名を呼ばれたディルケスは、長衣の裾を揺らすことなく、首だけを二人の方へ向けた。ぞっとするほど暗い闇に満ちていた双眸は、エルセと目が合うやいなや、生を取り戻したかのように輝き始めた。半開きになった唇は、紡ぎ出す言葉を探しているかのようにただ吐息を漏らすだけだ。荒い呼吸音が、辺りに満ちる白を侵す。痩せこけた頬に深く刻まれた二本の皺が、彼の心労を忠実に表していた。
「あ……あぁ……ミュゼ……!」
目を見開いて、エルセだけをじっと凝視する。どうして誰も彼も、自分のことをミュゼと呼ぶのか。胸中にくすぶる疑問はしかし、言葉になって現れることはなかった。カティーエの忠告がなかったとしても、そんなことを訊ねられるような空気ではない。感極まった様子で悲哀を帯びた恍惚の表情を見せるディルケスは、どんな言葉をも寄せ付けない雰囲気をまとっていた。
「ミュゼ……待っていたよ。わたしはおまえを待っていたのだよ、ミュゼ……。おまえが再びこの世に生を受け、そして再びイアトスの前へと姿を現すのを……。ああ、これほどに喜ばしいことがあるだろうか? 隔てた時の長さは計り知れぬ、しかしこの奇跡を前にすればほんの些末なこと……。そうだろう? ああ、ミュゼ……ミュゼ……!」
どこか演技じみた大げさな口調が、エルセの寒気を催す。この男は狂っている、そう確信した。
それでもエルセは逃げることも抵抗することもなく、両手を広げてゆっくりとエルセに近づいてくる男を、ただじっと待ちかまえていた。
「さあ、ミュゼ……イアトスに会っておくれ。おまえを狂おしいほどに愛した我が息子を、おまえの手で目覚めさせておくれ……」
がちり、と腕を掴まれる。儚げな外見とは裏腹に、手にこめられた力は強かった。視線をエルセに向けてはいるが、焦点はまるで結ばれていない。彼が見ているのはエルセとは異なる、もっと別のものだ。そのことに気づいて初めて危険を察知したものの、すでにディルケスの手中にからめとかれてしまった今となっては、なすすべがなかった。掴まれた腕の先が痺れを覚え始める。ディルケスはいとも軽々しく、エルセの身体を引き寄せた。
エルセを抱きかかえたディルケスは、祭壇へと視線を向けた。つられてエルセもそちらの方を見やる。男に気をとられて今まで気づかなかったが、祭壇の上には硝子のような板でできた四角い箱が置いてあった。箱は透明だが、白い花が敷き詰められているようで中を見通すことはできない。あれは、百合の花だろうか。蓄積された知識の中を、ぼんやりと探る。箱はちょうど人がひとり横たわることができるくらいの大きさだということに、ふと気づく。エルセの心の中を冷たい風が吹き抜けていった。
お兄ちゃん。
突如、耳の奥で打ち響く声。自分が発したわけでもないその声音は確かに自分のもので、胸が締め付けられるような切なさを溶かしながら身体中を駆けめぐった。
――お兄ちゃん。あたしは、あたしはここにいる。
どうか見つけて、と伸ばした腕が宙をさまよう。腕が、足が、エルセの意志とは完全に切り離されて、独りでに白を切り開いていく。ディルケスの身体を離れたエルセは、ゆっくりとしかし確実に、まるで見えない糸にたぐり寄せられるかのように祭壇へといざなわれていった。
百合の純白の花弁に埋め尽くされた箱の中から、ふと異なる色が現れた。淡い、絹のようになめらかな肌色をした、それは人の足だった。核心へと近づいている、その予感が強まるにつれて、喉を通り抜けていく空気が重くなっていく。
お兄ちゃん、ねえ。そこにいるんでしょう?
――エルセ。
ふわりふわりと夢心地のように漂っていた思考の中に、甘く優しい声が落ちてきた。ずっと求め続けてきた、そして恋いこがれてきたその響きは、確かにエルセの名を呼んだ。聞き間違いか、あるいはエルセ自身が生み出した幻なのかもしれなかったが、全身に染み渡る心地よい痺れは決して気のせいなどではなかった。
「あたしは、ここにいるわ……」
いつも、いつだって兄に見つけられるばかりだった。どうして自分の居場所がわかってしまうのかと、そのたびに訊ねた。鮮やかな緑の絨毯の上で、日だまりにくるまりながら。だが、今のエルセはすべてを理解していた。探すのではない。どうしようもなく強く、惹かれるのだ。まるで意識だけが身体から引きはがされてしまうかのように、痛みすら覚えながら、たった一つの示された道を突き進むのだ。
きっと兄も、導かれていたのだ。今のエルセがそうであるように。心の奥底に眠り続けていた果てなき夢に導かれて、エルセはここまでたどり着いた。
また一歩、祭壇へと近づく。視界が次にとらえたのは、髪だった。きめ細かく流れるような髪は、降り注ぐ光を艶やかに受け止めている。
今度は、エルセの方から兄を見いだす番なのだ。
「ミュゼ……」
祈りを捧げるようなディルケスの呟きも、どこか遠い世界の出来事のように響いた。白の光に祝福されるこの世界に存在しているのは、エルセと、祭壇の上で眠る人物、ただそれだけでよかった。
ひどく長い時間をかけて、エルセは祭壇の前まで歩を進めた。硝子細工の箱の中に、愛おしげな視線を投げかける。
お兄ちゃん。
無数の百合が、中に眠る人物の顔を覆い尽くさんばかりに咲き誇っていた。固く閉ざされた瞼だけがかろうじて覗いている。長い睫毛が妙に目立っていた。
お兄ちゃん。
顔を覆う花の一つに手を伸ばすと、エルセはそっと端へと追いやった。片頬がむき出しになる。朱色の唇が、白の中で異彩を放っていた。
――お兄ちゃん。
花をもう一つ手にとって、同じように端へ除ける。高まる鼓動に、手が震えた。あふれる白い花の中から現れた顔は、兄リオットそのものだった。いや、正確にはリオットではない、よく似た別人だ。リオットの肌はもっと健康的に焼けているし、ところどころに傷がついている。こんな、生まれたばかりの赤子を思わせるような柔らかな肌とはほど遠い。だが安らかに眠るその人物は、まるで生き写しであるかのような造形で、エルセの中で潜んでいた感情を呼び覚ましかき乱した。
――イアトス!
――《白の眠りの日》に婚礼をあげよう。
脳裏に鳴り響くのは、自分ではない誰かの会話。遠い遠い過去の記憶がいま、鮮やかな色彩を連れてよみがえる。自分を包み込むような穏やかな瞳、髪をなでる柔らかな手のひら――記憶の中の人物が、兄と重なった。
「お兄ちゃん――見つけたよ」
頬にそっと手を添える。その瞬間、これまで頑なに閉ざされていた瞼が、ぴくりと動いた。
悠久の中で眠っていた時が、いま動き出す。
ひどくゆっくりと、ややもすればもったいぶっているかのようにも思える速さで、瞼が持ち上げられる。その奥から現れた焦点の合わない双眸は、どこか途方もない遠くを見ているようだった。瞳に宿った消え入りそうな光から、しばしエルセは視線をそらすことができなかった。
瞳が揺れて、エルセの方を向く。交差する視線にエルセは思わず優しく微笑みかけた。リオットに似た青年は、さっと表情を変える。焦点がぴたりと結ばれた目が、大きく見開いた。がばりと上体を起こした。身体を埋め尽くしていた花びらが、はらりはらりと床にこぼれ落ちた。
「ミュゼ……?」
「――ようやく会えたね、お兄ちゃん」
決して、交わることのない会話。かみ合うことのない言葉。互いは互いを通して、互いではない別の誰かの幻影を見ていた。それでも二人にとっては、胸が裂けるほどに焦がれた再会だった。
互いの想い人と同じ姿形をした二人は、二人だけの空間で、白く降り注ぐ光と散乱する百合の花から祝福を受けた。
「ああ、イアトス! 愛しい息子よ! おまえが眠りについてから、再び目覚めるのを待つこの間ほど辛く苦しい時間があっただろうか? ミュゼを失ったあの日から、おまえの傀儡として生きながらえてきたこのわたしの心労を……いや、よそう。今となってはもう済んだことだ。よく、よく再びこの世に生を受けてくれた。ミュゼ……! さあ、婚礼をあげるのだ。《白の眠りの日》には、この世界に存在するすべてがおまえたちを祝福するだろう!」
ディルケスは両手で髪をかきむしりながら、踊り狂う人形のようによろよろと定まらぬ軌道を足踏みする。エルセをここまで連れてきた男性は、傍らで目を閉じて静かに佇んでいた。ディルケスの靴底が床を叩きつける硬い音だけが、反響を繰り返しながら高くそびえる塔の先端へと抜けていく。
だがどんな音すらも、どんな景色すらも、二人のいる世界に届くことはない。まるでそこだけ時が止まってしまったかのように、何もかもが渦を巻きながら流れ去っていった。エルセとイアトス、交わることなどあるはずのない二人の生は時をも超えて、運命によって引き寄せられた。
始まりがあれば必ず終わりがあるように、終わりの後には新たな始まりが待ち受けている。そう、すべては再び始まってしまったのだ。停滞していた時は、動き出した。たとえ望んだとおりの結末を迎えなかったとしても、どれだけでも時を重ね、何度でも繰り返し続ける。変わらぬ意志がある限り、繰り返し続けるのだ。
運命によって紡ぎ出された物語はさまざまに交差する思いを包み込んだまま、滅びへと向かって確実に歩み始めていた。
***
――エルセ!
声にならない叫びが、彼の唇から漏れ出した。愛しい少女の名を含んだ息は劫火となって、灼けるような痛みを喉へともたらした。
始まってしまったのか、と彼は思う。根拠はない。だが確信していた。心なしか、空気も不安定に揺らいでいる。
出会ってしまった。かつて自分自身で己の運命をねじ変えた忌まわしい男は、ついにエルセを手元へとたぐりよせることに成功した。心の中で激しく燃え上がる炎が、彼の呼吸を荒げる。
始まってしまったのならば、こちらも始めなければならない。ゆらゆらと感傷の海に浸るのはもう終わりだ。
――だが。
傍らに置いた弓を取り上げて背負うと、彼は立ち上がった。頭上に広がる、目が痛くなるほどに鮮やかな青に視線を移す。たゆたう雲の白さが憎かった。
届かないものを追いかけることがこれほどまでに辛いのだと、彼は初めて思い知る。
――最後に一度だけ、祈らせてくれないか。
瞳を閉じる。長い間そうしているつもりはなかった。ただほんの僅かな時間でいいから、彼女のために心を整える猶予が欲しかったのだ。固く閉ざした瞼の裏で、くるくると表情を変える少女が色鮮やかに映し出された。
――必ず取り戻す。このまま渡しはしない、絶対に。
彼はゆっくりと瞼を持ち上げた。瞳の奥で明滅する鋭い光は、彼の心を描き出したかのように燃えている。
一歩踏み出せば、あとは止まるまで進み続けるだけだった。草木をかき分ける音はまるで凱歌のように勇ましく、彼の歩みを後押しした。
運命に縛られた物語の結末を変えるために、そして運命の渦にからめ取られた愛しい人を自分の手に取りかえすために、彼は自分自身の物語を解き放つ。