幕間 リオット

 神託とは、一体何なのだろう。幾度となく考えては答えを導き出せずに埋もれてしまった問いを、それでも考えずにはいられない。
 四日もの間、人が一人入るのが精一杯の狭い部屋に、椅子に座った状態で閉じこめられるのだ。外に出ることはおろか、食事を求めることも、眠ることすら許されない。ただじっと座って、頭の中に響く声を聞き続けるのだ。耳から入ってくる音とはまるで違う。文字通り頭の中で直接響いているとしか思えないような、曖昧でとらえどころのない、それでいて有無を言わさぬ声なのだ。
「妹を助けよ」
 六年前、リオットが二十歳のときに連れてこられたその部屋で、神託なるものはそう告げた。永遠の時を生きるディルケスとイアトスという二人の男が、妹エルセを我がものとしようとしている、と。イアトスのかつて死んだ恋人の生まれ変わりであるエルセを引き寄せ、今度こそ結ばれようとしているのだと。思わず聞き返そうとしたが、声が涸れてしまったかのように口から漏れ出るのは吐息ばかりだった。そんな彼の様子を知ってか知らずでか、神託は頭の中に不穏な言葉を響かせ続ける。
 行動を始めるべき具体的な日取りや方法まで、事細かに神託は告げた。表現を変えながら何度も何度も繰り返し、身体の芯に染み込んでしまうほど注がれた内容はつまるところ、リオットにその二人を始末せよと命じるものだった。
 馬鹿な、と吐き捨てようとした口は封じられ、暴れようとしても手足を縛られていてはどうにもならない。彼にできることはただ一つ、支配されつつある思考に抵抗することだけだ。だが、それも長くは続かなかった。一晩経った頃には身体の疲労、そして空腹に打ち負かされて、彼は単なる傀儡と化した。

 死をも覚悟した四日間が終わると、リオットは軍の治療室で昏々と眠りこけた。目が覚めると、傍に座っていた同僚が水を差し出しながら、そんな彼のことを笑った。神託はエレンシュラ軍に属する限り皆受けるものだ。もちろんその同僚とて同じだ。それなのにどうしてそんな風に笑っていられるのかと問いただしたくなったが、神託の内容を口外することは禁じられていた。
 身体が回復するにつれて、リオットの胸から次第にわき上がってきたのは激しい怒りだった。エルセを死んだ恋人の代わりにして自分のものにするなど、とうてい許せることではない。誰の生まれ変わりだろうと、エルセはエルセだ。どこにでもいる、いたって普通の子供なのだ。まだこの世に生を受けてから十しか年を重ねていない、世界の道理も十分にわからないエルセが、そんな身勝手の犠牲になるだなんてあってはならなかった。守らなくてはならない。彼は拳を握りしめた。エルセの笑顔を汚す者の存在を許しておいてはいけない。一時はあらがおうとした未来が、彼の進路にしかと根を下ろした。
 むろん、根拠などどこにもない。ただ神託がそう告げただけだ。だが、彼の中では確固たる真実として君臨していた。洗脳とも盲信とも違う。神託は、そんな宗教じみた信仰よりももっと絶対的な力だ。普段は超人的な力などまるで信じていなくても、これだけには従わざるをえない、そう思わせる力なのだ。
「エルセ……」
 寝台の上でぽつりと呟いた声は、空をつかんだ。神託とは、一体何なのだろう。その問いに答えを導き出せずとも、すでに時は彼を置いて動き出してしまった。

「エルセ……」
 故郷のものではない空を眺めながら呟いたリオットの声は、六年前と変わらぬ調子だ。トロイラの空はなんだかいつもどんよりと垂れ込めている気がする。ただでさえ萎えてしまいそうな心に拍車をかける。身体を起こさなければという思いは雲の圧力に打ち勝つことができずに、リオットはただ四角い窓に縁取られた濁った空を眺めていた。
 神託の指示どおりに動いたら、気が抜けてしまうほどあっけなくトロイラに潜り込むことができた。捨て戦だと評されていたティテルス防衛戦に自ら志願し、戦闘の混乱に乗じてするりと国境を抜けたのだ。誰かが影でお膳立てしているのではないかと疑ったほどだ。少佐の位を示す特別な鎧を脱ぎ捨てると、血と肉片の散らばった大地に置き去りにした。そうして自分は公式には存在しない人間となった。もちろん、これも神託の指示だ。
 自分の死を告げられるエルセの心中を察すると胸が張り裂けそうだった。今すぐにでも戻って、孤独の中にいるエルセを拾い上げて抱きしめてやりたいと思ったことも数知れない。だがそうしなかったのは、神託のもつ力のせいばかりではない。自分の使命を果たし、世界が正常な形を取り戻した後で、必ずエルセを迎えにいく。職も地位も、この世に存在する権利すらも失った自分のことを、それでもエルセは必要としているはずだ。
 どこか遠い土地へ行って、死ぬまで二人で暮らそう。物騒なことはもうこりごりだ。それはリオットの覚悟でもあり、また途方もない夢でもあった。エルセを縛り付けることになるとわかっていたが、それでも構わなかった。
 彼が持ち合わせていた感情もまた、単なる兄妹愛を超越していたのだ。

 トロイラの人間は、エレンシュラから来たリオットに対して分け隔てることなく接してくれた。というより、リオット自身も両国の人間を見分けることなどできなかった。すれ違う人々の顔立ちはエレンシュラの地を歩く人々のそれとまったく同じであるし、町並みも雰囲気もそれほど変わらない。ここがトロイラだと知らなければ、故郷のどこかの町にいるのだと錯覚してしまいそうだった。
 リオットは初めにたどり着いた町で宿をとると、そこを拠点に自分の標的の居場所を探り始めた。神託は詳しい場所は教えてくれなかったものの、おおまかな位置だけは指し示してくれた。神託を受けてから、六年。記録をしたわけでもない一連の指示をよく覚えているものだと、自分のことながら不思議だった。
 そうして彼の、雲をつかむような追跡が幕を開けた。だが、雲をつかむ方がたやすいのかもしれないと気づくまで時間はかからなかった。一面の森、森、森。どこを見渡してもただただ同じ景色が広がっているだけで、目印となるはずの白い塔は気配すら現さない。それでも、宿に戻るときはどういうわけか一瞬なのだった。
 そして、あの雨の日、彼は奇跡的な出会いを果たしたのだ。

 リオットは矢筒に手を伸ばした。あの日、謎の少女から手渡された二本の矢が確かに納まっていることに、安堵の息をつく。
 結局、彼女は何者だったのだろうか。ディルケスに仕える者だと名乗り、魔術を操っていたのだから魔術師だろう。だが肝心なことは何も言わなかった。なぜ彼の目的を知っていたのか。ディルケスに仕える者でありながら、どうして彼に加担するのか。頭に浮かんだ疑問は、しかしすぐに形を失った。今となっては知ったところでたいして意味をなさない。それよりも――。
 彼はもともと持ってきた矢をつがえると、でたらめな方向へと放った。うなり声をあげながらまっすぐに空気を切り裂いていった矢はやがて、だん、と鈍い音とともに停止した。自分の腕はまだそれほど衰えていない。大丈夫だ、確実にやり遂げてみせる。そう自分に言い聞かせると、再び弓を背負う。
 死んだはずの自分が突然目の前に現れたら、エルセはどんな表情をみせるだろうか。驚くだけでは、きっと済まない。リオットの知っているエルセのさまざまな顔が入れ替わり立ち替わり脳裏をよぎった。
 もうすぐ会えるのだ。もうすぐなのだ。《白の眠りの日》――その日こそが、エルセと自分が新たな一歩を踏み出す日となる。
 リオットは空を見上げた。重苦しい白い雲が垂れ込めて、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。

 こうしてすべての意志は集結した。それらは複雑に絡み合いながら、一つの物語を確かに終わりへと導こうとしている。