7章「憧憬の果て」-04

 カティーエは足の裏を床に叩きつけるようにしながら、まっすぐと前を見据えて廊下を歩いていた。幼い外見にはおよそ似合わない皺が、眉間にくっきりと刻まれている。足を踏み出す度に、かつかつと硬い音が白一色の空間で窮屈そうに響いた。
 これ以上、好きにはさせてはならない。狂気にとらわれたあの男を。
 ふつふつとわき出る憤りを隠すこともせずに、カティーエはひたすら目的へと向かって突き進む。
 秘島――言葉を聞いただけで身の毛のよだつようなおぞましさが生々しく想起される、あの場所。魔術師となれなかった魔力保有者が行き着く果ての、肥溜めのようなあの場所に、カティーエは確かにいた。暮らしていた、などとはとても表現できない血みどろの日々は、さながら底のないぬかるみの中で繰り広げられる戦場だった。
 統治者のいない、陸地からも隔絶された無法地帯に送り込まれる落ちこぼれの魔力保有者たちは、なまじ魔力をもっているだけに他人を傷つける手段に欠くことがない。無秩序に繰り広げられた殺戮という名の遊戯の果て、力の強い者や他人を巻き込む力をもつ者がおのずと支配力を握った。生き残りたくば、彼らのいずれかに絶対服従するか、新たな勢力として君臨するより他に道はない。だが、カティーエはそのどちらも選ばなかった。選びたくなかった。それが、魔術師になれない落ちこぼれだと判断された彼女に残された、最後の矜持だったからだ。
 肉食動物のひしめく荒野にひとり放り出されたも同然の状態で、生き抜くことはすなわち逃げ延びることと同義だった。カティーエ自身も魔力をもつとはいえ、とても太刀打ちできるような数ではなかった。日付の感覚すらままならない中、いくつの昼夜が自分を取り巻いていたのかも定かではない。どうやって死地をかいくぐってきたのかさえ覚束ないまま、ディルケスの言うように汚物としかたとえようのない状態で転がっていた彼女の前に、白の長衣を纏った男がある日いきなり現れたのだ。秘島にいては決して叶うはずのない小綺麗な身なりに、外からやってきた人間なのだとすぐにわかった。
「わたしの主に仕える気はないか」
 その問いかけの意味を深く考えることもなく、二つ返事でついていってしまったのが大きな誤算だったのだと、今ならはっきりと言い切ることができる。
 カティーエは唇をかんだ。
 白の塔に連れられてすぐに、ディルケスの野望を聞かされた。カティーエに課せられた使命を言い渡されたのもそのときだ。あのときは、何もわかっていなかった。しくじって再び秘島へと捨てられるのを恐れる一心で、ディルケスに言われるがままエルセを探しだし、白の塔へと連れてきた。白の広間でイアトスと対峙したときの、まるで別人を思わせるようなエルセの様子に戦慄を覚えて初めて、自身の犯した取り返しのつかない過ちに気がついたのだ。
 婚礼をあげてしまえば、トロイラの国境として機能していた強大な魔力が凶器となって世界を覆い尽くす。いやしくも同じ魔力をもつ者として、その結末は容易に導き出すことができた。意志によって支えられているトロイラと呼ばれた国は、志の達成とともに崩れ去るのだ。だが、結果としてこの世界がどういう様相になり果てるのかは、想像するだけでも目がくらみそうになる。
 取り返せないのならば、清算するしかないのだ、今すぐに。エルセがとらわれている幻想から解き放たれ、再び自分の意志で歩きだすことができるように。決して婚礼などあげさせてはならない。とりうる道はそれしかなかった。
 エルセの部屋の前で足を止めると、控えめに扉を叩いた。部屋の中から駆け寄ってくるような気配がする。
「お兄ちゃん!」
 勢いよく開いた扉からのぞいたエルセの表情は、果実のみずみずしさを思わせるように明るく輝いていた。だが自分を訪ねてきたのが予想と異なる人物であると知るやいなや、瞳に宿った光は急速に消え失せた。あまりの変化に、カティーエは胸に鈍い痛みを覚える。
「ちょっといいかしら」
 扉の縁にかけられたエルセの腕の下をするりとくぐり抜けて、カティーエは部屋の中へ滑り込んだ。はなから返事など期待していない。いきなりやってきた闖入者に怪訝な視線が向けられているのを肌で感じ取りながら、窓の下まで進むとくるりと振り返った。
 白で統一された部屋。薄気味悪いほど整然とした室内からは、生活感のかけらも見いだすことができなかった。空っぽの棚と整えられた寝床だけがあるこの空間で、いったいエルセは何を考えて過ごしているのだろう。扉に手をかけたまま傍らに佇むエルセの姿が、ひどく痛々しく映った。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。あなたを無理矢理ここへ連れてきたのは、紛れもない私だった」
「カティーエ? どうして謝るの?」
 エルセは首を傾げた。
「この間はああ言ったけれど、私が間違っていたの。――あなたはミュゼではない」
「どうしたの? あたしはエルセよ」
 言われている意味が本当にわからないといった様子で、紡がれた声が含んでいる響きは無垢だった。雲のような白い絨毯を渡って、寝床に腰掛ける。口元に笑みを、瞳に期待のまなざしを浮かべながら。
「エルセ、ちゃんと聞いていて。彼はあなたのお兄さんではない。あなたはここにいちゃいけない」
 きっとその笑顔を消してしまうのだろう、と突き刺さるような痛みをこらえながら、カティーエは忠告めいた言葉を放つ。それが届くやいなや、予想したとおりエルセの表情は一変した。
「どうして? お兄ちゃんはお兄ちゃんよ。大好きな、あたしだけのお兄ちゃん。ようやく会えたのよ。ねえ、カティーエ。あなたが連れてきてくれたんじゃない。あたし、今本当に幸せなの」
 次第にうっとりと夢心地になっていくエルセの様子に、カティーエは身が凍えそうになった。さあと血の気が引いて鳥肌が立つのを自覚する。何もかもを放り出してしまいたくなる気持ちを払いのけるように、首を小さく振った。
 ふと、エルセの姿がイアトスと重なった。恋人の死を受け入れられなかった、あわれな青年。いや、受け入れられなかったのではない。時間をかければきっとできたはずなのに、ディルケスがそれを許さなかっただけだ。
 これ以上、罪を重ねてはならない。自分の犯した過ちでエルセを見せかけの幸福に浸しておくわけにはいかない。
「よく思い出すのよ。あなたのお兄さんは戦死した。そうでしょう? 本当はあなたもわかっているはずよ」
「変なこと言わないでよ!」
「目を覚ましなさい!」
 エルセはびくりと肩を跳ね上げたと思うと、何ともいえない表情をカティーエに向けた。悲しみと怯えと落胆が混じり合ったような表情。彼女の胸の奥深くに巣食う病に伝染してしまいそうになりながらも、怯むことなく続ける。
「ここはあなたの居場所じゃない。こんなところにあなたのお兄さんはいない。利用されているのよ、あなたは。あいつの恋人に仕立て上げられているの。婚礼なんてあげるべきじゃない。ここにいるべきじゃない」
 まくし立てるカティーエに向けられた視線は、裏切り者を見るようなそれだった。矛盾は痛いほど理解している。自己の保身でエルセを焚きつけておきながら、土壇場で翻す自分の姿がいかに醜く映っているのかも。それでも、たったそれだけのことで指をくわえて悲劇を待ちかまえるしかない現実を変えることができるのならば、十分だ。
「カティーエ……」
 か細い呟きが漏れる。
「嫌よ、嫌。どうして離れなくちゃいけないの? お兄ちゃんはあたしのお兄ちゃん。あたしだけのお兄ちゃんなのよ。ねえ、どこにいるの……? 会いたい。会わせてよ。お兄ちゃんに会わせて!」
 駄目だ、とカティーエは首を振る。完全にとりつかれてしまっている哀れな少女は、雲の絨毯の上でまるで雷鳴が轟くような剣幕を見せつけた。頬は紅潮し、口元は僅かに震えている。焦点の合わない双眸は、そこはかとない闇へといざなうよう。そこにいるのはかつてエルセであった少女、だった。溢れんばかりの兄への思慕が過去の記憶に完全なる蓋をかぶせてしまって、器だけが残った傀儡。イアトスの恋人として、ディルケスの望みを達するための駒として利用されるだけの存在。イアトスと結ばれるその行為自体が、世界に牙をむく凶器となることすら知らされずに。
 皮肉ね、とカティーエは口をゆがめた。きっと、仲睦まじい兄妹だったのだろう。平穏に暮らしてさえいれば、こんなことに巻き込まれさえしなければ、固く結ばれた絆は互いの身を助けたのだろう。だが、巻き込まれてしまったばっかりに、かえってそれが仇となった。すり替えられた絆はいまさら外すことも叶わず、エルセの意識もろとも押し殺してしまった。
 それならば、とカティーエは壁にもたれかかっていた背を離した。だからといって、あの狂った男を野放しにしておくわけにはいかない。脅威は目前に迫っているのだ。
 エルセの部屋を出て後ろ手に扉を閉めると、のしかかるような静寂。よく見知った静寂だった。もとより住んでいる人間に対して建物が大きすぎるのだ。廊下を歩いていても、誰かの気配を感じることの方が少ない。
 ――《白の眠りの日》。成就させはしない、絶対に。
 カティーエの瞳に鋭い光が宿った。