8章「眠りの白に導かれ」-02

 午前中に執り行われた式典の余韻はまだ、エルセの胸をいっぱいに満たしていた。どこから呼んできたのか、真っ白な服に身を包んだ楽団によって奏でられる音楽が、広間を華やかに彩った。手を取り合うイアトスとエルセ、壇上で祝言を述べる祭司、その一部始終を穏やかな眼差しで見守るディルケス。ただでさえ窮屈な婚礼衣装が身体をぎゅう、と締め付けているというのに、その深く濃い残り香はむせかえるような苦しさをエルセに与えた。
「大丈夫かい?」
 広間から食堂へと戻ってきたエルセは、あらかじめ用意しておいた軽食をつまんだ。十分にかみ砕いたつもりなのに、飲み下そうとすると息が詰まりそうになる。知らず知らずのうちに表情を歪めていたのか、イアトスが慌てたように声をかけた。
「うん、大丈夫」
 傍らに置いてあった水を喉に流し込むと、エルセはふわりと笑った。
 苦しさすらも幸せに変わりうることがあるなど、これまでエルセは知らなかった。息を吸い込めばはちきれてしまいそうな危うさすらも愛しかった。そうして初めて、およそ現実感のない今日という日が確かに現実のものであると信じられるのだ。
 最後のひとかけらを口に入れて、水を飲み干す。イアトスはというと、すでに食べ終わってエルセの様子をじっと眺めていた。いつもと同じ、自分のことを丸ごと包み込んでくれるような眼差し。思わず広い胸元へと飛び込みたくなったが、せっかくの衣装が乱れてしまう。婚礼が済んだら、思う存分に甘えることにしよう。
 エルセは二人分の食器を脇へよけると、着衣の具合を整えた。ふと、目の前に差し出される手。
「行こうか」
 白日の下へ、永久の誓いをするために。

 一足先に外へ出たのはディルケスだった。結界が脆くなっている部分がないかを確認するらしい。蝋燭の揺らめく暗い廊下は妙に幻想的で、エルセを夢心地へと誘い込む。扉の前には祭司が立っており、エルセとイアトスはその後ろに並んで控えていた。
 身体の横に下ろしていた右手を、ふと温かく柔らかいものが包み込んだ。イアトスの方を向くと、暗闇の中でエルセを見つめる瞳が光を反射してきらめいている。握られた手を、エルセもぎゅうと握り返す。
「愛してる」
 イアトスの唇から紡がれたささやきが、エルセの身体をそっと撫でた。背中に走る、甘い痺れ。あたしも、と言い返そうとしても、言葉がつかえて出てこなかった。握る手に力を込める。壁に並んだ蝋燭のように、身体も心もとろりと溶けてしまいそうだった。祭司はイアトスの言葉が聞こえているのかいないのか、先ほどから身じろぎもせずに扉へ向き合っている。
「行こうか」
 そうしているうちにディルケスからの合図があり、祭司は扉に手をかけた。少しずつ開いていく扉の隙間から、外の明るい光が流れ込む。
 二人は握っていた手を解いた。足並みを揃えて歩み始める。
 目がくらむような眩しさの中へと、ついに二人は踏み出した。

***

 ――エルセ!
 叫びだしたい気持ちをなんとかこらえようと、リオットは隠れている木の幹を爪で引っかいた。立ち上がろうとしたが、長い時間同じ体勢で待っていたため、痺れた足が言うことを聞いてくれなかった。思わず身を乗り出すと、茂みがざわざわと音を立てた。はっと我に返ると、リオットは再び幹の後ろへと姿を隠す。
 色の違う葉をつけた木々の一角が突然消えたと思ったら、どこからともなく三人の男女が現れた。年配の男の後ろに隠れるようにして、そして若い男と連れ立つように歩いている少女は紛れもなく、リオットのたった一人の愛しい妹に違いなかった。
 足を伸ばして痺れが消えるのを待つと、リオットは肩にかけていた弓をそっと下ろした。エルセの隣にいる若い男がイアトスだろう。妙に満ち足りたような表情が憎々しかった。
 ややあって、三人のもとに一人の男が合流し、少し離れた場所に立った。風貌からして彼がイアトスの父親、ディルケスに違いない。年配の男はおそらく祭司だろう。何かを述べているようだが、ここからでは聞き取れない。
 矢筒から黒い矢を一本、素早く抜き取った。
 許してはならない。何の罪もないエルセを犠牲にして、自分だけ満足げな表情を浮かべる男を。
 取り返すのだ。エルセを、愛しい妹を。元の生活には二度と戻れないことはわかっている。だからこそ、これから織り上げていく未来のために、取り返さなければならないのだ。
 矢をつがえる。
 ひときわ大きな深呼吸を一つ、それが覚悟のしるしだった。
 弓を身体の前で構えると、彼は木の影から姿を現した。

***

 光がさらけ出すすべての存在に向けて、祭司が口上を述べる。滑り出るような声は清涼な空気を伝って、どこまでも染みとおっていきそうだった。イアトスとエルセ、二人の永久の愛を証明するために。
 役目を果たした祭司は恭しく礼をすると、二人の前から退いた。代わりに二人は一歩前へと踏み出す。
 おのおのが誓いの言葉を述べた後、口づけを交わすのだ。そうして二人の契りは初めて確かな意味を持つ。初めはイアトスだ。目を閉じて、片手を胸に置く。さらさらと紡ぎ出される芯の通った声が、空の下で響きわたる。
 あらかじめ考えてきた言葉をもう一度頭の中で復唱しようとしたエルセはふと、視界の隅で動くものをとらえた。森の中だ。動物だろうか。だが、塔の窓から外を眺めていても、動物を見かけたことはついぞなかった。
 自分たちのことをよく思わない人がいる、いつだったかイアトスが言った言葉が脳裏をよぎる。婚礼のために、ディルケスが張った結界。不穏な予感がエルセをとらえた。
 イアトスは相変わらず目を閉じたまま、誓いの言葉を述べている。何の疑問も、不安も抱えていない様子だ。エルセは森の中を目を凝らして見た。
 そこに立っていたのは、男だった。それも、ただ立っているだけではない。弓を胸の前で構えているのだ。
 エルセは目を見開いた。自分が見ているものが信じられなかった。
 矢尻は鋭い光を放ちながら、まっすぐにイアトスへと向けられている。その意味するところは明らかだった。驚きと恐怖が入り交じった感情に支配されて、エルセの身体は硬直した。
 ――やめて、やめて。せっかくここまで来たのよ。
 どうして皆、エルセの邪魔をするのかわからなかった。ただ一人の人間として兄を愛し、兄と共に歩む未来を望んでいるだけなのに。誰もが思い描くありふれた未来を、同じように夢見ただけなのに。
 ただ、それだけだったのに!
 男の手元が動いた。空気をかすめるような音とともに、矢は放たれた。わずかに軌道を逸れることなく、標的めがけて飛んでくる。
「やめて! お兄ちゃんを殺さないで!」
 意志を振り絞ってイアトスの前に飛び出したエルセのその胸を、艶やかな黒い矢はためらうことなく射抜いた。

***

「……エルセ!」
 リオットは弓を投げ捨てると、茂みをかき分けて駆けだした。崩れ落ちるエルセを目の当たりにしながら、彼の中では疑問が渦巻いていた。
 どうして、あんな男を庇ったりしたんだ。どうして、自分よりもイアトスを選んだんだ。どうして――どうして、こんなことになってしまったのだ!
 だが、いくら考えたところでもはや手遅れだった。手足をだらりと伸ばして倒れているエルセに気づいたイアトスが、覆い被さって身体を揺らしている。エルセに触るな、と怒りに任せて大地を蹴り上げる足は、恐ろしいくらいに震えていた。ぱきり、と乾いた音を耳でとらえた次の瞬間、リオットは土の上に倒れ込んでいた。震える足がもつれて、落ちていた枝につまづいたのだ。思わず腕を地面に叩きつける。本当はわかっているのだ。ただ認めたくないだけなのだ。怒りを向けなければならない対象はイアトスではなく、自分であるということを。
 額についた土を取り払う間すらも惜しかった。早く、エルセを助けねばならない。素早く上体を起こして立ち上がりかけたリオットの頭上で突如、轟音が弾けた。
 座り込んだまま、顔を見上げた。その視界が、激しく揺れている。いや、視界だけではない。大地が揺れているのだ。震動に耐えられなくなった彼は、再び身を伏せた。轟音は渦を巻きながら地を這うように、彼の耳朶を強く打ち続ける。
 世界は終わるのだ。リオットは予感した。だが、それで構わなかった。エルセのいない世界で生きながらえたところで、もはや何の意味もない。
 頬を伝って落ちた冷たい滴が、土に円形の染みを落とした。
 次第に大きさを増す轟音をも打ち負かすような叫びが、空を貫いた。