5章「祈りの向かうその先へ」-03

 かくれんぼをしよう、といつだったか兄が唐突に言った。あれはいつのことだっただろうか。まだ日の高いうちだったから、休みの日だったのだろう。思いだそうとしたエルセはしかし、すぐに考えることをやめた。そんなことはどうでもよかった。エルセの中に住む兄は、兄でしかないのだから。エルセを見守る優しいまなざしが、絶えずそばにあったのだということだけで十分だった。それだけで、降りしきる雨の日にだってひだまりの中にいることができた。脳裏に映し出した記憶に浸ることで、今も隣を見やれば兄が微笑んでくれている、そんな気すらした。
 だが、現実のエルセは、とてつもなく冷え切った闇の底に横たわっていた。暗さに慣れてしまった目がとらえるのは、無愛想な石の壁に囲われた窓のない空間と、世界から忘れられてしまったかのように寂しげに眠る、がらくためいた大小さまざまの影であった。ざらざらと不安を煽るような床は、太陽という存在などはまるであずかりしらぬと言わんばかりに、わずかな温もりすら有していない。それなのに、エルセを包み込む空気は生暖かく、風に連れ去られることもなくどろどろと淀んでいた。汗の名残が肌にからみついて、不快感をあますところなくエルセにもたらす。髪も服もべたべたに貼りついていた。
 エルセは隠れるのが下手だった。いや、兄のほうが見つけるのが上手だったのだというべきか。どこに身を隠したとしても、エルセが十を数える頃には、自分の縮こまった姿は兄の視線の下にさらされていた。やすやすと見つけられてしまうたびに歯がゆい思いを噛みしめたが、同時に安心感を覚えもした。どこにいても、兄はエルセを見いだしてくれる。悔しがるエルセに手を差しのべて、帰るべき場所まで導いてくれる。
「どうしてお兄ちゃんはあたしの居場所がわかっちゃうの?」
 いつの日か、そんな風に訊ねたことがある。兄はなんと答えたのだったか。あるいは、困ったような笑みを優しく返すだけだったか。さらさらとエルセの髪を梳く兄の手つきは、いつだってエルセの心をくすぐった。もう一度、その手を感じたかった。ひだまりに触れられたかった。心地いい暖かさの中にずっととどまっていられるのならば、他に何も求めるつもりはなかった。
「あたしは、ここにいるわ、お兄ちゃん……」
 兄はいつだってエルセを見いだしてくれた。だから、大丈夫。きっと今回だって見つけだしてくれる。
 いつかやってくるその日を祈りながら、エルセの意識は落ちていった。

***

 じゃじゃ馬だとウェルバーニアが評した少女は、暗くよどんだ倉庫の中でうずくまっていた。扉を開ける音に反応することもなく、小さな身体はわずかな呼吸音をたてるばかりで微動だにしない。
 眠っているのだろう。フーリエスは運んできた食事を扉の外へ置くと、倉庫の中へ足を踏み入れた。長い間閉じこめられて醸成された空気は、湿り気にも似た淀みを含んでフーリエスを囲い込む。思わず顔をしかめた。
 少女の目の前でゆっくりと座り込んだ。床にはらりと落ちた銀髪を、手で払いのける。闇に浮き出る白い肌に、撫でるような視線を滑らせた。規則的な寝息をたてる唇は、触れれば弾けてしまいそうな瑞々しさをそなえている。どこからどう見ても、ただの少女だった。何も知らずに穏やかな表情をさらす少女に、痛々しさすら覚える。昨日、ウェルバーニアの話を聞きながら自分の中をよぎった恐ろしい思いつきに胸を痛めるには、十分だった。
 始末するべき存在は、別にあるのだ。むしろこの少女は守らねばならない存在だ。小さな身に背負う運命から、解放してやらねばならない。いつまでもこんなところにいては、気が狂ってしまうのも時間の問題だろう。
 フーリエスは食事を倉庫の中に置くと、そっと扉を閉めた。
「かわいそうに。だいぶ消耗している」
 不自然な抑揚のついた声に振り返ると、ラデュトスが立っていた。フードの下から鋭い光を放つ双眸がのぞいている。無意識のうちに、鍵を閉める手が急いた。かちりという音が妙に間延びして聞こえた。
「まだ、ほんの子供なのに……。心が痛まないのですか」
「感情に従って動くことが仕事ではないからな」
「僭越ながら、医術を心得ております。わたしが看ましょう」
「それは誰の指示だ?」
 にらみあう体勢のまま、二人は硬直した。高く昇った太陽があますところなく光を砕いて、あたりを覆う一面の緑にぎらぎらと輝きを与える。昼時だった。背中を汗が滴っていく。ラデュトスはしかし涼しげな表情で、薄い唇をわずかにゆがめた。
「では、その少女の世話は、誰の指示で?」
 フーリエスは目を細めた。やはり、この男はただものではない。予感を確信へと変えたそのとき、背後から複数の足音がした。
「ラデュトスさーん。食事の用意、できましたが」
 脳天気な声でラデュトスを呼んだのはユディスだ。ティオルトがその後ろについている。張りつめていた空気がふっと霧散する。ユディスは駆け足で向かってきたが、ただならぬ雰囲気を察知してか、急に足を止めた。
 ラデュトスはわざとらしい笑みを取り繕って、やってきた二人へ手で合図した。そのまま二人の方へ歩き出そうとしたラデュトスは、ふっとフーリエスへと視線を向ける。人間のものとは思えない、おぞましい視線だった。瞳の深淵に宿るのは、この世界に潜む影という影を吸収してしまったかのような、計り知れぬ濃さをもつ闇だった。ごうごうと渦巻く途方もない悪意が、フーリエスを刺し貫く。呼吸が止まる。身体の動かし方を忘れてしまったかのように、その場に立ち尽くすしかなかった。
 だがそれも一瞬だった。ラデュトスは元の表情へ戻ると、ユディスたちと合流した。曲がり角の向こうへ消えていくのを見届けてから、フーリエスは身を翻すと、彼らとは逆方向へと歩み去っていった。

***

 彼は、夢を見ていた。
 何の夢か語るにはそれはあまりにも論理を欠いて、雑然としていた。混沌の中でいくつもの断片が次々と生まれては、すぐに飲み込まれていく。白かと思えばまたたく間に彩りが満ちあふれ、黒に塗りたくられた次の瞬間には再び白へと回帰する。明滅するさまざまな色が、瞼の裏側を灼く。
 激しく入り乱れる夢想の中でたった一つ、はじめからそこにあって決して動かぬ光が、さきほどから彼をちらちらと照らしていた。
 彼は、手を伸ばした。
 すぐに届きそうなその光はしかし、指先をかすめることも、身に宿す温かさをわずかにでも彼に分け与えることすらなかった。決して越えることのかなわぬ見えない壁の向こう側で、ただそれが自分自身の義務だとでもいうかのように淡々と、やわらかな光の粒子をまきちらしていた。
 触れたい、と彼は願った。
 あの光に触れるために、彼はここにいるのだ。
 めくるめく色の明滅と過去のかけら、そして痛切な祈りの先に思い描く遠い未来の肖像がない交ぜになって、彼の身体を無尽にかけめぐる。痛みにも似た、鼓動。彼は手を伸ばすことをやめた。
 会いたい、と彼は望んだ。
 時を超えることが許されるのならば、きっと彼だってそうしただろう。
 あの光は、彼を呼んでいる。彼だけを、呼んでいる。か細い身体を懸命に震わせて、愛しい人の名を呼んでいる。絶望をかき立てるような悲痛な叫びは、彼の耳朶を永久に刺し貫き続けるだろう。
 会いに行く、と彼はささやいた。
 いつか必ず、迎えにいく。悲しみの海の底から拾い上げてみせる。だからそのときまで、どうかそのときまで、変わらずに光を放ち続けていられますように……。
 渦巻く希求の淵に立って、彼は、夢を見ていた。

***

 蒸し暑い夜だった。立ちこめる熱気は身体とローブの間に容赦なく忍び込み、ただでさえ重苦しい魔術師の装いに余計な不快感を与えた。長く伸ばした髪が、さらに拍車をかけている。冬であれば、暖をとるのにこれ以上なく至当であるのだが。手のひらで風を煽りながら、フーリエスは内心うんざりしながら自室へ戻った。せめて夏ぐらいは軽装でいさせてほしい。
 今し方、エルセに夕食を届けてきたところだった。倉庫の中で熟れた空気は昼間と変わることなく、エルセの表情はいよいようつろだった。幽閉されて五日目、かろうじて食事は三食与えられるものの、それ以外はあの濁った闇の中にいることが彼女のすべてなのだ。食事を運んでくるフーリエスに一度くらい牙をむいても不思議ではなかったが、その気力すらないようだ。あるいは、無駄だと悟ったのかもしれない。ともかく、あまり夜目がきかないのが幸いだった。あわれな少女の姿に胸を痛めたところで、フーリエスの意志でどうにかできるわけではないのだ。
 ウェルバーニアも何かを警戒してか、司令部に通う頻度は以前に比べて減った。少なくとも減ったように感じられる。以前がどうだったかなど、本当のところは正確に思い出せるわけではない。記憶は常に恣意的で、あてにするにはこころもとない。
 ただ、今日は昼間に司令部に出向いて以来、まだ戻ってきていない。指揮官が魔術師棟の外で何をしているのか、フーリエスは知らなかった。軍の中でもずいぶん自由気ままに行動しているかのようにみえるが、魔術師棟を一歩出ればフーリエスには未知の領域だ。そういうものなのだろうと納得するようにしている。いずれにしても、一魔術師が気にすることではない。
 ようやくローブを脱いで横たわる。汗が額を伝っていった。夜の静けさはほのかな月明かりとなって、窓の外からしんしんと降り注いでいる。全身に張りつめていた緊張の糸がふっとゆるんだ。
 この時間がいつまでも続けばいいと思いながら、フーリエスは瞼を下ろした。

 行動を起こす直前まで、彼は逡巡していた。不在であることを願ったが、そんな彼の期待など知りもしないというように、扉の隙間からは白い光が漏れ出ている。確かにこの中にいて、まだ起きている。握った拳を扉の前へ掲げては、思い直して身体の横へ押し戻す。そんな意味のない動きを繰り返したところで、前にも後ろにも進めるわけではないのはわかっている。問題は、彼がどちらへ進むべきなのか決めかねていることだ。
 だが、彼の迷いはものの数秒で断ち切られることとなった。ふいに視界が明るくなったかと思うと、目的の人物が姿を現した。気配を察知されてしまったか。
 自分の上司から痛いほど注がれる怪訝な視線に、彼はたじろいだ。
「何の用だ」
 もう引き返すことなどできなかった。前に進むことを余儀なくされた彼は、あらかじめ打ち合わせたとおりの言葉を口にする。
「あの、少女の様子が……。ウェルバーニア様がすぐに来いと」
「ウェルバーニア様が?」
 フーリエスは指先をそっと顎にあてる。何かを考え込んでいるようだ。自分の企てに気づいてくれはしないだろうか、と期待する気持ちがまだ胸の中を半分くらい満たしていた。いつもそうなのだ。妄想ならばどれだけでも繰り広げることができるのに、いざ事態を目の前にすると、呆れたくなるくらいに弱い自分がとってかわる。
「わかった。すぐに行こう」
 フーリエスの返事に、彼は絶望を覚えた。扉が閉まって、彼から光を奪う。何に対する絶望なのか、彼には判別することができなかった。これから自分に起こりうる何かに対してか、あっさりと信じ込んでしまった上司に対してか、あるいはその両方か。
 いずれにしても、最初の一押しを仕掛けてしまった。もはや彼の意志とは無関係に、時は滔々と流れ出す。

 罠だ、とフーリエスは直感していた。エルセの件でウェルバーニアがいまさら使いの者をよこすはずがない。よく見知った部下の唇からまことしやかに滑り出た嘘を反芻して、苦々しく顔をゆがめた。
 ウェルバーニアはおそらくまだ戻っていない。戻っていないからこそ今晩を狙ってきたのだろう。ローブを身につけながら推察する。黒幕が誰なのか、フーリエスの頭をよぎった可能性はもはや確信に近かった。問題は何のためにおびき寄せるのか、だ。こんな夜中に部下を使って、しかもウェルバーニアの不在を狙ってくるのだ。ろくなことにならないのは間違いない。
 銀髪を束ね、フードをすっぽりとかぶる。そのまま部屋を出ようとしたフーリエスはふと思い直して、寝床へと引き返した。枕元に置かれた櫃を開ける。いわゆる日用品を入れておく櫃とは別のものだ。開けるのはもしかしたらここに住み始めて以来か、と感慨を覚えながら、細長いものを取り出す。剣だった。鞘におさめられたそれはそこそこ使い込んであるようで、箔がところどころ削れている。刀身を引き抜くと、最後に見たときと何ら変わらぬ鋭い光をたたえていた。
 剣をローブの下に隠すようにさげると、強烈な思惑と悪意が蔓延する闇の中へ躍り出た。