6章「追想」-01

 朝から落ち着かない日だった。会議室に呼び出されたフーリエスのもとへ入れ替わり立ち替わり司令部の人間が現れて、矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。同じ受け答えを何度繰り返しただろうか、思い出して数えることも億劫だ。組織なのだから、少しは内部で情報を共有してもらいたいと募る不満をしかしおくびにも出さずに、淡々と必要なことだけを話した。隣室で同じように質問攻めにあっているであろうウェルバーニアも、同じように考えているはずだ。あるいは、これよりもさらにしつこい問答を繰り返しているのかもしれない。普通の人間は、魔術師と関わり合うのをつとめて避けるのだ。
 ようやく解放された頃には、昼食をとりにきた魔術師たちが食堂に集まり始めていた。フーリエスと目が合うと、普段と変わらぬ挨拶を投げかける。昨晩起こったことなどまるで知らない様子だ。フーリエスも普段と変わらない返答をする。食堂に吸い込まれた魔術師たちは、互いに言葉を交わすと、たちまちのうちにそれを談笑へと発展させていった。結界が張られている間は物音が外に漏れることはないため、心配はない。結界が解かれた後の物音を誰かが聞きつけてはいないかと案じていたフーリエスは、食堂の扉を隔てた向こう側から漂ってくる賑やかさに胸をなで下ろした。あの様子では、本当に何も知らないのだろう。ティオルトただ一人を除いては。
 フーリエスはふと思い直して、自室へと急いでいた足の向きを変えた。すれ違う部下と挨拶を交わしながら廊下を進んでいく。窓に映る木々の緑は、いつもと変わらぬ鮮やかさをまとっている。今日も暑そうだ。窮屈な軍服を身につけて司令部と魔術師棟を行き来することとなった軍人たちに対して、心の中でそっと労りの言葉をかけた。
 やがて一つの扉の前で立ち止まると、フーリエスは遠慮がちに叩いた。耳を近づけるが、反応はない。もう一度、今度はこころもち強めに叩く。やはり、反応はなかった。しばらく逡巡した後、フーリエスは再び扉を叩くと、反応の有無を確かめることなく扉を開けた。

 布団の中に頭まで潜り込んでいても、誰かが扉を叩く音ははっきりと聞こえた。向こう側に誰がいるのかもわかっていた。だからこそ、凍り付いてしまったかのように声を出すことも、布団を払いのけるために腕を動かすこともできなかったのだ。
 だが、来客側は諦めてはくれなかった。扉が開いて部屋に入ってくる気配を感じてようやく、重くのしかかるけだるさを振り払って首をひねった。
「ずっとここにいたのか」
 こくり、と弱々しくうなずく。この男は自分に何を告げにきたのだろうか、と想像するだけで、今すぐこの場から消えてしまいたかった。
「食事は」
「……いえ」
「まぁ、今は人が多いからよした方がいいかもしれないが。もう少ししたら何か口に入れておくことだ」
 ティオルトは目を見開いた。フーリエスはつかつかと歩み寄ってきて、枕元に座り込んだ。二人の視線が同じ高さになる。
「……結局、ラデュトスの反逆ということで片がつきそうだ。わたしたちに罪はない」
 ややためらいがちな口調で、フーリエスはぽつりぽつりと声をつないだ。
 頭の中で生まれたどんな言葉も、形になる前に消えていく。開きかけた口からは、息ばかりが漏れていった。何かを伝える資格も、考える資格すら、きっと自分にはないのだ。意識の底から目覚めたばかりの消えてしまいたいという希求が、身体中を暴れまわる。
 そんな心の内を見透かしてか、フーリエスは頼もしげな微笑を浮かべてみせた。
「安心しろ、お前の名は一度も口にしていない。ウェルバーニア様とて同じだ。だから、そんな顔をするな。昨晩のことなど何も知らないのだからな、お前は」
「……ですが」
「ですが?」
「あなたに……矢を放ちました」
 どろどろと渦巻く感情を、声とともに吐き出すことができたらどれだけ楽だったろう。言葉は刃物のような鋭さを帯びて、喉を切り裂き傷つけていく。視界に入るすべてのものが自分を責め立てている気さえして、ティオルトは瞼を閉ざした。
「だが、お前の意志ではないのだろう」
「それは……」
「少なくとも今、お前はこうやってわたしと言葉を交わしている。であれば、何が問題だというのか?」
「……どうして」
 わからなかった。犯した過ちの重みと明らかに釣り合っていない容赦が、当然のように目の前に存在している理由が。そしてそれを前にして、ただ気圧されるばかりの自分がひどく情けなかった。
 フーリエスは力強いまなざしでこくりとうなずくと、ゆっくりと立ち上がった。入ってきた扉に手をかけると、その手を動かす前に彼の方を振り返った。
「言っただろう、責任はわたしがとると」

「相変わらず、部下に甘いのだな」
 部屋を出るなり目に入ったのは、腕を組んで窓辺にもたれかかるウェルバーニアだった。
「責めたところで仕方がないでしょう。それに、彼の名を伏せるよう言ったのはあなただ」
「ふん。事態を無用に複雑にすることはないからな。軍には伏せておくこととしても、奴には何らかの罰が必要だ。――もっとも、決めるのはわたしではないがな」
 ウェルバーニアは腕組みを解くと、廊下を歩き出した。ついてこい、と無言の指示を受け取って、フーリエスは背中を追った。

 ウェルバーニアの自室にたどり着くと、フーリエスはどことなく苦々しい顔で結界を張った。自分が解かない限り、ウェルバーニアは部屋から出ることができないし、誰もこの部屋に入ることはできない。だからこそ意味をなすのだとはいえ、その重大さはフーリエスの瞳を曇らせた。魔術師が最初に教わる魔術が、この結界だ。大きさや強度に差はあれど、誰もが気軽に使えるものなのだ。
「お前はこれが使えるか」
 背後から唐突に投げかけられた質問は、そんなフーリエスの胸中など知るよしもない。振り返ったフーリエスが目にしたのは、ウェルバーニアの手に乗った硝子板だった。一見するとそれは、自分たち魔術師が日常的に使う硝子板と同じものだ。だが斜めに傾けて光を反射させると、何やら印のようなものを描いた線がぎらぎらと浮かび上がってくる。その印の意味するところに思い当たって、フーリエスは顔をしかめた。
「これは……トロイラの国印ですか」
「ああ。奴が持っていたものだ」
「見たところ、国印を除けば特別な仕掛けなどはないようですね。使えるとは思いますが……」
 いつの間に、と喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。訊ねたところでこの人は、またにやりと笑みを浮かべてはぐらかすのだろう。昨晩、魔術師棟に引き上げる前に、フーリエスは念のためにとラデュトスの遺体に隠匿の術をかけておいた。万が一にでも、部下の誰かが現場を目にすることのないようにだ。その効果は当然ウェルバーニアにも及ぶ。硝子板を回収する機会があるとすれば、戦闘が終わってからフーリエスが術をかけるまでの間か、早朝に術を解いて遺体を軍に引き渡すまでのわずかな時間のみだった。
 硝子板を見つめていた視線をウェルバーニアに移動させると、フーリエスは遠慮がちに目を合わせた。指揮官の瞳はわずかたりとも揺らぐことなく、常に同じ光を周囲に返し続ける。果たして、この人に叶えられぬことなどどれだけあろうか。そう思わせるだけの力強さをたたえていた。望みさえすれば、それこそ自分たちのような異端とは一切関わることをせずに、軍人として最高の地位まで上り詰めることができるはずだ。魔力をもたない以上、住む場所も交友関係も一切の制限を受けない。それなのに彼は魔術師の住む棟でともに暮らし、魔術師を指揮し、彼自身が異端と扱われることを許容している。もっとも、この歳でそれをはねつけられるような地位を有しているのも、また事実であるのだが。
「それはお前が持っていろ。国境付近の動向についてはランティールから随時連絡を入れてもらっている。じきにエンペルヘル野も通行できるようになるだろう」
「通行できるようになったら、トロイラへ向かうと?」
「わたしは前に、そう言わなかったか?」
 ウェルバーニアは窓の外に視線を移した。
「トロイラなどという忌まわしき幻想を作り上げた存在の息の根を、わたしは止めにいく。ただ、あのときとは事情が違う。女は再びかの存在のもとへと導かれた。それも、今度こそ我々の手が出せない方法でな」
 何を見たというのだろう。何を聞いたというのだろう。何も見ていないし、聞いているはずもなかった。魔術師でない彼は硝子板を使って空間を見通すことなどできないし、他に協力者がいることも考えがたい。にも関わらず、目の前で窓に映った自身の姿と対峙しているこの男は、確実に何かを知っている。その事実をまるで理解することができず、それでいてなぜだか腑に落ちている自分に、フーリエスは驚きを隠しきれなかった。
「女がイアトスのもとへたどり着くのは時間の問題だ。だが、奴らを匿う魔力の壁が実際にいつ崩れだすのかは定かではない。奴らの目的が達成されたときだといっても、肝心の目的については知らないからだ。それに、奴らの拠点の場所も把握していない。それでもあの女がずっとここに留まっているのならば、わたしはなんとしても奴らを見つけだし、愚かな野望をくい止めただろう。だが今となっては、どれだけ決意が強かろうと単なる賭けにすぎない。いずれにしても、エンペルヘル野を通ってトロイラへ入ることには変わりない」
「それでは……、いったいトロイラで何をしようというのです」
「わざわざ敵方の硝子板をはぎ取って、使えるかどうかお前に訊ねた意味を少しは考えてほしいものだがな。奴らの居場所を突き止め、この手で生を終わらせることを諦めたわけではない。ただし、時間制限つきだ。間に合わないと判断したそのときには、トロイラおよびエレンシュラ北方に居住する民を、南方へと避難させる」
 遮るものなく陽光をいざなう大きな窓のおかげで、部屋にはうだるような熱がたちこめている。その熱のせいで、思考の一部が抜け落ちてしまったのでは、と錯覚してしまうような物言いだった。秘密裏にトロイラの真実を探ったり、少女をひとり軟禁したりするのとはわけが違う。トロイラにいったいどれだけの人間が暮らしているのかは知らないが、少なくともルイネアとエンペルヘル野に点在する村の人口だけでかなりの数にのぼる。それだけの人間を独断で動かすなど、仮に可能だとしても許されることとはとうてい思えなかった。
 ウェルバーニアはさっと窓に背を向けると、再びフーリエスに向き直る。しっかりとフーリエスを見つめるまなざしは、狂人のそれとはほど遠かった。そのことがかえって恐ろしいのだ。うなずくように顎を引いて歩き出そうとするウェルバーニアの軌道を、とっさに遮る。止めるなら、今しかない。止められるのは、自分しかいない。
「僭越ながらウェルバーニア様、そんなことをしてはご自身の立場が危うくなるだけかと」
「構わん」
 フーリエスの反対を予期していたかのような、確固とした態度だった。
「奴らの居場所を探ること。トロイラを作り出す魔力に生じるわずかな異変も見逃さないこと。お前へ与える最後の任務だ」
「ウェルバーニア様……」
 震える声で首を振るフーリエスの横をすり抜けて、ウェルバーニアは扉へと向かう。しぶしぶ結界を解き始めたフーリエスは、それでも残る未練を断ち切れなかった。軍から与えられた正式な任務でも何でもない、神託などというひどく不確かで現実味を欠いた脚本を忠実に守って、そのために未来を捨てようとしている。ここまでやってきたウェルバーニアだからこそ、選択できる道は無数にあるはずなのだ。だが、それが彼の意志なのだとしたら、反対したところで何の意味もなさない。ならばせめて、理由が知りたかった。
 結界を解き終えると、フーリエスは訊ねた。
「なぜ……なぜそこまでしてこの件にこだわるのですか。なぜ信じたのですか。何の確証もない、こんな……」
 口にしたことを悔いたくなるほど、弱々しく情けない声色だった。答えなど返ってきはしないのに、と直感して思わずうなだれる。しかし、いつまで経っても部屋を出ていく気配は訪れない。希望の灯を取り戻したフーリエスは顔を上げた。ウェルバーニアは扉に手をかけたまま、じっと佇んでいた。
「確かに、信じる方がばかげているような話だろうな」
 ウェルバーニアは自嘲するように言った。
「エレンシュラを救いたいだとか、大それた使命感を抱いたわけではない。まして女のためなどでは決してない。ただ――自分の意志でどうにかなることなんて、ほとんどないんだ」
 何かに呼び覚まされたかのように、フーリエスの眉がぴくりと動く。
「――だからこそ、運命だろうと必然だろうと、この身に引き受けたものは精一杯にまっとうしなければならない。そうだろう、フーリエス?」
 フーリエスの唇はそれ以上、何も紡ぎだすことはできなかった。振り返ったウェルバーニアのまなじりが浮かべていたのは、これまでに見たことがないような、もの悲しくそして柔らかな微笑だった。