5章「祈りの向かうその先へ」-05

 緑の陰に身を隠し、彼は息をひそめた。ゆらゆらと地面を這いずる影は、彼の心を映しだしたよう。
 探し求めていた白はぼんやりとした柔らかな輪郭でありながら、空をもつんざいていた。その中に眠っているであろう人間に思いを馳せると、彼の瞳は激しく揺らいだ。
 渡しは、しない。
 決意などという儚いものでは決してない。予言ですら、ない。その未来は、必ず導きだされるのだ。導きだされなければならない。でなければ、彼がいまここに存在する意味はたちどころに失われてしまう。
 応えなければ、ならない。たとえそれが作り物だったのだとしても。
 昼も夜もあいまいな、だたっぴろい白の闇が、心に空いた洞に流れ込んでくる。彼はあらがうこともせず、瞳の奥に炎を宿した。
 ――今はまだ、そのときではない。
 どこにいるのかもわからない、自分を呼び求めるか細い声に耳を傾けながら、息を殺してひたすら彼は漂い続ける。

***

 月光をも薄らげてしまうほどまばゆく光を放つ剣を頭上に、フーリエスはすべてを諦めたように瞼を下ろした。心の中は、おそろしいほど凪いでいた。死を確信すると、案外そんなものなのかもしれない。あるいは、実感が足りていないだけか。いずれにしても、もはやあらがう気持ちは不思議とわいてこなかった。空っぽになった心で、剣が自分の身体を刺し貫くのを待ち受けた。
 突如、きぃんと耳をつんざくような歪んだ音が降ってきて、フーリエスはうっすらと目を開けた。自分へとまっすぐ振り下ろされた切っ先は、目の前に立ちふさがる人物が手にした剣によって受け止められ、その拍子にラデュトスの手を離れた。吹き飛ばされた光の塊は音も立てずに地面に落ち、月明かりにとけ込むように砕け散った。
 軍服を纏ったその人物は肩越しに振り返ると、目を丸くして硬直しているフーリエスへにらみつけるような視線をよこした。
「部下を甘やかすのは結構だが、敵にまで情けをかけてやる必要がどこにある」
「ウェル……バーニア様……」
 ウェルバーニアは再び前を向くと、よろめくラデュトスの左手めがけて容赦なく剣を払った。ローブが裂け、鮮血が飛び散る。呪縛が解けたように身体が軽くなった。動きを封じる魔術が力を失ったのだ。身体を翻して立ち上がると、離れたところにもう一人、木陰に苦しそうに座り込む人物の姿が目に入った。ティオルトだ。彼がウェルバーニアを連れて戻ってきたのだと、瞬時に理解した。周囲を覆っていた結界もすっかりと姿を消していた。
「おのれ……」
 呪詛を吐き出しながら後退したラデュトスは、再び魔力を集束しようとする。ウェルバーニアは身をかがめながら左足を踏み出すと、今度は肩を貫いた。赤く染まった滴がぼたぼたとしたたり落ちる音が、不穏な響きをもって耳に飛び込む。苦しそうにうめきながら肩をおさえるラデュトスの様子などまるで気にかけることもなく、追い打ちをかけるように腹を一蹴りした。倒れ込んだ身体を踏みつける。脇腹のすぐ横に、だんと剣を突き立てた。フーリエスはわずかに残されていた魔力を使って全身の痛みを和らげながら、ウェルバーニアの鮮やかな身のこなしを他人事のように見守っていた。
「おまえにかける最初で最後の情けだ。最期に言い残すことがあれば聞いてやろう」
「ふん……。いいだろう、愚かなおまえたちに教えてやる。いまさらわたしを葬ったところで、時間切れだ。収束すべき運命に向かって、駒は放たれた」
「なんだと?」
 ウェルバーニアは、森のきわにたたずむ倉庫へと素早く顔を向けた。つられてフーリエスもそちらへ視線を投げかける。扉は固く閉ざされたまま、変わった様子はない。首にさげた鍵を手にとると、フーリエスは倉庫の方へ歩み出した。
 ラデュトスはその様子を横目で追いながら、不適な笑みを浮かべた。
「もはやおまえたちに止める術はない。中を見てそれを思い知るといい」
「ああ。――おまえの息の根を止めてからな」
 どす、と鈍い音。一つの命が事切れるところを、フーリエスはあえて見ないように顔をそむけた。鍵を回す手が震える。力が入らなかった。いったい、何に怯えているのだろう。自分の死を前にしてもさざめくことのなかった波風が、今は怒濤へと姿を変えてさまざまな感情をかき回す。
 もたついていると、ふと鍵が横から奪われた。いつの間にか隣へやってきたウェルバーニアが、素早い手つきで解錠する。がらりと扉が開くと、外気とは性質を異にする不快な熱気がどろりと流れ出てきた。倉庫には窓がなかったが、光にさらされずとも何が起きているのか察知することはたやすかった。
 闇を貫くばかりの空間。そこに、少女の姿はなかった。

***

「起きて」
 声をとらえたのは、確かに耳だっただろうか。それとも、夢の中で響いただけなのだろうか。地響きのようなくぐもった音が、床につけた背中を断続的に震わせている。どこまでが夢で、どこまでが現実か。覚醒しかけた意識は行き場を見失って、いまだ重い瞼を開かせはしない。
「起きるのよ、エルセ」
 どこかで聞いたような、声。記憶をたぐり寄せるよりも先に、エルセは何か暖かいものにくるまれているような、無条件の安寧に包まれる。脳裏に呼び起こされる光景。ああこれは、この声は――自分を導いてくれる、声だ。
 ようやく現実のありかを見いだしたエルセは、うっすらと目を開けた。なんだかいつもと様子が違うことに、すぐに気がつく。淀んだ空気の中を漂うように、光の粒がゆらゆらと揺れているのを、視界の端がとらえていた。
 エルセははっと身体を起こして振り返った。白い光をまとった白馬が、訴えかけるようなまなざしでエルセをじっと見つめていた。
「ヴィヴィ……?」
 だがよく見ると、エルセの知るヴィヴィの姿とは異なっていた。額から角が一本突き出て、あふれでる威厳を主張している。毛足も心なしか長いように思えた。たてがみをひらひらとなびかせながら、白馬は口を開いた。
「ここにいたくないならば、早く」
 不思議な獣の口から流れ出てきた声は、紛れもないカティーエのものだった。
「カティーエ、なの?」
「……本当はこの姿、使いたくなかったのだけれど。いいから早く」
 疑問を差し挟む余地もなかった。強い口調で促されたエルセは、おぼつかない足取りで白馬へと近寄る。何をすべきかは、当然分かっていた。いつだかそうしたときと同じように、そっと背中へまたがる。体内を震わせていた地響きが、すうと消えた。足元を見やると、エルセを乗せた白馬は宙に浮いていた。
 白馬は向きを反転すると、空気を叩きつけるように右足を蹴った。滑り出した身体はそのまま石の壁へと向かっていく。ぶつかる、ととっさに目を閉じて身構えたが、しかししばらく経っても予想したような悲劇は生じなかった。ややあって目を開けたエルセはむしろ、そこに広がる光景に息をのんだ。
 白馬は、空を駆けていた。眼下には、ただひたすら森が広がっている。さえぎるもののない空間を、月が柔らかく照らしていた。頭上を見やれば、光を砕いた星屑が道しるべのように遙か彼方まで続いている。不思議と恐怖はなかった。白馬につかまる腕に力をこめると、心地よく髪をさらっていく風の中で身を任せた。
 次に地面を踏みしめるとき、きっと兄はそばにいる。そんな予感が胸の奥で躍っていた。

 ――何度でも繰り返せばいいのだ。たぐり寄せられた運命が一つになる、その日まで。いくつの夜を重ねたって構わない。何度だって、何度だって繰り返そう。それだけが、祈りをつなぎとめる術なのだから。