7章「憧憬の果て」-01

 エルセにあてがわれた居室は、広くはないが人ひとりが生活するには十分な、日の当たる小綺麗な部屋だった。石の床には毛足の長い白い絨毯が敷かれており、踏み込むと足の裏を優しく包み込む。まるで、雲の上でも歩いているような心地にさせる。窓から吹き込む風になびくカーテンは、瀟洒な模様が編み込まれていて薄く透けている。寝床と小さな棚、設えられた家具はそれだけだった。
「ここで、またお兄ちゃんと暮らせるのね」
 浮ついた表情で目を輝かせながら、エルセはまるで何かを披露するかのように両手を広げた。案内役を務めたカティーエは今日はやけに言葉少なで、今も部屋の入り口で表情を曇らせている。
「カティーエ、ありがとう。あなたがいなければあたしはここまで来れなかった。本当にありがとう」
 くるりと軽快な所作で振り返ると、エルセはカティーエの手を取った。きらきらと光を瞬かせる瞳はあまりにも澄み切っていて、エルセの存在自体が幻なのではないかとすら思わせる。まるで実体を持ったかのようなまっすぐな視線に刺し貫かれて、カティーエは眉間に皺を寄せた。
「エルセ……」
「カティーエ、あたし今、本当に幸せ」
 カティーエをしっかりと見据えながら、それでいて彼女のことなどまるで見ていないかのように、エルセは微笑む。カティーエは背筋がぞっと寒くなった。
「ねえ、お兄ちゃんはどこ? お兄ちゃんに会いたい」
「エルセ、あなたは……」
 出掛かった言葉をぐっと飲み込むと、カティーエは背を向けて歩き出した。後ろをエルセがついてくる。イアトスが眠っていた白の広間を中心に据えて、外周を取り囲むように部屋が並んでいる。窓のない廊下。この塔の他の場所と同じように、白に塗りたくられている。見慣れているはずの日常なのに、なぜだか足取りが重かった。
 やがてある一室の前で立ち止まると、振り返ることを躊躇するカティーエのことなどまるで気にかけることなく、エルセは心得たように扉に手をかけた。
「ありがとう」
 ふわりと溶けるような笑顔を浮かべると、エルセはそのまま部屋の中へと吸い込まれていった。男性の驚いたような声が、開いた扉の隙間から飛び出す。ディルケスでも、祭司の男性のものでもない、もっと若い青年が恋人に語りかけるときのような、甘い響きを含んでいた。カティーエは立ち尽くしたまま、唇を噛んだ。
「エルセ……」
 つい先ほどは声にできなかった言葉を、ぽつりと呟く。
「あなたは、これでいいの?」
 閉ざされた扉の向こう側には届いているはずもない、と知りながら。

***

「ミュゼ!」
 いきなり入ってきた人物の姿を認めるや否や、イアトスの表情はぱっと輝きに満ちた。永き眠りから目覚めて一晩が経った、さわやかな朝だった。紅茶を飲んでいた手を止めて立ち上がる。
「お兄ちゃん!」
 後ろ手で扉を閉めると、エルセは満面の笑みを浮かべてイアトスへと駆け寄ってきた。勢いよく飛び込んでくる愛しい少女のことを、しかと抱き留める。華奢な身体つきも柔らかな髪も伝わってくる体温も、何もかもが昔と変わりなかった。胸にうずめた顔を引き離すと、両手でエルセの頬を包み込む。肌の色だけが、よく見知ったそれとは異なる気がした。
「ミュゼ、体調でも悪いのかい? なんだか妙に白い」
 問いかけられた少女は、言われた意味がわからないとでもいうように首を傾げる。その仕草もまた、イアトスの記憶とぴたりと重なった。
「ううん、あたしは元気よ」
「そうか。ならよかった」
 イアトスはそれ以上の追及をやめて、再びエルセの髪を抱いた。この温もりが、ずっと欲しかったのだ。眠っている間の記憶はないが、まるで荒野をさまよう旅人が水と食糧を求めるかのように、イアトスの身体を作り上げているすべての部分がこの少女の存在を渇望していた。二度と離すまいと、抱きしめる腕に自然と力がこもる。
 二度と、あの絶望を繰り返しはしない。折れてしまいそうな華奢な身体を包み込みながら、イアトスは瞳をきらりと光らせた。ずっと続くはずだった日常の先が突如崩れ落ちたことを知ったときの、あの虚しさ。どれだけ声をあげて喚こうと、決して動かせぬ現実。しかも、それを受け止め、共に乗り越えてくれる相手もいないのだ。暗澹たる気持ちが雨雲のようにわき出てくるのを、しかしイアトスは即座に振り払った。部屋に満ちる光はどこまでも暖かく、腕の中には愛する人がいる。
 繰り返していいのは、ここまでだ。ここから先の未来は、今度こそ二人で紡ぎ上げるのだ。
「ねぇお兄ちゃん。あたし、外に行きたい」
 腕の中の少女が、甘えた声でせがむ。
「あはは、ずっと中にいると退屈だね。だけど、外へは出られないんだ」
「どうして?」
「……僕たちのことをよく思わない人がいるらしいんだ」
 昨晩エルセを別室で寝かしつけた後、ディルケスから教えられたことだった。《白の眠りの日》に婚礼をあげるまで、決して塔の外へ出てはいけないと。塔にかけた幻影の術は、塔から一歩でも出ればたちまち効力を失う。二人を引き離そうとする力がどこから働きかけてくるかわからない、と告げるディルケスの口調は、ほとんど脅しのようでもあった。
「よく思わないって、どうして? 一体誰なの?」
「さぁ? 誰なんだろうね。とにかく、婚礼をあげるまでの辛抱だ。わかってくれるかい?」
 諭すような笑みに、エルセは承伏しかねるとでも言うような不満げな表情を返す。それでもこくりと首を縦に振ると、イアトスはまるで子供を褒めるかのように頭を撫でた。
「そうだミュゼ、僕、甘いものが食べたいんだ。一緒にパイを作ろう?」
「うん!」
 イアトスの提案に、みるみるうちに少女の表情は明るくなった。楽しそうに腕を絡めてくる少女のあどけない振る舞いを横目で見ながら、この幸せを守り抜かねばならない、と強く決意した。