幕間 イアトス

 その知らせを告げられたときにイアトスを支配した感情は、信じられないでも信じたくないでもなく、信じてはいけない、だった。そう、信じてはいけないのだ、そんなバカげた話を。
「イアトス……」
 父親のディルケスは悲痛な面持ちで、イアトスの視線から逃げるように目を逸らした。どうして、そんな表情をするのだろう。厚い靄に覆われた心が辛うじて浮かべた疑問を、脳裏で紡ぎ出す。まさかこの偉大な父親が、イアトスが尊敬してやまない父親が、あんなバカげた話を信じているとでもいうのか。あろうことかミュゼが死んだなどという質の悪い冗談を真に受けて、そんな表情をしているとでもいうのか。
 食卓には、手つかずのまま湯気をたてることをやめた紅茶が三つ。一つはイアトスに、一つはディルケスに、そしてもう一つはいきなりやってきてはミュゼの死を告げた、ミュゼの祖父のために用意されたものだ。よく見知った顔のはずなのに、なんだか今日はまるきり別人のように思えた。他人を装ってまでイアトスを騙そうとしているのかと思うと、声をあげて笑いたくなった。
「……ミュゼに会ってくる」
「イアトス」
「バカみたいな冗談はよせって、文句を言ってくる」
「イアトス、やめろ」
 勢いよく立ち上がって食堂の出口へ向かおうとしたイアトスの前に、ディルケスが回り込んだ。イアトスの肩に両手を乗せると、何かを言いたげに唇を開く。だが、言葉が続けられることはなかった。うなだれるディルケスの背中が、小刻みに震えている。背の高さが同じだねと、いつだったか二人を見比べた少女は驚嘆の声をあげた。あの日からイアトスの背丈は変わっていないし、ディルケスもまた然りだ。それなのに今、目に映る父親の姿は信じられないくらい小さかった。あるいは、自分も同じように見えているのかもしれない。
 身体から力が抜けるのを感じた。支えきれなくなった膝はいともたやすく折れて、イアトスはその場に崩れ落ちた。肩を押さえつけていたディルケスは慌てて引き上げようとするが、遅かった。
 本当は、わかっているのだ。頭では恐ろしいくらいに鮮明に理解しているのだ。だからなおさら、こんな話を信じてはいけないのだった。

「イアトス様」
 使用人の女の、哀れみを含んだ声がひどく耳についた。そんな風に自分の名を呼ぶなとわき上がる怒りは、しかし言葉になることはなかった。
「お食事、ここに置いておきます」
 食器が触れあう甲高い音が、扉の外からくぐもって聞こえた。どうせ手をつけないことなどわかりきっている癖に、と苛立ちに似た感情が支配する。
 以前であればうるさいくらいに光にあふれていたこの部屋が、今はその名残を欠片も感じさせないほど闇に満ちていた。どのくらいここにいるのかも分からない。なんだか生まれたときからずっとこうして、暗闇の中で膝を抱えてうずくまっているような気すらした。
 このまま魂まで抜け落ちてしまえたらいい。そうして抜け殻になって、自分の存在自体をなかったことにできればいい。自分だけが取り残された世界で、自分だけが時を重ねることに一体どんな意味があるというのだろうか。何を考えようとしても、思考はいつも同じ場所に行き着く。出口のない迷宮は、あと何回さまよえば解放してくれるのだろうか。
「イアトス」
 扉を静かに叩く音とともに、侵入してきたのはディルケスの声だった。予想していなかった訪問に、思わず身体がぴくりと反応した。
「イアトス……入るぞ」
 顔を上げる。手に燭台を掲げたディルケスは、イアトスが返事をするよりも前に、すでに部屋の中に佇んでいた。ぼんやりとした小さな炎に照らされたディルケスは、妙に強ばった顔つきでイアトスを凝視する。
「……何の用だ」
 誰とも話したくなかった。家族であるディルケスとて同じだ。言葉を紡ぐことは、魂を削ることを意味していた。内に秘める大切なものを少しずつ削り取って、自分の一部ともいえるそれを誰かに渡すということなのだ。一番大切にしていたものを失った今、その抜け殻のような身体の中には、誰かに渡すことができるような代物など残っているはずもなかった。
「わたしは宮廷魔術師だ。エレンシュラ随一の魔力をもっている」
 扉の前で佇んだまま、ディルケスが低い声で呟いた。
「……それがどうしたっていう」
「すべてを捨てる覚悟はあるか? おまえが今生きているこの世界を、諦める勇気はあるか?」
 ゆらり、と燭台の炎が部屋の壁に怪しく揺れた。ディルケスの言葉を咀嚼し、答えを組み立てていると、瞼の裏が次第に熱くなるのを感じた。
「ミュゼのいない世界で、一体何を大事に抱えていけっていうんだ? 父さん。僕のこの苦しみを伝えられる相手はもういないんだ。どれだけ悲しんだところで、受け止めてくれる相手はもういないんだよ! なのに、なのに僕は……どうやって生きていけばいいっていうんだ? 教えてくれよ、父さん!」
 堰を切るように、言葉が流れ出る。どこにこんな思いが隠れていたのかと自分でも驚くくらいだった。這いつくばるようにディルケスの両足へすがりつくと、道理のわからぬ子供のように大声で泣きわめいた。ミュゼの死の知らせを受けてから、初めて流す涙だった。
「イアトス……」
 ディルケスは燭台を棚に置くと、しゃがみこんでむせび泣くイアトスを抱きしめた。
「おまえの苦しみは理解している。おまえの悲しみを消し去る方法も知っている。そしてそれを成し遂げるだけの力が、わたしにはある。だからイアトス」
 優しく、それでいて確固たる決意を感じさせる声に、イアトスははっと泣きやむのをやめた。床に突っ伏していた顔を上げる。ディルケスのまなじりには、強い意志がにじんでいた。
「わたしとともに、この世界を捨てよう」
 このとき交わした視線が何千年も先の未来を支配することになるとは、イアトスには知るよしもなかった。

 宵のうちに住んでいた家を抜け出すと、永き眠りについたイアトスを抱えるようにして、ディルケスはひたすら北を目指した。馬上で翻る長衣が、風を叩きつけてぱたぱたと音を立てる。
 イアトスを、愛する息子を救いたかった。その一心だった。他意などあるはずもない。生への渇望を、世界への執着をすっかり消し去ってしまったイアトスは、もはや別人といっていいほど変わり果ててしまった。大切に育んできた息子のそんな姿を、平気な顔をして見ていられる父親がどこにいるのだろうか。ディルケスを駆り立てたのは、紛れもなく純粋な親心そのものだった。
 宮廷魔術師として甚大な魔力を操ることができる彼にとっては、何もかもがたやすかった。イアトスに永き眠りの術をかけることも、不老不死の術を施すことも、いともたやすくやってのけた。そして自分自身にもまた不老不死を施すと、エレンシュラの北部を魔力によって支配した。あまりにたやすかったがために、それが決定的な過ちであることに気づく余地すらなかったのだ。
「イアトス……」
 支配した土地の中心に造り上げた白の塔に愛する息子を横たえると、なめらかな頬を指先ですっとなぞった。やや青白くはあるが、安らかな表情に安堵する。突き抜けるような静寂が、ディルケスの鼓動を落ち着けた。
「イアトス……」
 祈るように、彼は息子の名を呼び続けた。答えを期待しているわけではない、ただ愛おしさのあまり、声に出さずにはいられなかったのだ。
 魔力がこの地を覆っている限り、彼らの平穏が乱されることはない。白の塔には、とりわけ強い結界と、人を惑わす幻影の術をかけた。簡単に塔の存在を見破られはしないし、仮に見破られたとしても、許された者以外が立ち入ることはできない。誰に邪魔されることも何に阻まれることもなく、イアトスが再び目覚めるその日まで、ひたすらこの静けさと対峙していられるのだ。
「ああ、ミュゼよ……」
 くるくると動き回っては弾ける果実のような笑みをこぼす、褐色肌の少女の名を呼んだ。イアトスが狂おしいほどに愛した少女。誰にも何も告げることなく、この世界から姿を消してしまった少女。
 だが、ディルケスは知っていた。なぜ知っているのかもどこで知ったのかもはっきりしないのに、その事実が確かに存在している、それだけは確信していた。
 目を閉じて、天を仰ぐ。瞼の裏側に描いたのは、いつ訪れるのかわからない、しかし確実に訪れる遠い未来の光景だった。
「いずれあの娘は生まれ変わり、我々のもとへあいまみえるだろう。惹かれあう二人の運命は、時の隔たりなどに歪められやしない。だからそのときまで、そのときまでどうか息子をこの姿のまま……」
 すべてはここから始まった。