7章「憧憬の果て」-02

 一部始終を見届けたフーリエスは、全身から力が抜けていくのを止めることができなかった。媒介動物を解放すると、硝子板を地面に置いて背後の木にもたれかかる。目を閉じて深呼吸をすると、襲い来る眠気に意識を奪われそうになった。
 鬱蒼と茂る森に不釣り合いな白い塔、百合の花に埋もれて眠る青年イアトス、そして傍らで微動だにすることなく佇む、ディルケスと呼ばれた魔術師の男。硝子板が映したそれらの姿はすべて数千年も前から変わることなく存在し続けてきたのだと、確証もないのに信じ込まされてしまうようないびつな光景だった。
 現れた少女は、軍が捕獲しそして取り逃がしてしまった少女と確かに同一人物だった。横たわる青年は決して彼女の兄などではないのに、まるで操られているかのように青年を求め続ける少女の姿はフーリエスの背筋を凍り付かせるのに十分だった。少女の名とはまるで違う名を、当然のように呼ぶ青年もまた同様だ。誰ひとりとしてねじれをねじれだと認識していないさまに、不気味を通り越して恐怖すら覚える。
 不意に視界の右側で草が揺れ、人影が現れた。ウェルバーニアが偵察から戻ってきたのだ。
「どうでしたか」
 強ばった表情からうすうす結果は感づいていたものの、儀式としてフーリエスは訊ねた。答えはやはり予想した通りで、ウェルバーニアは表情を変えることなく首を横に振った。
「高台から見渡してみたが、影もかたちもないな」
「そうですか……」
 ウェルバーニアは努めて感情を表に出さないようにしている様子だったが、それでも隠しきれない焦りがにじみ出ていた。
 エンペルヘル野を越えてトロイラへと足を踏み入れた二人は、そのまま一睡もすることなく夜通しさまよい続け、そして一晩経った今になっても目的の場所へたどり着けないでいた。ウェルバーニアが自身の手で生を終わらせると息巻いた、二人の居所。ラデュトスが持っていた硝子板は、起動するとともにひとりでに白い塔の内部を映し出した。だが、肝心のその塔がどこを探しても見あたらないのだ。媒介動物の位置を変えて周囲の様子を探ってみても、この辺りにあるはずなのは間違いない。それなのに、視界を埋め尽くすのはどこまでも単調な緑だけだった。
 ウェルバーニアが単独で捜索に出向いている間に、フーリエスにはある一つの予感が浮かんでいた。おそらく、どれだけ探したところで塔は見つからない。国をひとつ作り上げてしまうような魔力の持ち主なのだ。術を使って塔を人目から隠していたとしても、何ら不思議ではない。
 一体、何が始まろうとしているのか。いや、事態は遙か昔にすでに始まっていた。身勝手に流れ始めた歴史は、どんな結末を望んでいるのだろうか。
「イアトスが目覚めました」
 硝子板の向こう側で起こった出来事を、指示された通り克明に伝える。鮮明に聞こえた会話もそのままにだ。硝子板が映す光景は、塔の外から窓を通してのぞきこむ格好になっている。会話など聞こえるとは思えないが、おそらくラデュトスが細工したのだろう。
 フーリエスの報告に、ウェルバーニアは目を細めて辺りを見渡した。来たときと何ら変わらない、清閑な空気に満ちている。ただ静かであるのではない。魔術師棟の周囲を包み込む森とはまったく異なる、生ある存在がすべて死に絶えてしまったかのような不気味な静けさだった。
「魔力はわずかに揺らいでいるようです」
「そうか」
 ウェルバーニアが何を気にかけているかを瞬時に察知したフーリエスは、さっと神経を研ぎ澄ませると言った。イアトスはついに永き眠りから目覚め、少女と出会ってしまった。今のところ異変はないものの、自身が予期した恐ろしい事態がいつ発生するかを気にかけているのだ。
「《白の眠りの日》、か」
 会話の中で出てきた聞き慣れない言葉を、ウェルバーニアはぽつりと呟いた。エレンシュラが定める祭日には、そんな日は含まれていない。彼らの暗喩か、でなければとうの昔に廃止されてしまった祭日なのだろう。いずれにしても、《白の眠りの日》がいつなのかを知ることができない以上、いたずらにこの場所に留まっていることは安全であるとはいえない。
 二人はどちらともなく空を見上げた。灰色がかった雲が、今にも世界を押しつぶそうとするかのように危うげに浮かんでいる。相変わらずの静けさだ。本来ならば空気を伝ってやってくるはずの音も、生の気配も、厚い雲がすべて吸収してしまったのではないかという錯覚すら覚える。
 先に視線を戻したのはウェルバーニアだった。
「捜索はここまでだ」
 淡々と放たれた決断の言葉に、フーリエスの口元は思わず緩みかけた。
 おそらく、魔力保有者である自分は、魔力の渦に巻き込まれたとしてもなんともないだろう。ラデュトスの使っていた光の剣のように害意が含まれているならば話は別だが、ここにはイアトスやエルセもいる。それは考えにくい。気を揉んでいたのはウェルバーニアのことだ。何ら普通に魔術師たちと交流しているとはいえ、一般人には変わりないのだ。まさに頭上の雲がすべて溶けだしてしまうかのように、魔力が流れ出してこの地を覆い尽くすようなことがあれば、無事では済むまい。
 ウェルバーニアは相変わらず表情を保とうとしているものの、心なしか口元がわずかにゆがんでいる。悔しいのだろう、と心中を推し量る。だがそんな彼の気持ちとは裏腹に、フーリエスは心の中だけで拍手を送った。
「ここへ来るまでにいくつか村があっただろう。そこの人間に避難勧告を出せ。わたしはルイネアへ向かってランティールと連絡をとる」
「はい。……その他の者たちはどうするのです」
 当然ながら、ウェルバーニアが指示した以外にも人の住む場所はあるはずだ。
「余力のある限り、できるだけ逃がせ。が、逃げられなかった者たちに関しては、犠牲になってもらうしかないだろうな」
 ごくり、と息をのむ。遠くない未来に何が起きようとしているのかいまだ想像も及ばなかったが、それだけにウェルバーニアの物騒な言葉が突き刺さる。犠牲という言葉が何を指すかなど、考えるまでもない。とうに朽ち果てているはずの存在がとった身勝手な行動が、今まさにこの地へ悲劇を招こうとしている。あまりに途方のない話に、どんな感情を覚えればいいのかもわからなかった。ディルケスという魔術師に憤ればいいのか、あるいは残された者の末路を嘆けばいいのだろうか。揺れるフーリエスの瞳は、木に括り付けた手綱を外そうとするウェルバーニアの姿をぼんやりととらえていた。
「……わたしはまた、目的を果たすことなく逃げ帰ることになるのだな」
 突然、無表情を貫く指揮官の唇から紡がれた言葉は、その内容におよそ似つかわしくない、ひどく淡々としたものだった。まるでフーリエスの存在などあずかり知らぬといった風に、鞍をならしている。鐙に足をかけると、軽々しく背に跨がった。軍服の上着がはらりと翻る様子が、ひどく脳裏に焼き付いた。
「魔術師になり損ねた者ができることなど、しょせんここまでだ」
「え?」
 最後に残した言葉の意味を問いただす間もなく、ウェルバーニアを乗せた馬はやがて森の緑に紛れて消えた。しばらく反響していた蹄の音も、厚い雲へと吸い込まれていくように徐々に小さくなっていく。胸が潰れるような重苦しい白ばかりが辺りを覆っていた。