5章「祈りの向かうその先へ」-04

「すぐにここが分かったとは、さすがというべきか」
 月明かりの下、エルセの眠る倉庫の前には、予想したとおりの人物が立っていた。フードを背中にたれ下げ、首から上をほのかな光の中にさらすラデュトスは、そもそも欺くつもりもないようだった。罠だとわかっていても必ずここにやってくる、そう確信していたのだろう。その陰に小さく隠れているのは、先ほどフーリエスを呼びにきた部下、ティオルトだ。ラデュトスの身体から半分だけ顔をのぞかせている状態だが、ひどく怯えた表情はすぐに見て取れた。自分の視線をラデュトスを盾にして遮るような格好に、フーリエスはなぜだか虚無感に襲われた。
 フーリエスは足を止めた。ラデュトスの瞳が三日月型に細められる。対峙する二人の影が、地面に黒々しくへばりつく。
「またずいぶんと物騒なものをぶらさげているんだな」
「あいにく、こんな深夜に得体の知れない者のもとへ丸腰でのこのこと出て行く浅はかさは持ち合わせていないのでね」
 二人は互いににらみ合ったまま、言葉の応酬のみを交わす。ティオルトはそんな二人のことを口をつぐんで見守りながらも、何かをうかがうように視線を走らせている。
「ふん、いいだろう。その強気を保っていたいならば、選択を誤らないことだ。――少女を解放しろ」
 ラデュトスは静かに言った。だが、穏やかさとは異なる。少しでも刺激したら破裂してしまいそうな口調だった。
「わたしに素直に肯定する気があると思っているならば、そもそもここへ呼び寄せたりなどしないだろうな」
 静寂の中に、突如ラデュトスのけたたましい笑い声が響く。それを契機に、後ろに控えていたティオルトがいきなり飛び出した。フーリエスを中心とした円を描くように走り抜ける。掲げられた手の動きが何を意味するか、フーリエスは瞬時に悟った。結界だ。ティオルトの軌道に沿って結界が張られていく。
 ラデュトスに視線を戻す。先ほどまでの直立姿勢を崩し、腰を引くような体勢をとっていた。胸の前に差し出した右手が光り出す。光は次第に輝きを増していく。音もなく光が弾けるのと、フーリエスがさっと身をかわしたのは同時だった。何が起こったのか理解したのは、その後だ。光の軌道を追って後ろを見やると、地面に突き刺さった輝く剣が砂のように崩れ落ちていくところだった。魔力の剣。以前、自分を襲った魔力の矢のことを思い出す。
「どうする? 発言を撤回するなら今しかないぞ。わたしは悠長に待っていられるほど辛抱強くないものでね」
 ラデュトスの手に、再び光が集束する。いつの間にかティオルトはすっかり姿を消していた。いやに緻密に張られた結界だけが、代わりに残されている。逃げ場はない。張った者以外が結界を解除するには、高度な技術が必要とされるのだ。
 だが、もとより逃げるつもりなどなかった。それに、結界が張られているということは外部からの侵入も不可能であることを意味する。相手は、一人だ。フーリエスはもう一度放たれた魔力の剣をかわすと、体勢を整えた。腰にさげている剣の柄に手をかける。そうしている間にも集束し始める光から目を離さずに、ラデュトスを中心とした弧を描きながらじりじりと距離を詰めていく。
 光が放たれた。とっさに鞘から剣を引き抜き、目の前に掲げる。耳をつんざき、瞼の裏に響きわたるような歪んだ高音が、結界を満たした。ばらばらと砕けるように散った魔力の欠片はしかし、勢いあまってフーリエスの頬に直撃する。中から弾けだした魔力の波に膝が砕けて、その場に倒れ込んだ。焼けるような痛みに思わず顔をゆがめる。ラデュトスの忍び笑いが結界に反響する。
「もう少し骨がある奴だと思ったのだがな。わざわざお前の部下を手玉に取る必要もなかったか」
「……一体ティオルトに何を吹き込んだ」
 腹の底からひねりだしたような地響きにも似た声には、静かな、そして激しい怒りがにじんでいた。
「新鋭がそろっていると聞いていたが、ずいぶんあっさりと期待を裏切られたものだ。富と名誉をちらつかせただけで簡単に食いついてきたのだからな」
「貴様……」
 フーリエスの目の色がさっと変わった。素早く立ち上がると、そのままラデュトスめがけて突進する。一振り、剣を薙いだ。ひゅんと空気が真っ二つに切り裂かれるような音が、二人の間にさっと走った。後ろに飛び退いたラデュトスのローブを、鋭い切っ先がかすめる。間髪を置かずに、もう一振り。ラデュトスが両手を突き出す。しまった、と思ったときにはもう遅かった。手首から全身に伝わる衝撃。しびれる手のひらは、剣を落とすまいと支えるのに精一杯だった。ラデュトスの両手から瞬時に生み出された魔力の盾が、フーリエスの攻撃を遮ったのだ。
「甘いな」
 ラデュトスは勝ち誇ったような笑みを浮かべる。役目を終えた魔力の盾が、さあ、と闇に溶けていく。その一瞬の隙に、フーリエスは剣を左手に持ちかえた。斜めに切り上げると、皮膚を切り裂く確かな感触。ラデュトスはうめき声をあげて、右目を両手で押さえた。指がみるみると赤に染まる。前屈みになって身悶えするラデュトスめがけて、さらに追撃を重ねる。ラデュトスは難を逃れた左目だけを頼りにして、切っ先の描く一閃から身をかわすように少しずつ後退する。
 どん、という鈍い音とともに、二人の動きがとまった。ラデュトスを結界まで追いつめたのだ。結界に背中を押しつけられる格好になったラデュトスの首もとへ、きらめく刀身をぴたりとつけた。息を呑む音。
 このまま殺してしまってもいいだろうか、としばし逡巡する。素性のわからないこの男は、明らかに少女の秘密を握っている。ウェルバーニアの前に突き出した方がよいか。だが、そんな悠長なことを言っていては今度はこちらの命が危ぶまれる。
「勝負あったな。大人しく降伏するか、ここで喉をかき切られるか選べ」
「くっ……。何者だ、魔術師でありながら魔術を使わぬとは……」
 ラデュトスのひきつった顔に、フーリエスは自分の顔を寄せた。まなじりに刻まれた皺が、やたら濃い陰影をつくりだす。
「攻撃を仕掛けるならば、相手の素性はよく調査した方がいい。本職はむしろこちらなのでね」
 魔力さえ保有していなければな、と心の中でつぶやいて、口元に皮肉っぽい笑みを浮かべる。ラデュトスの喉にぴたりと刀身をあてたまま、脳裏によぎるのはある光景だった。泣きわめく少年。つかまれた襟元の感触が、鮮明によみがえる。魔力保有者として生きることになった、最初の日。遠い遠い昔の、記憶――。子供だった当時の自分が何を考えていたのかなど、もはや時の彼方へと消えてしまっていた。自己の運命を呪ったのかもしれないし、あるいは案外に冷静だったのかもしれない。いずれにしても、魔術師としての道を歩み始めてからも、それまでの自分がずっとそうしてきたように、剣の稽古だけは欠かさなかった。
 油断したつもりなどなかった。だが、つまらない思考にとらわれているうちに、相手に隙をみせていたらしい。ラデュトスがにやりと口角をゆがめる。その表情の変化を認識したのと、脇腹に強い衝撃を覚えたのは同時だった。なかば吹き飛ばされるようにして、フーリエスは背中から倒れ込んだ。剣の柄が手を離れる。その間にも、ラデュトスの手に光が集束し始めている。来る、と身構えたフーリエスが目にしたのは、しかし予想とは異なる光景だった。集束した光はすぐに放たれることなく、ラデュトスの中で長細い棒のような形をとった。先端が月明かりを浴びてゆらりときらめく。
 槍だった。魔力の槍は使い手であるラデュトスの身長よりも長く、夜の闇を煌々と貫いていた。
「命のある僅かな間に、せいぜい選択を誤ったことを後悔するんだな」
 ラデュトスは槍を右手に持つと、空いた左手を地面へ突き出した。とっさに身体を起こそうとしたフーリエスは、その動きがひどく重たくなったことに気がついた。まるで空気全体に張られた見えない蜘蛛の糸が、フーリエスの全身をからめとろうとしているかのようだ。必死に手足をばたつかせているつもりなのに、目がとらえる自分の動きは恐ろしいほど鈍い。
 ラデュトスは自身の魔術によって動きを封じられたフーリエスの姿をあざ笑うかのように、目を三日月型に細める。右手の槍を、地面と平行になるように持った。研ぎ澄まされた槍の先端が、まっすぐにフーリエスの方を向く。ラデュトスがさっと腕を前後に振った。その瞬間、先端だけが本体を離れて、フーリエスめがけて飛んでいく。フーリエスは魔力を振り絞って薄い盾を張った。迫り来る光の軌道が、盾もろとも砕け散った。
 まずい展開だ、とフーリエスは表情をゆがめる。やはり息の根を止めておくべきだったか。動きを封じられては、とるべき手段がない。ただでさえ、剣はもうこの手から離れてしまっているのだ。ラデュトスが放つ攻撃を、頼りない盾を張って受け止めるより他はなかった。
 槍の先端は、次から次へとまるで雹のように降り注ぐ。剣と異なり一つ一つの威力はさして強くはないが、浴びせるような攻撃が標的の反撃を封じる。攻撃が途切れるわずかな隙間をぬって、絶えず盾を張り直す。立ち上がることすらできないフーリエスには、それが精一杯だった。一度に使うことのできる魔力は決して無尽蔵ではないのだ。蓄えている魔力が尽きることはすなわち、生の終焉を意味していた。そして、それはもう間近に迫っていた。
 張ったつもりだった盾を、次に放たれた光がやすやすと貫いた。そのままフーリエスの肩へと達すると、鋭い痛みを与える。かばうように肩をすぼめるフーリエスに、間髪入れずに次の攻撃が襲いかかった。避けることすらままならないフーリエスは、躍り狂う光の刃にされるがまま、身体のあちこちに痛みを覚える。思わずうめき声を漏らした。頭上の月さえもが、冷たい光線で自分を貫こうとしているような気がした。
 地面に落とした視線の先に、ふっと黒い影があらわれた。見上げると、悪意と憎しみに満ちたラデュトスの瞳が真っ先に目に入った。いつのまにか、右手の槍は剣へと姿を変えていた。
「悔いは済んだか」
 身体の芯を凍えさせるような、冷ややかな口調だった。思わず歯を食いしばる。何かを答えてやる気など、さらさらなかった。ラデュトスとて、それを期待している風でもない。つかの間に交わされた二つの視線の傍らで、ゆっくりと剣が持ち上げられていく。
 亡骸となった自分の姿を目にして、ウェルバーニアは何を思うのだろうか。迫りくる死を目の前にして、フーリエスは妙に感傷的な思いに満たされた。悲しみも、怒りも、憎しみも、ウェルバーニアにはおよそ似つかわしくなかった。脳裏に浮かんだ分別つかぬ少年の姿は、すっかりと消えていた。代わりに現れたのは、どこまでも冷徹で、感情の欠片すらにじませることのない、威風に満ちた指揮官の姿だった。
 今度こそ、運命は分かたれる。ラデュトスが剣を大きく振りかぶった。

 道を誤ったのだと自覚したのはいつだったのだろうかと、闇の中を疾駆するティオルトは何度も自分に問いかけた。激しい呼吸と足音がまざりあって、夜の静寂をかき消す。
 現状に不満があったわけではなかった。もちろん上司であるフーリエスにも恨みなどあるはずがなかった。ただ幸福の姿をかたどって近づいてきた甘言に、いつのまにか心が引き寄せられてしまっていたのだ。それが今、一人の命を奪おうとしている。
 瞼の奥にこみあがってくる熱いものをぐっとこらえる。泣くことが許されるような立場ではない。普通の人間として生きていくことができない自分に、居場所を与えてくれたのは紛れもないフーリエスなのだ。部下に甘いとたびたび叱られていたのは知っていたが、それも自分たちを信用しようとしてくれた証だった。
 現に、少女の捕獲に失敗したときもフーリエスは自分を責めることすらしなかった。それどころか、きつく叱られた自分たちを慮って、ウェルバーニアに抗議までしに行ったという。あのとき少女を故意に捕り逃がしたのだと明かしたら、いったいどれほどの失望を与えただろう。そんな可能性など思い至りすらしなかったに違いない。責任をとる、とフーリエスは言った。こんな形で果たされることになろうとは、誰が予想できただろうか。
 責め立てるような逆風が、首筋を伝う汗をさらっていった。命乞いなどしたくなかったし、する資格もない。自分がしなければならないことは、引き金が結末を導き出してしまう前になんとしても止めることだった。唯一の救いに望みを賭けて、魔術師棟と司令部をつなぐ深い森の中を、彼はひたすら走った。
「ウェルバーニア様……ウェルバーニア様!」
 早く――早く自分を彼のもとへたどり着かせてくれ。姿を見いだす前から、ティオルトはたまらずその名を叫ぶ。責任をとるべきなのは自分なのだ。骨がきしむような足の痛みも、激しい呼吸に削りとられる喉も、どれも払うべき犠牲にとうてい足りはしない。フーリエスの命が尽きるとき、自分の生もまた終焉を迎えるのだ。
「ウェルバーニア様ぁ……!」
 すがりつくような、長く尾を引く叫びだった。呼応するかのように、星がきらりと瞬いた。自分がどのように両足を動かしているのか、もはや意識することができなかった。足がもつれる感覚すらなかった。何かにつまづいたわけでもないのに、気がついたら身体がつんのめっていた。
 立ち上がらなければと奮起する心を、ずきずきとした痛みが阻害する。膝に流れる血液が妙に熱を帯びている。だが、立ち止まっている時間はない。なんとしても、たどり着かなければならない。そして伝えるのだ。ティオルトは腕をついて上体を起こした。
 ざっ、と土を蹴る音。頭上にさっと覆いかぶさる影。何かを考え始める前に、ティオルトは自身の叫びが届いたことを直感した。
「こんなところで何をしている」
 これほどまでに魂を震わされるような詰問を、彼は未だかつて知らなかった。