をそのまま言い伝えているのであれば。だが、それが叶わぬ願いであるということも重々承知していた。ウェルバーニアとて当然その時代に居合わせていたわけではないが、嘘や作り話ではないと信じ込ませる何かがあった。それは信頼の一言で済ませてしまうには、あまりにも手に余るものだった。
「それでは、その女というのが……」
「ああ」
「エルセ、ですか」
 兄を戦で亡くした、あわれな少女。リオットの葬儀に訪ねてきたところを偶然見かけたのが、すべての発端だった。フーリエスにとってはものもわからぬ子供と変わらない年でしかない少女が背負う運命を思うと、背筋にぞくりと冷たいものが走り抜けていった。
「名などさして重要ではない。ともかくあの女はエレンシュラに災禍をもたらす存在だ。野放しになどできるわけない」
「その災禍というのは、つまり、トロイラの崩壊と我が国への余波である、と」
「よく覚えているじゃないか。感心するな」
「わからないことほど、鮮明に記憶しているものですから」
 遠慮がちに絞り出された声に、ウェルバーニアは固く閉ざした表情を解いて、皮肉げな笑みを浮かべた。遠く響くのは、誰かの話し声。窓の外で頭を垂れる枝葉が、通り過ぎる風にちらちらと淡い影を揺らした。傾きかけた光だけが満ちる音のない景色は、現実味というものがまるで欠けてしまったかのようで、ひたむきに平和だった。
「言ったとおり、トロイラはイアトスのために意志の力で作られた幻想国だ。意志の続く限り、国は存続する。逆にいえば――目的が達成されたとき、意志は失われる」
 だが、窓硝子を隔てた一歩内側で繰り広げられる会話は、平和とはほど遠かった。ある意味でこちらも現実味を欠いている。水底に沈められたかのような息苦しさを覚えながらも、フーリエスは続けられるであろう言葉を待つ。
「意志が失われたらどうなるか。意志によって築き上げられた巨大な魔力は、支えを失って流れ出す」
「支えを……」
 ようやくウェルバーニアが言わんとすることが予測できたフーリエスは、起こるべき未来を脳裏に浮かべて戦慄する。この場を今すぐ逃げ出したかった。魔術師棟につなぎとめられるほかにとりえない自分の運命を、今初めて呪う。そしてまた、これまでの話は戯れ言だという言葉が指揮官の唇から放たれはしないかと、窓から差し込む光よりも淡い期待を胸に抱いた。目を開けていられなかった。
 魔術師の身体から自然と放たれる魔力ですら、一般人にとっては大いなる脅威なのだ。だからこそ魔術師は一様に世間から隔絶され、きわめて制限された生活を強いられている。術を使うときに意図して放つ魔力は、術の種類によるもののそれよりもさらに強力なものだ。
 一国を名乗ることのできるほど巨大な魔力の塊が堰を切るように流れ出すなど、いったいその後に何が待ち受けているのか、空想すら追いつかない。それもそうだ。前例など存在しないのだから。ただ、数年を隔てて気まぐれに大地へ舞い降る天災などとは、とても一緒にできるものではないのだろう。
 石造りの暗い倉庫の中で眠る少女が、急に忌むべき存在へと姿を変えた。自分は彼女の食事番を任されている。いっそ食事など与えなければ、とあってはならない思いつきが脳裏をよぎったが、すぐにその考えを打ち消した。
「それで……彼女を、エルセをどうするつもりなのです」
 まさかこのままずっと留めおくつもりなのか。今やエルセの存在は、フーリエスにとっては得体の知れない化け物と同じだった。いたいけな少女の姿を装ったその化け物は、まさにエレンシュラを混沌と絶望のただ中へと導こうとしている。そんな存在を魔術師棟の敷地に置いておくなど、とても許容できるものではなかった。ましてフーリエスは、ここを逃れることすらできないのだ。
「ふん。どうするつもり、か。女の方をどうこうしたところで意味はない。たとえ殺したとしても、だ。代わりはいくらでも生まれるのだからな」
「代わり……?」
「女は道具でしかない。むしろ潰すべきなのは奴らの方だ」
 奴ら、が誰を指しているのか、迷う余地はなかった。
「トロイラを作り上げた男、そして奴が自分のすべてを賭けて守り抜こうとしているイアトス――わたしは奴ら二人の息の根を止めにいく」
 息をのむ音が耳の奥で不調和に響いて、目がくらみそうになる。身体を襲う硬直が解けない。ウェルバーニアはやけに荒々しい音をたてて席を立った。つかつかと出口まで歩み、扉に手をかける。
「ウェルバーニア様」
 やっとのことで絞り出した声は、自分でも情けなるくらいに弱々しかった。ウェルバーニアは扉を開けようとしていた手を止める。
「わたしの言葉が戯れ言だと思うのならば、それでも構わない。疑心を持つ者を巻き込むつもりはない。今日限りで任を解こう」
「……ウェルバーニア様」
 今度は、しっかりと噛みしめるように発音する。ゆっくりと席を立つと、ウェルバーニアの前にまで進み出た。こんなときでも普段と変わらぬ冷徹な瞳を瞼に宿す指揮官の様子に、名付けることのできない感情がこみ上げる。フーリエスの瞳にうっすらと浮かんだ涙に気づいて、ウェルバーニアのまなざしが激しく揺らいだ。
 どうあっても、目の前の指揮官についていくしかないのだ。決して諦めでもないし、義務感でもない。ただ、それが自分のさだめであるから。捨て去ることなどできないし、してはならなかった。
 フーリエスは恭しく一礼すると、自分をかき乱すあらゆるものを抑え込んだ。次に顔を上げたときには、涙の面影はどこにも残っていなかった。
「あなたに、ついてゆきます。――どうか、ご指示を」