7章「憧憬の果て」-06

「その矢をしまいなさい」
 相変わらず動けずにいる彼は、たしなめる少女の声ではっと我に返った。視線を再び少女に戻す。魔術師か、とようやく落ち着きを取り戻しはじめた頭で分析する。
 見た目は紛れもなく子供だというのに、まるで彼を叱るような口調には不思議と人を従わせる力があった。そうでなくても、あんな光景を目の前で見せられた後だ。研ぎ澄まされた本能が彼に告げている。逆らうことは命を危険に晒すことになる、と。
 彼は震える手で矢を取り外すと矢筒にしまった。弓を肩にかけると、少女は心得たようにうなずく。
「あなたの命が狙いならば、とっくの昔に丸焦げにしているわ。その方が手っ取り早いもの。そうでしょう?」
 何がおかしいのか、魔術師の少女は口に手を当ててけたけたと笑う。先ほどとどこか様子が違うのは、気のせいだろうか。いや、気のせいではない。まるで野性を解き放たれた獣のような目をしている。今すぐにも逃げ出したい、と彼の臆病な部分が顔をのぞかせる。だが、そうしたところでもっとひどい結末が待っていることは明らかだった。第一、がくがくと震える膝は言うことをまるできいてくれない。
 そんな彼の様子をひととおり見届けて満足したのだろうか、まるで潮の引き際のように、少女は元の冷静さを取り戻した。彼を翻弄して遊んでいるかのようなめまぐるしさだ。
「知っていると思うけれど、この国トロイラはディルケスの意志が作り出してる単なる幻影。たちの悪い遊びみたいなものよ。エルセは、かつてイアトスを残して病死した恋人の生まれ変わり。だから彼らはエルセをイアトスの恋人に仕立て上げて、婚礼をあげて――トロイラを崩壊させようとしている。もっとも、彼らはそのことに無自覚のようだけど」
 魔術師は、雨をも黙らせる力を持ち合わせているのだろうか。早口でまくしたてられた言葉は、雨音に混ざることなくはっきりと彼の耳朶を刺した。
 少女の言ったことは聞き及んでいた内容とほとんど変わらなかった。自分がここまでやってきた理由そのもの、だ。ただ、最後だけは知らなかった。どうしてエルセとイアトスが婚礼をあげることが国の崩壊につながるのだろうか。
 問いただそうと口を開く前に、少女の唇から滑り出る言葉が彼をねじ伏せた。
「私はディルケスに仕える者。仕えていた、と言った方が正確かしら。だから彼らの居場所も、婚礼の段取りもすべて知っている。いい? 一度しか言わないわ」
 頭上でまばゆい光が弾けた。轟く雷鳴。彼はごくりと息をのんだ。
「――元の道へ出て右へ。五つ目の角を右に曲がるの。そのまま突き当たりまで行って今度は左。さらに二つ角を越えたところに、色の違う葉をつけた木々の一帯があるわ。よく見ないとわからないかもしれないから、注意して。それがディルケスが映しだしている幻影の証。本当は木なんて生えていない、まっさらな広い土地に白い塔が建っているだけ。エルセはそこにとらわれている」
「エルセが……」
「そう。だけれど魔力をもたないあなたは、決してその塔を目にすることはできない。塔の中に留まっている限り、彼らや、エルセの姿も同じ」
 雨足がさらに強まる。遠くの方で再び雷鳴が鳴り渡った。告げられた残酷な事実に、彼の表情は曇った。
「人の話は最後まで聞きなさい。あなたを落胆させるために来たんじゃないわ。……一度だけ、一度だけよ、彼らが塔の庇護から這い出て世界に身をさらすときがある。《白の眠りの日》に執り行われる婚礼の中盤、誓いの言葉を述べるときよ」
 少女は言葉を切ると、そっと瞼を閉じた。腕から下がほのかに光り始める。次第に増すまばゆさが彼の目を焼き付ける。視界いっぱいが白い光に満たされて思わず目を閉じた。
 しばらくして光が失われた気配を察知すると、おそるおそる瞼を持ち上げる。少女の両手には、黒い矢が二本握られていた。艶やかな質感をしたそれを、彼はまじまじと見つめた。
「あなたの矢じゃ彼らは射抜けない。結界に守られているから。この矢を使って」
 少女がつと差し出した矢を、戸惑いながら受け取る。細くしなやかな見た目に反して、ずしりとした重量を彼に与えた。これから成し遂げようとしていることの重みなのかと、彼はおののいた。胸の奥から何か熱いものがこみあげてくる。
「はじめにイアトスを、次にディルケスを。いい? 間髪入れずに二人まとめて殺すのよ。未来を欲するのならば、どちらを誤ってもいけない。世界の結末を、あなたに賭けるわ。わかった?」
 ひどく現実感のない、だが現実でしかない言葉が雨に混じって彼に降りかかる。かといって、ためらう理由などどこにもない。もとより彼はそのためにここに来たのだから。それでもいざ具体的な手順を目の前に示されると、自分の覚悟がいかにとりとめのないものだったかを思い知らされる。
 唇を固く結ぶと、彼はゆっくりとうなずいた。
 彼の反応に満足したのか、少女は力強くうなずき返した。微笑みすらも浮かべている。世界の終わりを思わせるような黒ずんだ雲を架ける雷鳴の下、対峙する二人を包み込むのは雨音だけだった。
 別れの言葉はなかった。
 気がついたら少女は目の前から消えていた。まるで夢でも見ていたかのようなあっけなさだ。彼は二本の矢を強く握ると、身体の中身を入れ換えるように深い深い呼吸をした。それから元いた道の方を振り返ると、ぬかるんだ大地に足を踏み出した。

***

「どこへ行っていた」
 夜更けに白の塔へ舞い戻ってきたカティーエを迎えたのは、普段の温厚さからは想像もつかないような険しい表情を浮かべたイアトスだった。暗い廊下の中、燭台の上で揺らめく炎だけに照らされて、まるで別人のようにすら見える。扉を開けるなり立ちふさがるように待ち受けていた彼を、後ずさりしながら上目遣いで見やった。
「別に……。ヴィヴィの様子を見てきただけよ」
「嘘をつくな」
 イアトスの白い手がカティーエの首へと伸びる。身体をかがめてするりとかわすと、腕の下をくぐり抜けようとする。が、イアトスの方が一枚上手だった。カティーエの進路をふさぐように立ち位置を変える。図らずもイアトスの懐へと飛び込む格好になったカティーエの首根っこは、いとも簡単にとらわれた。
「ミュゼに何を吹き込んだ。何を企んでいる?」
 イアトスは首をつかむ指に力をこめながら問いただした。カティーエは歯を食いしばりながら、指をはずそうとする。だが、圧倒的な力の差を前にしては無意味なあがきだった。
「……ちょっとよくわからないわ」
 絞り出された声はひどくか細く、苦しげだった。
「とぼけるな。一度はミュゼを守りきることができなかった。どうしたって消えない絶望を味わった。二度と同じことを繰り返したりはしない。ミュゼは渡さない」
「あの子は、ミュゼじゃない」
 言葉をのせた息が棘となって、喉をひっかく。それでも、むせかえることすら許されない。苦しげに顔をゆがめたカティーエをあざ笑うかのように、イアトスは瞳を大きく見開いた。得体の知れない何かに支配されてしまっているようだ。それはきっとイアトス自身にほかならなかった。かつて彼の中で生み出された悔恨が流れ去った何千年もの時の分だけ増長し、こびりついた枷となって彼を支配し続けている。
「邪魔する者は、排除すべきだ。そうだろう? この場所はぼくとミュゼが結ばれるためにあるのだから。ぼくはぼくの未来を守る。そのためだったら何でもしてみせる。二度と、二度とミュゼを離したりはしない!」
 首を締め上げる力が急に強さを増した。骨がきしむ音すら聞こえてきそうだ。イアトスの爪が肌を裂かんばかりに食い込んで、苦しさに混じって鋭い痛みをも覚える。悲鳴にもならない呻きが、かろうじて漏れ出る吐息に乗って闇の中に反響する。視界の隅から、じわじわと黒い靄が侵食し始めていた。
 これで終わりだ。薄れゆく意識に最後の抵抗をするように、カティーエは心の中で何度も同じ言葉を繰り返した。たとえ自分がこの世から消え失せたとしても、彼に託した望みがすべてを終わらせてくれる。見届けることができなくともわかる。彼なら、彼であればきっと――。
 カティーエは抵抗をやめ、両手をだらりと身体の横へ垂らした。そこからはひどくあっけなかった。視界が闇に埋め尽くされる直前、最後に目に飛び込んできたのは、イアトスの瞳に宿ったまじりけのない狂気だった。
 そこで意識はぷつりと途切れた。

 清廉な光を投げかける月は、まるで罪を暴く断罪人のようにまっすぐと下界を見下ろしていた。その光の下に、しかしイアトスは臆することなく身をさらす。腕に抱えているのは、息絶えた少女の残骸。
 罪があるとすれば、むしろこの少女の方だ。わけのわからない妄言でもうすぐ妻となるべき愛する少女の心を揺さぶった上に、明らかに何かを企てようとしていた。白の塔、自分たち二人を祝福するためだけに存在するこの場所に仕える身でありながら、だ。自分は反逆者に鉄槌を下しただけにすぎない。手荒な方法だったかもしれないが、子供とはいえ相手は魔術師だ。ディルケスの強大な魔力を間近で見続けてきた彼だからこそ、あなどることは自分の身を脅威にさらすことと同義だと心得ていた。
 イアトスは手頃な草むらを見つけだすと、カティーエを放り出した。鋭く目を光らせる月明かりから隠すように、何度か足で転がして位置を調節する。完全に草むらの中に隠れてしまったと判断すると、額ににじんだ汗をぬぐった。顔を上げて、夜空に浮かぶ断罪人と視線を合わせる。煌々と輝く白い光は、まるでイアトスを讃えているようにも見えた。
 すべては整った。邪魔するものはもういない。待ちこがれた未来の確かな息づかいを感じながら、イアトスは静かに目を閉じた。