8章「眠りの白に導かれ」-01

 突き抜けるような青空には、雲ひとつなかった。生い茂る木々の隙間から漏れ出る柔らかい光が、窓の向こうから朝の訪れを告げている。エルセは無意識のうちに瞼をむずむずと動かし、夢の中から今まさに這い出ようとしていた。
 ぼんやりと見開かれたエルセの瞳は、いきなり飛び込んできたまばゆい光におののいて再び閉じられた。瞼の裏側で光の残滓が踊り狂う。顔を覆うように片腕を乗せると、まるで自身の姿を隠すかのように寝返りを打った。身体を包み込むように敷かれた羽毛が心地よくて、いつまでもこの幸せの中をたゆたっていたいと、夢と現の境界で揺れているエルセの本能が求めるのだった。
 そうこうしているうちに夢の世界は遠ざかり、現実に戻りつつあるエルセはふと、今日が何の日だったかを思い出した。今度は素早く目を見開くと、勢いよく上体を起こして寝台から飛び降りる。寝ている場合ではない。ずっと待ち望んでいた未来が、今日ついに実を結ぶのだから。
 《白の眠りの日》――空を隔てる陰鬱な雲が取り払われる日。何にもさえぎられることのない陽光が自由奔放にその輝きをまき散らし、地上に生きるすべてのものに祝福をもたらす日。
 寝間着を脱ぎ捨てる。気持ちがはやるせいか、いつもより手が滑って着替えに手間取ってしまった。婚礼衣装に着替えるのはもう少し後だ。いつもと同じ服を身にまとうや否や、エルセは部屋を飛び出した。

「おはよう」
「おはよう、お兄ちゃん」
 廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえると思ったら、次の瞬間にはもう食堂をのぞき込むエルセの姿があった。恋人として迎える最後の朝。もう一晩も経たぬうちに、無邪気に目を輝かせるこの少女は自分の妻となるのだ。飲み下した紅茶よりももっと熱い何かが、身体の内側からわき上がってくる。
 イアトスは紅茶を飲む手を止めた。扉へと身体の向きを変えると、招くように両手を広げる。エルセの表情がぱあっと輝いた。
「お兄ちゃん!」
 矢のようにまっすぐ自分へと向かって飛んでくる小さな身体を、イアトスはしっかりと受け止めた。いつもと変わらぬ柔らかい髪を、いつものように腕の中で優しく愛でる。明るい日差しが食堂をまんべんなく照らしていた。目に映る何もかもが、二人の門出を喜び祝福しているような気さえした。
 不安要素はすべて取り除いた。邪魔する者はいない。イアトスの心はまるで今日の空を映し出したかのように、一点の曇りもなかった。
「朝食をとったら、父さんのところへ行こうか」
「うん! ……ねえお兄ちゃん、あたしとっても幸せ」
「ぼくもだよ、ミュゼ」
「でも、今が一番じゃないわよね? これからもっと幸せになるんだから!」
 イアトスは目を見開いて、髪を撫でる手を止めた。それは、いつだったか遠い昔に交わした会話。あのときはとうとうそれ以上の幸せを知ることができなかった。だが、今度は違う。途切れかけた未来が再びイアトスの前へと君臨したのだ。よそ見をすることは決して許されない。ひとときも目をそらすことなく、確実につなぎとめておくのだ。
 大丈夫だ。イアトスは自分に言い聞かせた。愛しい少女は間違いなく自分の腕の中にいて、とくとくと温かい鼓動を伝えている。いや、この鼓動は自分のものだろうか。あるいは、どちらであっても構わなかった。大切なのは、今ここにこうして二人でいること。揺れ動く世界の中で、自分が守り抜かねばならないのはたった一つのことでいいのだ。
「今日はぼくが作るよ」
「わぁ、ほんと? あたし、お兄ちゃんが作る料理とっても好きなの!」
「あはは、そう言ってくれると作りがいがある」
 イアトスはエルセを椅子に座らせると、立ち上がって調理台へと向かった。料理は好きなのだ。二人で暮らし始めたら、交代で食事を作ることにしよう。胸に広げた空想に、自然と口角が上がった。
 やがて、香ばしい朝の匂いが食堂いっぱいに立ちこめた。その香りに包まれながら、二人は深い深い幸福の海に溺れていった。

「おめでとう、と言うのはまだ早いか」
「気が早いな、父さん。でもありがとう」
 まだ婚礼の前だというのに、部屋を訪ねてきた二人はすでに満ち足りた表情をしていた。ディルケスは思わず祝福の言葉をかけたが、あながち間違いではない。前回はこの日を迎えることすらできなかったのだから。
 長い、長い日々だった。一向に姿を現さぬミュゼの生まれ変わりを待ち、深い眠りの底に沈んだままの息子を見守り続けた日々。白百合に埋もれたその表情の、なんと痛ましかったことか。物言わぬ唇はいつも会いたいと囁いていたし、閉ざされた瞼はいつでも恋人の姿を探していた。隔てた年月を考えれば、祝福の言葉が多少前後することくらいは許されてもいいだろう。
「父さん」
 ぼんやりと物思いに耽っていたディルケスを、イアトスが現実へと引き戻した。立ち止まっている時間はない。婚礼を無事に執り行い、愛する息子の願いを叶えてやるのだ。やらねばならないことはたくさんある。
 ディルケスは二人を中央の円卓へと案内すると、手はずを説明し始めた。進行役は祭司がすべて担ってくれることになっている。塔内での式典を終えたら、外へ出て誓いの挨拶をする。固い誓いを結ぶことで、この世界に二人の婚礼を認めてもらうのだ。ディルケスは二人が外に出ている間、結界を見張っていなければならない。外に出てしまったら、幻影の効力が及ばなくなるからだ。エレンシュラ軍がここを見つけだしている可能性はきわめて低いとはいえ、用心しておくに越したことはない。ようやくここまでたどり着いたのだ。今度こそ、やり遂げなければならない。
 向かい合って説明を聞いている二人は、神妙な顔つきでうなずいている。そのあまりに似通った動作は、長年連れ添った夫婦を思わせた。すべてがうまくいく、そんな予感がディルケスの胸を満たした。婚礼を終えて正式な夫婦になった暁には、きっとこの塔を離れて新しい暮らしを始めるのだろう。その手はずも整えてやらなければ。念願叶ったそのとき、自分はどうしようか。白の塔はもう必要ない。どこか違う土地で隠居するのもいい。いや、二人が帰る故郷として残しておくべきなのだろうか。
 またしてもわき道に逸れていく思考を振り払うように、ディルケスは首を横に振った。
「本当に、わたしは気が早い」
「ん? どうしたんだ?」
「なんでもない。こっちの話だ」
 顔を見合わせて首を傾げる二人をよそに、ディルケスは立ち上がった。
「さあ、時間がない。イアトス、ミュゼ、婚礼衣装に着替えるんだ。場所はわかっているだろう? わたしも正装に着替えねばならない。それと食事も。用意がととのったら、広間へ来るんだ。わたしたち三人の悲願を叶えようではないか! ――婚礼だ!」
 ディルケスの声は、まるで白の塔を眠りから呼び覚ますかのようにすみずみにまで響きわたった。イアトスとエルセもまた呼び覚まされたかのように立ち上がると、それぞれの行く場所に向かって飛んでいった。
 その先に輝かしい未来が待ち受けているのだと、誰もが信じて疑わなかった。

***

 快晴と一言で片づけてしまうには惜しいくらいの、一面の青だった。どこまで見渡しても、均一な青色がむらを作ることなく敷き詰められている。自身を地上と隔ててきた疎ましい存在から解放された空は、視線を合わせた者の心の中までをも見透かしてしまいそうだ。喜びも悲しみも、秘めたるよこしまな企みさえも、透き通る青の下では意味をなさない。
 空に見張られた大地の上、リオットは身を隠すかのように森の中でうずくまっていた。《白の眠りの日》の名の通り、雲ひとつない空から照らされる陽光は、彼には少し眩しすぎた。まだ、この世に存在していないはずの人間なのだ。すべてを終えたら、エルセと再び手を取り合うときがきたら、そのときは空の下に歩みでて自己の存在を示そう。魔術師の子供に教えられた、色の違う葉をつけた木々の一帯。そこから少し離れた茂みの中で、日が昇る前から彼は息を潜め続けていた。
 あの子供の言うことを信じるのならば、儀式の中盤、彼らは一時だけこの空の下に姿を晒すはずだ。そのときが最初で最後の機会。はじめにイアトス、次いでディルケス。リオットは確かめるように二本の黒い矢を握る。彼らの張る結界すらも貫くことができる矢。力を込めれば簡単に折れてしまいそうなこの細い二本の矢が、未来をがらりと塗り替えてしまうのだ。リオットの身体は自然とおののいた。
「エルセ……」
 愛する妹の名が、吐息に混ざってこぼれでる。すぐ近くにいるはずなのに、姿を見ることも声を聞くこともできない。彼をじらして面白がっているのではないかとすら思える。見えない塔の中にいるエルセは、今どうしているのだろうか。見知らぬ場所で得体の知れない男にとらわれて、泣いてはいないだろうか。兄に会いたいと願いながら独りの夜をやり過ごしているのだろうか。エルセが進んで婚礼をあげたいと望むはずがない。もしかしたら、脅されているのではないだろうか。
 十六になったエルセは、何かにつけて自分のことを大人だと称した。実際、振る舞いもずいぶん大人びてきたし、家事も上手にこなせるようになっていた。だが、十も年上のリオットから見れば、笑顔からにじみ出る無邪気さは子供そのものだった。
 その無邪気な笑顔を単なる身勝手で縛り付け、支配しているのだと思うと、リオットは腹の底からふつふつとわき上がる感情を自覚せざるを得なかった。
 許すわけにはいかない。このまま野放しにしてはいけない。
 これは、自分に課せられた使命。自分だけが、エルセを救うことができるのだ。リオットは瞳に鋭い光を宿らせながら、ただひたすら息を殺してその時を待った。