7章「憧憬の果て」-05

 ミュゼは、自分に涙を見せることなどほとんど、いやまったくなかった。そう、自分はミュゼの泣き顔を知らないのだ。いまさらのように思い当たった事実に、イアトスは目を細めた。
 それなのに、目の前の少女は泣いている。小粒の滴が音も立てることなくなめらかに頬を伝っていく。初めて見せてくれた泣き顔だと、不謹慎ながらイアトスはじわじわとわき出る感慨をかみしめた。正直なところ、常に笑顔を崩さない様子を少し心配していたのだ。気を使って明るく振る舞ってはいるが、その内で大変なものをため込んでいるのではないか、と。
 三人で夕食を済ませたあとの、空の藍が次第に濃くなっていく夕暮れ時だった。ディルケスは早々と自室へと戻ったが、エルセとイアトスはどちらともなく食堂に留まっていた。向かい合う格好で座りながらとりとめのない話を交わしているうちに、いつの間にかエルセの瞳に涙がたまっていることに気がついたのだ。
「ミュゼ」
 イアトスは椅子をなぎ倒さんばかりの勢いで立ち上がると、エルセの隣へと腰掛けた。視線を食卓に落としたまま、静かに涙を流し続ける少女の肩をそっと抱く。
「ミュゼ、どうした」
「……お兄ちゃん。お兄ちゃんは、お兄ちゃんよね?」
 震える唇が紡いだ問いかけに、イアトスは目を丸くした。
「どうしたんだい。ぼくは、ぼくだよ。きみはきみさ、ミュゼ」
 イアトスは指先でエルセの髪を梳いた。手のひらを包み込むようなふんわりとした感触が、さざめき立つ心を優しくなだめる。どうしてそんなことを訊くのかわからなかった。だが、まもなく二人は夫婦となるのだ。喜びも悲しみも分かち合わなければならない。だから、妻となる少女が何かに苦しんでいるのであれば、そっと手を差し伸べてやるのが務めだ。
「お兄ちゃんは……本当のお兄ちゃんだって。本当のお兄ちゃんはもう、死んでる、って。あたしはここにいてはいけない、って」
「誰が言ったんだ、そんなこと」
 思いもよらない発言にイアトスは思わず語気を強めた。自分たちのことをよく思わない者がいる、とディルケスに言い聞かされたときのことを思い出す。まさか、外部ではなく塔内にいるとでもいうのか。目覚めてから顔を合わせたことのある者の顔を、順番に思い浮かべる。
「カティーエが……」
「カティーエ?」
 名を聞かされても、すぐにはぴんとこなかった。少し考え込んだ後、脳裏に姿を現した姿はまだほんの女児だった。ろくに物もわからぬような年齢であるはずの子供が、一体どうしてそんなことを言えるだろうか。ただの戯れ言だろう。拍子抜けしかけたところで、イアトスはふと思いとどまる。そういえば、子供らしからぬずいぶんと老成したまなざしをしていると印象を抱いたものだった。纏っている雰囲気からして、おそらく魔術師かその卵だろう。父親のディルケスとどことなく似通っている。
 イアトスは眉間に皺を寄せた。
「カティーエが言ったのか? ぼくが死んでると。ぼくたちを引き離そうとしたんだね?」
 こくりと弱々しくうなずく。イアトスはぞくりと背筋に冷ややかなものが垂れていくのを感じ取った。
「ミュゼ、大丈夫だ。だから落ち着いて。ぼくは決してきみのもとを離れやしないし、放しもしないよ。それにぼくたちの後ろには父さんがついてる。エレンシュラで最強の魔術師だと呼ばれてた父さんだ。ミュゼ、きみは何も心配することないよ」
 そう、心配することなど何もない。最愛の恋人のことを、頭から包み込むように優しく抱きしめた。その華奢な腕に、エルセはぎゅっとしがみつく。
 言葉はないけれど、この温もりがすべてを伝えてくれるはずだ。イアトスはきっと前を見据える。その瞳に一瞬、ほの暗い光が走った。――きみは、ぼくの傍で笑っていてくれればそれだけでいい。きみが不安に思うことは全部、ぼくが取り除いてみせるから。

***

 緑ばかりがあふれる森を、一体何周したのだろうか。いや、何周と表現するのは間違いだ。今歩いている道が、すでに通った道であるかすらおぼつかないのだから。堂々巡りする彼のことをあざ笑うかのように、透き通るような晴天はたちまち分厚い雲によって姿を消し、薄暗い視界には針のような雨が降り注ぎだした。
 大地を穿つ硬い音があちらこちらから彼の耳めがけて飛び込み、彼の不安と焦りを増長させる。砂の塊を投げつけられたような痛みが、むき出しになった肌を襲った。どこか、雨よけになるような場所を探さなければ。だが周囲を見渡してみても、辺りは一面の緑である。屋根のある建物はおろか、岩場の類すら姿を現す気配が一向に感じられない。随所にぬかるみを作りはじめた泥道をそれて、彼は緑の屋根の下へと潜り込んだ。降りかかる雨の冷たさは依然として変わらないが、頭上に覆い重なる葉が障壁となって痛みはほとんど感じなくなった。適当な木を選び出すと、ごつごつと隆起した根元へと座り込む。
 身体を落ち着けて初めて、ずっと口を開いたまま息をしていたことに気がついた。喉が乾燥して、思わずむせかえりそうになる。体力には自信があったが、目的を探し出す見通しも立たぬまま前に進み続けることは思いがけず彼の心身を蝕んでいたようだ。いっそこのまま静観を決め込んでしまえば、と萎える気力が彼に囁きかける。もちろん、そんな甘言に屈するつもりはないのだが、それにしたってこれからどうすればいいのだろうか。
 途方に暮れながらも、彼は背負っていた荷物を下ろした。町で買い込んだ食糧もずいぶん少なくなっていた。そのうちの一つを取り出してかじる。焼き菓子のようなそれは、甘みを口いっぱいに充満させながら彼の頬を溶かした。
 そうだ、こんなところで立ち止まっている場合ではないのだ。かけがえのない愛しい存在は、今もどこかで自分を欲しているはずなのだ。気力などという自分だけのものでしかない都合に振り回されていてはいけない。失ったものの大きさは計り知れないが、エルセを取り戻すことができれば十分だった。どこか遠い土地で、ささやかな生活を送ることができるのならばそれでいい。思い描いた未来の光景が、彼の奮起を促した。荷物を背負い直すと、重い身体を起こす。
 茂みが揺れたのは、気のせいだろうか。立ち上がろうとした彼は動きを止めて首をひねった。雨に打たれて、木々は絶えずざわめいている。だが視線の先で揺れ動くのは、それとは明らかに異なっていた。
 彼は素早く木の幹に隠れると、肩にかけた弓を手にとった。厄介な相手じゃなければいいが、と祈りながら神経を研ぎ澄ます。矢をつがえる手が、雨に体温を奪われたためかうまく動かない。彼は小さく舌打ちをした。
「そんなに警戒しないで」
 聞こえたのは、まったく思いがけず女の声だった。それも、まだほんの子供のだ。弓を持つ手は下ろさずに、首だけを覗かせて様子をうかがう。
 茂みの向こうから現れたのは、やはり幼い少女の姿をした人物だった。濡れた髪が顔に張り付くさまは、痛ましさを漂わせている。彼は訝しげに目を細めてみせた。
 少女は木の幹を隔てたちょうど向こう側で立ち止まった。警戒するなと言われたところで無理だろう。あどけない容姿がよりいっそう猜疑心をかきたてる。
「私はあなたの味方よ。少なくとも、同じ志をもっている」
 彼の思いを察知してか、はっきりと言い聞かせるような声だった。
「どういうことだ」
「ディルケスとイアトスを殺しにきたんでしょう?」
 彼は目を見開いた。信じられないといった視線を少女に向ける。幼い子供の口からさも当然といったふうに物騒な言葉が飛び出したことに、そしてそれが的確に正解を言い当てていることに。一体、この子供は何者なのかと、彼はこっそりと矢をつがえ直す。味方を装った敵でないとは言い切れない。
 外見はいたって普通だ。雨に汚れてしまっているが、子供らしい白いワンピースを身につけている。町に出ればそこかしこで見かける、ありふれた子供の様子と違うところがあるとするならば、やはり纏っている雰囲気だ。射抜くような視線は、対峙する者がたじろいでしまうような鋭さを含んでいる。こんな視線を十歳そこらの子供が持ち合わせているのかと、彼はあっけにとられた。口をつぐんでいればいるほど彼女を取り巻く空気の濃度が増し、油断すれば取り込まれてしまいそうになる。まるで軍人でも相手にしているようだな、と彼は皮肉をこめた笑みを浮かべた。
 武器の類は持ち合わせていないようだ。そのことを確認すると、彼はようやく木の影から彼女の前へと滑り出た。もしかしたら魔術師なのかもしれないが、だとしたらなおさら隠れても意味がなかった。それでも、指はいつでも矢を放てる形を保ったまま崩さない。
 少女は呆れたように笑った。眉の外側がくいと垂れ下がる。それから右腕を肩の高さまで上げると、開いた手のひらから赤黒い球のようなものが勢いよく飛び出した。少女の頭ほどの大きさのそれは、雨をはねのけ風を切り裂いてまっすぐと飛んでいく。やがて一本の木にぶち当たると、瞬時に炎で包み上げた。一体、何が起こったのか。彼は目を剥いたまま動けなかった。そうしている間にも降りしきる雨の勢いは炎をも打ち負かして、やがてしゅううと気が抜けるような音をたてて火の手は灰色の煙へと姿を変えた。