6章「追想」-02

「疲れてるでしょう? 寝ててもいいわ。大丈夫、振り落としはしないから」
 頭の中に直接入り込んでくるようなカティーエの声に、エルセは身体の内側からにじみ出てくるような、熱を帯びた気だるさを自覚した。星空のすぐ下を、時の流れにさえ逆らえるのではないかと錯覚するほどの速度で、白馬は疾駆する。身体にこびりついた汗と垢さえも、四方を吹き抜けていく風が洗い流してくれそうだ。にも関わらず、エルセが感じる揺れはひたすら心地よいばかりで、疲れなどなくとも容易に眠りの中へと引き込まれてしまいそうだった。
「安心して、もう邪魔が入ることはない」
 カティーエはたたみかける。今度こそ信じてもいいのだ、と根拠のない直感がエルセの眠気を加速した。いや、その直感こそが今のエルセに信じられるすべてだった。
 星屑の織りなす道しるべにたぐり寄せられるように、白馬はその指し示す先へと風を切る。森を抜け、いくつもの集落を越え、川を渡り、一度はエルセを追い返したルアンシア山脈すらも眼下に据えて、果てなき空の旅路をゆくのだ。ひとり別の世界に迷い込んでしまったかのように音はなく、星影のまたたきさえも涼やかな音色に変わって、エルセの心を躍らせる。
 空想にたゆたうエルセの意識が夢の中に溶け込んでしまうまで、そう時間はかからなかった。

 頬が、ひどくくすぐったい。夢の中でエルセの頬を撫でていたのは、兄だった。現実との境目が近づくにつれて、兄の姿はいつの間にか消えていた。ようやく夢心地を抜け出したエルセは、兄の手のひらだと思っていたものが実は自分自身の髪であることに気がついた。
 辺りはどんよりとしていた。重く垂れ込めた雲はところどころ灰色がかっている。太陽の姿は見えない。眼下に広がるのは、砂と岩の大地だった。ここはトロイラだ、と直感が告げる。何かに呼ばれるような感覚がするのは、きっと気のせいなどではない。早く帰らなくては、兄が待っているのだから。兄が――イアトスが、待っているのだから。
 ぼんやりした意識の中で組み立てられた言葉に、エルセはふとひっかかりを覚えた。兄の名は、リオットだ。イアトスと名付いた人物となどこれまでの人生の中に存在していないのに、どうしていきなり現れては兄の名を奪ったのだろう。割れるような痛みが頭部を襲った。白馬をつかむ腕に力が入る。
「もうすぐ着く。耐えて」
「う……。お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
 エルセの唇から、うわごとのような危うげな響きが漏れでる。白馬はやや緩めかけていた速度を再び上げると、鈍光をまとう空気を払いのけるように駆けていった。

***

 白の塔の傍らでたたずんでいた男は、いつもと異なる予感が身体を打ち震わせるのを感じた。どんよりと切れ間なく空を覆い尽くす雲を見上げる。
 もう何年もの間、ひとときも欠かすことなくこうして白の塔を見守り続けてきた。見守り、慈しみ、そして縛られ続けてきたこの宿命は、彼がこの世に生まれ落ちる遙か遙か昔から、魂の流転とともに受け継がれてきたものだ。彼の死後もこの宿命はほかの誰かの身へと移ろい、悠久に重なり続ける時の一部として組み込まれるのだ。少なくとも、そう思っていた。――ついさっきまでは。
 垂れ込める雲の遙か向こうに突如現れた、黒い染みのような点が次第に近づいてくるのをぼうっと見つめながら彼は、永久に繰り返し続ける物語に終焉が訪れたことを予見した。

***

 空の白すらもくり抜いてしまうのではないかと思えるほどに、その白は強く気高く、それでいて今すぐ崩れ落ちそうな儚さを兼ね備えていた。円錐状になった塔の頂は、大気をおしのけるようにして辺り一帯に自身の存在感を訴えかけている。つんざくような鋭い先端に、空の悲鳴が聞こえてくるようだ。
 ふわりと地面に降り立った白馬は、その白い塔の前で足をぴたりと止めた。静寂をはらんだ澄んだ空気が、周囲にたちこめている。早朝だろうか。ひどく現実味のない風景に、時間の感覚を忘れる。白馬が脚を折ってしゃがみこむと、エルセはゆっくりと身体を降ろした。なんだか久しぶりに土を踏みしめた気がする。
 四方を木々に囲まれた、森の中の開けた場所にエルセは立っていた。目の前にそびえたつ塔に見とれていると、ふいに視界の隅に人型の影が現れた。カティーエが固くこわばった表情で、エルセの前へ歩みでる。白馬の姿はなかった。やはり、エルセを乗せてここまで導いてくれたあの白馬はカティーエだったのだ、とひとり合点する。いつの間にか元の姿へと戻ったカティーエは無言でエルセを促すと、塔の入り口へ向かっていった。もっとも、少女と獣、どちらが真の姿であるかなど、知るよしもないのだが。
 カティーエが手をかけると、扉は音もなく開いた。後について塔の扉をくぐる。薄暗い廊下の壁には、燭台が一定の間隔ごとに設えられていた。無数の炎に飾りたてられたこの空間も、やはり白だった。すべての色彩が薄闇に覆われているにも関わらず、壁も床も天井も、一切が白に塗りたくられていることだけはわかる。それほどの存在感を放つ色だった。
 やがて分岐に差し掛かった廊下を、カティーエは左へ曲がった。エルセはただ黙って彼女につき従う。蝋燭の炎が落とす黒い影は、二人がそばを通りかかると壁の表面をゆらゆらと躍った。突き当たりの向こうは部屋になっているようで、扉と壁の隙間から光が漏れている。二人は部屋へと足を踏み入れた。
 いきなりまばゆい光にさらされて、エルセは目がくらんだ。思わず下を向いて目頭を押さえる。
「お帰りなさいませ、ミュゼ様」
 落ち着いた男の声がいきなり降ってきて、エルセははっと顔を上げた。まるで二人を迎えるように立っていたのは、白い髭をたくわえた初老の男性だった。金の縁取りをした白い長衣をしなやかに纏っている。
「ミュゼ……?」
「浴室に案内してあげて。もう何日もお風呂に入っていないから」
「かしこまりました。ミュゼ様、どうぞこちらへ」
「ちょ、ちょっと待って。ミュゼって……? あたしは……」
 初老の男性はさも当然のように、聞いたことすらない名でエルセを呼ぶ。誰かと思い違いをしているのだろうか。エルセを案内しようとする男性を引き留めようと伸ばした腕はしかし、それ以上動かすことは叶わなかった。ぎょっとするほど冷たい手が、エルセの腕を掴んでいる。振り返ると、カティーエが険しい表情でエルセを睨んでいた。
「命が惜しければ余計なことは言わない方が賢明よ。あなたはミュゼ、そうでしょう。そうよね? ……分かったなら、早く行ってらっしゃい」
 突き放すようなカティーエの言葉に戸惑いを覚えながらも、有無を言わさぬ口調に気圧されてエルセは口をつぐむ。
 いったい、どういうことだというのか。そもそもここがどこなのかすら、エルセは知らない。改めて素性を問うたことはなかったが、何度も窮地を救ってくれたカティーエのことを、すっかり自分の味方であると信じきっていた。彼女に身をゆだね、導かれるままに歩を重ねていればきっと兄のもとへとたどり着く、誰に保証されたわけでもないのに、それは確固たる事実としてエルセの心に染み着いていたのだ。長衣を引きずりながらしずしずと前を歩く男性に大人しくつき従いながら、単なる思いこみにすぎないという可能性に思い至って身震いをする。カティーエはエルセの真の名を知っているのだ。にも関わらずこの得体の知れない男性の言いなりになっている。それが何を意味するか、考え始めたエルセはしかし、結論を導き出す前にエルセは思考を止めた。そんなことはどうでもいい。とにかく兄に会いたかった。兄に会えないのならば、こんなところに用はなかった。たとえこの場所の方が、エルセに用があったとしても、だ。
「こちらが浴室でございます、ミュゼ様。お召し物は奥の棚に用意がございます。どうぞ、ごゆっくり」
 そう言い残すと男性は慇懃に一礼をし、背を向けて去っていった。ひとりぽつんと取り残されたエルセの胸に、言いようのない虚しさが押し寄せる。瞳に映る風景のすべてが色あせて見えた。耳鳴りが頭の中に響く。
 とにかく、身体を洗おう。まとわりつく重苦しさを振り払うように、エルセは浴室へ立ち入った。乾いた汗をもう何日もはりつけたままにしているのは事実なのだ。こんな姿では、とても兄には会えない。
 目隠しの幕を引くと、エルセは身につけていた服をはらりと解いた。布はすっかり変色してしまっているし、あちこちに泥が付着している。ルイネアの町で、山越えのためにカティーエから手渡された服だ。ルアンシア山脈を越えようとして嵐に足止めを食らった日が、もうずいぶん昔のことのように思えた。何度も翻弄され、そのたびに反発し、ようやく今にたどり着いた。ここが運命の終着点なのか、あるいは単なる通過点にすぎないのかは定かではなかったが、いずれにしても求め続ける以外の選択肢はないのだ。思い描いた夢が現実となるその日まで、ただもがき、繰り返し続ける、それだけだった。
 浴室に立ちこめる湯気が、エルセのほっそりとした肢体を優しく包み込む。浴槽いっぱいに張られた湯に指先を触れると、痺れるような熱さが全身に染み渡った。
 汚れとともに、きれいさっぱりと洗い流すのだ。これまでのことは、とうに過ぎ去っていった日々の中へ閉じこめてしまえばいい。いつか叶えられるはずの未来よりも大切なことなど、あるはずもないのだから。
 身体の中身まですべて入れ換えてしまうかのように、エルセはひとつ大きな深呼吸をした。

「ミュゼ様、こちらへ」
 入浴を終えて先ほどの部屋に戻ったエルセは、さっそく呼び止められた。カティーエの忠告に従って、何も言わずに男性のもとへ歩み寄る。隣には神妙な顔つきをしたカティーエが立っている。
 用意された着替えは、まるでエルセの身体を知り尽くしているかのようにぴったりと合った。控えめな明るさの白地で、襟元に見たことのない花の刺繍がほどこされている。
「髪が乾いていないわ」
 カティーエはそう言うと素早くエルセの背後へ回り込んだ。さっと髪を持ち上げられる感覚。目を閉じてしばらくそのまま身を任せていると、うなじに髪がはらはらと落ちてきた。完全に乾ききっている。どんな技を使ったのかと目を丸くするも、当のカティーエは平然とした表情を崩さない。白馬に姿を変えて、空の中をここまで駆け抜けてきたのだ。いまさらこんなことで驚く方が変なのかもしれない。
 男性は静かに佇んで、ことが済むのをじっと待っている。カティーエは彼の方を一瞥すると、こそりと耳打ちした。
「いい? あなたはこれから、ずっと追い求めてきたものの終焉とまみえることになる。けれど、落胆することはないわ。終わりを迎えたあとは、自分の手で新たな物語を紡ぎ出すことができるのだから。……心の準備はいい?」
「心の準備って……」
 急に訊ねられたところで、カティーエの言葉を何ひとつ理解できなかった。追い求めてきたものとは、兄のことを指すのだろうか。やはり兄はこの塔のどこかにいるのだろうかと、胸が高鳴る。その反面で、カティーエの言葉からにじみ出る不穏な雰囲気が、エルセの心の中に暗い影を落とした。
 男性が長衣の襟を整えるようにより合わせた。首を左右に曲げ、それから胸を張り、奥にある扉の前に立つ。何かが始まる、と予感がエルセの心をぎゅっとつかんだ。あの扉の向こうにあるのは、希望か絶望か。いずれにしてもすぐに分かることだった。
 カティーエがエルセの背中を押した。男性のいる場所へと身体が勢いよくつんのめる。軽快な音が三度ほど聞こえて、エルセははっとした。男性の手が扉の前に掲げられている。
「ディルケス様」
 恭しい口調でまたも知らない名を呼びながら、男性は扉を開いた。エルセのいる場所からは彼に遮られてよく見えないが、どうやら向こう側はがらんとした広間になっているようだ。
「ミュゼ様をお連れしました」
 男性がエルセの腕をつかんだ。そのまま歩き出して、エルセは引きずられるように広間へと足を踏み入れる。中はやはり広間になっていたが、予想より遙かに広いその空間は、あっけにとられるほど何もなく、ただ白が満ちているばかりだった。中央に祭壇のような台が置かれており、側に男が立っている。エルセが視界にとらえることができたのはたったそれだけだった。一面に白い壁は、他の何にも遮られることなく清らかに塔を支えている。頭上から降り注ぐ光も、同じ白だ。あまりに一様に襲いかかってくる色なき色は、エルセの意識をふっと遠いところへ追いやってしまう。
 エルセを連れた男性は、その白を僅かたりとも乱すまいとするように、調和のとれた静謐の中を、祭壇へ向かって縫っていく。つき従うエルセも、おのずと呼吸が控えめになる。
「ディルケス様」
 祭壇の側に立つ、ディルケスと呼ばれた男もまた、白の長衣をまとっていた。腰まで伸びた白銀の髪は柔らかな光にさらされて、淡く儚い存在感をつくりだしている。祭壇の方へ虚ろな視線を向けるその姿は生者のそれとはほど遠く、ひどく作り物めいて見えた。