7章「憧憬の果て」-03

 自身を包む白は、塔に満ちる静謐に似つかわしい。愛する息子と、その妻となる少女がじきに結ばれる、この場所に。純白よりもやや落ち着いた、銀糸の織り込まれた長衣が、自身の存在をこの塔に溶け込ませている。悦ばしい気持ちがしとしとと胸に満ちてゆく。
 ディルケスは姿見の前に腰掛けて、絹糸のようになめらかな銀髪をほっそりと伸びる十本の指でさらりさらりと梳いていた。きたるべき日に備えて、身なりを整えておかなければならないのだ。腕を動かす度に、垂れ下がる長衣の裾が床と擦れあって涼やかな音を這わせる。長年の悲願が達成される瞬間はもう目前に迫っている。もっとも、彼が費やした途方もない年月を表すのには、長年という一言はひどく頼りないのだが。
 砂をこぼしたような密やかな音を立てながら、静かに立ち上がったディルケスの背中で髪が揺れる。部屋の中央に設えられた円卓の側に立つと、杯を取り上げて窓から差し込む光の下にさらした。なみなみと注がれた液体が光を反射して、心地よい陰影を目に焼き付ける。薄紫の唇へと流し込むと、全身を貫くような熱が喉を伝って下っていった。幸福をじっくり味わいながら、ディルケスは心中が驚くほど凪いでいるのを感じていた。
 突然、耳の裏から回り込んできた小さな固い音によって、恍惚の時間はいとも簡単に終わりを告げた。口元まで持ち上げた杯を下ろすと、顔をしかめて来客の正体を推理した。イアトスだろうか。だがイアトスだったら、こんな風に無粋な邪魔などするはずがない。
「ディルケス」
 答え合わせをするより早く、耳朶を貫いたのは子供の声。幼い声色とは似つかわしくない、責めるような響きを含んでいた。ふん、と鼻を鳴らすと、自嘲するように口元をゆがめる。侵入者の気配は扉をくぐり、ゆっくりとディルケスに近づいてきた。背後でぴたりと止まると、時の流れを忘れさせるような沈黙が降り立つ。
 ディルケスは再び杯を持ち上げると、光に透かすように左右に揺らした。液体の織りなす陰影が、めまぐるしく移り変わっていく。さざめき立つ彼の心もまた、波に揺さぶられた水面が複雑な文様を編み上げていた。
「何の用だ、カティーエ」
「あの子をどうするつもり?」
 ディルケスの眉がぴくりと跳ねた。
「ミュゼのことか」
「エルセよ。あの子はミュゼじゃない。ミュゼはもうとっくの昔に死んでんのよ」
 ひどく艶やかに杯を揺らし続けながら、雑音を厭うように顔をしかめてみせる。ここはディルケスの塔なのだ。ディルケスがイアトスとその恋人のために、自身の魔力を削り取って造り上げた場所。他の誰かによって乱されることは、決して許容できるものではなかった。
「名などさしたる問題ではない。魂がミュゼのものである限り、あの子はミュゼだ」
「質問に答えて」
「前に話しただろう」
「ええ、その通りよ。だからもう一度聞いてるの」
 止むことを知らないように鳴り続ける雑音に、ディルケスは持っていた杯を勢いよく円卓に叩きつけた。注がれた液体が、まるで魚が跳ねるように躍り出て指を濡らした。目的を果たしたも同然となった今、舞台には三人以外の役者は必要なかった。
 身体の横に下ろしたディルケスの右手に、白い光が宿り始める。さっと振り返ると、カティーエの姿は思いのほか遠くにあった。いや、小さな身体の前に張られた結界を見るに、ディルケスの意図に気づいて飛び退いたのだろう。鋭い目つきで睨みつけながらディルケスの様子を探っている。
 向かい合ったまま微動だにしない二人。ほんの僅かな動きだけでいとも簡単に崩れ落ちてしまうような張りつめた空気の中、息が詰まるような時間が流れた。
 右手で魔術の形をなし始めていた白い光を、ディルケスはふっと消し去った。場にそぐわない微笑みを浮かべる。大事な場所を、ようやく訪れた平穏を自身の手で乱すわけにはいかないのだ。望みが現実となって手に入るそのときまで、守らなければならない。
 対峙するべき戦意を急に失ったカティーエは訝しむような表情でしばらく様子をうかがっていたが、やがて結界を解いた。
「わたしの望みはイアトスとミュゼの婚姻を見届けること。たったそれだけのことだ。何がおかしい? 息子の幸せを願わぬ親などいないだろう?」
 ディルケスの高笑いが、決して狭くはない白の空間いっぱいに響く。結界こそ解いたものの、カティーエは依然として険しい目つきで自分のことを睨みつけてくる。
 そう、あの忌まわしき日、ミュゼの死を告げられた日から、イアトスの身体はまるで抜け殻だった。暗がりの中でひとりうずくまったまま、食べ物を喉に通して生を維持することすら投げだそうとしていたイアトスを、どうして放っておけただろうか。失意のさなかから救ってやるには、ああするしかなかった。現に、かの少女が現れ目覚めた後のイアトスは生気を取り戻したように輝いている。愛しい人を見つめる、あの優しくて柔らかいまなざし。そんなイアトスを見つめているときの自分も、きっと同じ目をしているのだろう。
「おかしいわ」
 過去と今の間を漂っていた思考を、カティーエの声が中断する。
「イアトスの悲しみは、イアトスが自分で乗り越えるべきだったのよ。ミュゼの死を受け入れて、前に進まなければいけなかった。それをあなたは阻んだのよ。イアトスが立ち上がるための機会を、いともたやすく奪ってしまった。この土地と、土地に暮らす人たちを犠牲にしてまで。あなたは」
「気安く息子の名を呼ぶな!」
 思わず掲げた右手から、球形の光が飛び出した。魔力の結晶である光の球はカティーエめがけて空気を切り裂くように飛んでいく。だがカティーエはまるでそれを予期していたかのように、素早く身をかわす。翻る服の裾を球がかすめた。
 ディルケスは舌打ちをした。掲げていた右手を下ろすと、深く息をつく。
「おまえのような落ちこぼれに何がわかる。秘島で死にかけの汚物だったおまえを拾ってやった恩義をまさか忘れたわけではあるまい? もう一度送り返されたくなくば、大人しくわたしの駒になっていればよい。それとも、あのおぞましい地で朽ち果てることをお望みかな?」
「そうね、そっちの方がいいわ。ここにいたって自分が狂ってしまうだけだもの」
「貴様……」
 奥歯に力がこもる。自分の歯ぎしりの音が妙に頭に響いた。今度は意図して、右手に魔力の剣を生み出した。事を荒げては、せっかく仕立て上げた舞台が台無しになってしまう。だがそれ以上に、目の前で生意気な口をきく子供の存在がこの場所にふさわしくないと判断したのだ。汚れなき白以外の色などここには必要なかった。
 反逆者に向かって刃が放たれようとしたとき、扉の外から聞こえた声がすんでのところでディルケスの動きを止めた。はっと我に返ったように声のした方を見やると、魔力の剣をあわてて消し去る。
「父さん」
 開いた扉から顔をのぞかせたのはイアトスだった。今までのやりとりを耳にしたのかしていないのか、きょとんとした顔でディルケスとカティーエを交互に見比べている。
「イアトス、どうした」
 ディルケスが返答をすると、イアトスはするりと部屋に入ってきた。そのままディルケスのところまで来ると、円卓に置き去りにされた杯を目ざとく見つけた。杯を手に取って、興味深げな様子で眺め回している。
「へえ。ずいぶん凝った装飾がされてるんだな」
「昔、腕のいい職人に作らせたものだ。おまえたち二人の分も用意してある。婚礼で使う誓いの杯だ」
 先ほどまで部屋の中を満たしていた、張りつめた物騒な空気はすっかり一変していた。まじまじと見つめる瞳、しとやかな唇が紡ぎだす痺れるような甘い声、すらりと伸びる指、大地をしっかりと踏みしめる足。紛れもない息子の姿に、ディルケスの表情は綻ぶ。
「そうだ、父さん。婚礼のことでちょっと相談があるんだけど……」
「なんだ?」
 問い返しながら、ふと思い出したようにカティーエの居場所を見やる。いつの間にか、彼女は姿を消していた。半開きの扉の前で、一貫して強気な態度をとり続けていた少女の残像を幻視しながら、ディルケスは妙な胸騒ぎを覚えていた。